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2009-10-04

マージナル・ソルジャーを超えてゆくもの-2


芸術のもっとも基礎的な手法は、対象たる事物をそのイメージに代えることである。イメージであって、概念では決してない。
   -エマニュエル・レヴィナス1948年)-

 さて論を小説『セックスなんてくそくらえ』に再び戻すこととしよう。当該小説はネット上に於いてもまたそれ以外の理由に於いても現在未公開である。故にその概要を以下に簡単に述べて於くことにする。

小説の構成的な流れ:
 妻のマリコに「クレジットカードの支払いもできない金銭感覚のない男」と見限られ、実家に帰られてしまったマサオ(28歳)は、妻に生活費も送らずにその金で女を買いあさるようになる。都内のテレクラ、ピンサロ、ヘルス、ソープで金を使い果たしたマサオは、某掲示板の出会い系板で出会って何度かセックスをした女トモコと一緒に、セックスを商売にして何か始められないかと考える。ついにマサオはアダルトサイトのホームページを自宅のPCサーバーで立ち上げる。題名は「トモコの激ナマ・セックス日記」。トモコは小さいころ受けた性的虐待の影響か、露出狂の気があり、マサオはトモコを説き伏せて顔を隠した写真をホームページにアップロードすることにする。仕事は毎日6時に帰宅するようにして、セックス日記サイトの運営に専念する。マサオはトモコとセックスしながら、その様子を撮影して「トモコの激ナマ・セックス日記」に動画とともに掲載する。トモコの文章はすべてマサオが考えて書いたものだが、意外な人気を獲得し、固定ファンがたくさん来るようになる。やがてマサオのサイトを有料化し、有料会員限定でトモコのオナニーショーを生放送する計画を立てると、トモコのファンが数多く登録し、マサオはこれで相当稼げるとほくそえむが・・・。(以下略)
  -添附ドキュメントを参照し抜粋-

 これから書くことについては未公開小説について書くことになるので、私以外のものがこのエントリを読むことについてなんら想定出来るイメージというものが持てない事を承知している。しかし根底的な領域に於いては「叙情文芸-夏季・秋季号」に掲載された『重力の街』や『太平洋イルカクルーズ』と通底していることも確かである。そういった意味でも一度は通過すべきと思っているので以下簡略に述べていこう。
 六ヶ月前から妻と別居している主人公であるマサオはどこにでもいる一介の派遣社員のひとりとして描かれている。この場合のどこにでも居るという言い様には生活過程における躓きや生への困難性に遭遇するかも知れないという意味も含めて私は言っている。当然ながら小説的な物語をとりあえず仮構するにあたり主人公のバックグラウンドというものも重要な要素のひとつである。それは世界の中にいる主人公をも規定し拘束しうるということにもなり小説の持つ技法手順のひとつでもあるからである。そういう意味では実験的手法を使おうと意識したものはなくオーソドックスな手法を踏まえて物語は展開されてゆく。
 妻と別居したあとマサオが初めて女を買う場面は充分に現代風俗の断片風景を見せていて、これから起こりうるだろうトモコとの出会いの伏線となっている。ここに於いての風俗に群がる男達や女達の風景は寒々としていて主人公マサオの孤独さをよりよく際だたせているといえるだろう。つまり周りの無人格とも言える人々を描くことによって真の生というものに亀裂が入った世界に置かれたマサオの存在を表象している。また中盤に描かれてくるネットワークを介して存在する無名の人々の存在もマサオの置かれている空虚な世界を顕すにあたり必要欠くべからざる存在達である。顔を持たない謂わば舞台空間におけるオブジェの役目を十分果たしているとも云える。また、ただ世界にあるというだけのマサオの魂を描くためにはこの顔の無い存在が必要であったとも言える。
『セックスなんてくそくらえ』は以下のような滑り出しで始まっている。

 静かにうなりを上げるパソコンの画面に開かれたピンク色のホームページに、顔を隠した女の全裸写真が写っている。足を大きく開いた女の股間部分は巧妙に隠され、両手を伸ばして誰かを誘っている様子だ。その肌は上気しており、写真には男を受け入れたあとの気怠さがある。

 ここに描かれているマサオは妻との離婚理由について実感が伴わないまま別居生活になっていると言うことになっているが、これは明らかに生活過程における敗残者としての設定であり、つまり誰でもがそう見るように大衆的な正義というものに敗れ去った男の一人でもあるということを指している。こういう場合いかなる瑕疵もすべてはマサオにあるのであり、味方など誰一人いないと言うことでもある。もはやマサオは社会という掟の中で生きることを許されない男であり、その時点からは人々と異なる風景を見ていかなければならなくなる。そしてこのことはこれっぽちも自分の居場所など無いと言う意識の奥底の襞に潜んでいる深い存在の喪失感をも顕している。認めがたい現実が現実になり何を喪失したかも理解できない男がそこにいるのである。妻から離婚届を入っている手紙を開封しても添えられている妻の手紙を全く読もうとしない仕草にそれは顕れている。たとえ妻の手紙を読むとしてもマサオにとってはその現実というものが逆にリアリティの伴わないものでしかなかったのである。従ってそれは嘗て在ったであろう家庭そのもの自体がやがて無かったかのようにもなってゆく。人間はある日突然見慣れた広がっている風景が自分のものでないとしたら恐ろしいことだといえる。生きているわけでもなく、死んでいるわけでもなく、そのまま異郷に連れられてゆく男がそこに描かれているのだ。買春に群がる男女さえも彼にとって異郷なる風景でしか無く、しかも風景を選ぶ道さえも残されていないと言うことにもなるのだ。
 ここに於いて今後も推敲されうるかも知れない原稿を批判するのは申し訳ないのだが、本人のためにも今の内に言っておかなければならないことがいくつかあるので、まずそれから書き留めておきたい。上記引用部分は段落1の始まりの部分であり、技法的にでもここでこそ一挙に読み手を引き込まなければならないところであるがこの文節表現のところで私はいくつかの意識の裂断に見舞われることになった。それは読み手の像領域が思うように喩として結びつかなかったと言い直してもよい。あくまで個人的な見解でしかないが『静かにうなりを上げる』という書き方で「低い」ならともかく「静か」と「うなり」が直接的にもイメージとして噛み合わないと言うこともあるし『その肌は上気しており』という表現にもはたしてモニター上の女の写真画像に妥当であるかが引っかかってしまったのである。マサオが直接前にしてみる生身の女との違いはあるはずであり本来であれば他の直接的視覚場面で使われる表現方法でないかと思えたからだ。この引用部だけでも細かく見れば粗がありイントロであることを考慮してもう少し丁寧さが必要でありさらに推敲される余地が十分にあるのでははないかと思った。またこの段落1は全体の構成からしても技法的にももう少し長くして段落2、3、4(5?)に繋げたいような気もした。志向性の持続力が中断されない限りもっと濃密に描くことも出来たのではないかと思った。特に持ち込み原稿と考えているならば、こういっては悪いが、一種の手抜きは編集者に一番刎ねられそうな気もしたからである。

  -マージナル・ソルジャーを超えてゆくもの-3に続く-


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2009-10-03

マージナル・ソルジャーを超えてゆくもの-1


作品はありきたりな知覚を延長し、かつ乗り超える。ありきたりな知覚が卑俗化したものや逸してしまったもの、その還元不能な本質を、作品は形而上学的直観と一致しつつ把握する。通常の言語が匙を投げたところで、詩や絵画は話す。このように作品は、現実よりも現実的なものとして、絶対的なものに関する知識を自認する芸術的想像力の威信を証示している。
 -現実とその影-(エマニュエル・レヴィナス:1948年)註1

 根本正午氏を最初に知ったのは2007年初頭頃ではなかったかと思っている。無論会ったこともなく、あくまでインターネット上彼を知ったと言うことにしか過ぎなかった。当時の彼はその頃その持ちうる個性でもってブログ界の一角で確実な読者層を得、またその中にも一部熱狂的な支持者も居たように見受けられた。だが、それは所詮インターネットという広大な海の中の片隅の現象でしかなく「文学以前」と呼ばれるものがあるとしたならば、ある意味ではその多くが彼が対峙していると思い込んでいる世界の位相の軋みの一部を顕したものに過ぎなかった。そして彼のブログを斜めから見ていた私はある日彼が伊豆の修善寺に行った時の心象を描いた『八十八の石碑』というエントリに目がいった。ここで私はようやく琴線上で彼と初めて出会ったのである。彼は修善寺の山中にある弘法大師像の石碑に刻まれた梵字と歌を見るために地図片手に山中を革靴のまま歩くのである。いささか長いがその一部を抜粋してみよう。

  (前略)
僕は山道で見かけた一つの石碑からその存在を知り、すべては無理だが近場だけでも歩いてみようと地図を片手に回ってみていたのだった。
前日に降った雨で落ちた枯葉が土くれの上に貼りつき、足場は湿っていて危険だ。僕は大量のジョロウグモが作った巣をよけながら道を登っていく。
  (略)
足元に注意しながら緩い坂道を登っていくと、林の中に隠れるようにして、二つ目の石碑が見つかった。表面に指を走らせると、文字は岩に描かれているのではなく刻み込まれているのがわかるが、酸性雨だろうか、なんらかの化学変化により表面の色が変わっていて非常に読みにくい。近くに建っていた看板により内容がようやくわかる。
僕は手を合わせるべきなのかどうかわからず、傘を片手に持ったまま考える。高校生のころ、近所に住んでいたモスリムのマレー人が、いつかメッカを巡礼したい、と言っていたことを思い出す。メッカを巡礼した証しである白い帽子をかぶることが彼の夢だったのだった。註2
   (略)
ほとんど消えかけた文字が刻み込まれたこの石くれを拝むために、毎年訪れるという数千人の日本人たちのことを考える。「家内安全、無病息災を祈るのです」と、看板が巡礼者たちのことを説明している。僕には家族などいない、と思い、何に対して手を合わせるべきか逡巡する。ブログを読みブログを書く愚かな自分のためだろうか?
   (略)
答えを出せないままふと脇を見ると、ジョロウグモの巣に、虫がひっかかって死んでいた。僕はそのジョロウグモと、食われるために命を落とした虫のために、手を合わせることにした。いつかこの八十八の石碑すべてをまわってみたい、そう思った。
    -「八十八の石碑」-

 失礼な言いようにもなるがそんなに巧い文であるとは言えない。だが、しかし今考えると判るのだがこのエントリ自体が彼の迷いを振り切ろうとしている象徴であるとも思えた。彼はこの時まだブロガーであったのである。そして敢えて言えば匿名というウェブ界に於ける正体不明のブロガーでしかなかった。この場合の匿名という意味はプロの物書きであるのかどうかが不明であるという意味でしかない。現にブログ界では別名を使用したプロのライターの存在もあるし、その人達のコラムや雑文めいたものを読むことも可能である。また作家と呼ばれる人たちの相当数の方がブログを書いていることは周知の通りである。また作家であるからウエブログのエントリが優れているという保証があるわけでもない。それは単なる個人的な日記録であったり新刊の宣伝の役割を果たすべく広告塔であったりして必ずしも創造的なものであるというわけでもない。それらは原稿料を伴わない世界でもあり、当然といえば当然のことでもあるだろう。
 だから、その時のわたしの根本正午に対する予備知識はブロガーであることだけであった。また今、更にいうならば今回のエントリを書くきっかけと経緯に至ったネット上のメールのやりとりに依って結果的に築くことが出来た相互的な信頼関係だけであった。言うまでもないことであるが一般的にブログに書かれるエントリは読者であるネット・ウオッチャーというものを想定して書かれている。つまり相互的意志の交通手段としての言語が最優先されるということであり、言葉から文体までが書き手自身にもなんら拘束力を持ち得ない世界であることも示している。つまり社会的慣習のもっとも保守的に機能する言語によって書かれているものが大概のブログ文であるとみていいだろう。だがこれには当然大きな問題が残されることになる。つまり書き手の欲望が自らの想像力と抵触し始めるとどういうことが起こりうるのかという事を考えてみればいいと思う。そこには極めて本質的な自己存在の確証への欲求ともいうべき問題に行き着いてゆくはずである。まさしく根本正午はブロガーとしてだけではなく表現者の道を歩み始めたいという欲望に突き動かされてゆくことになる。世界にあるおのれの不可視の存在を視るということは想像力がもたらす世界の構築によってこそ切り開かれる。このことは通常のブログ文ではボーダーを超えることができないと言うことも指している。つまり境界者であるマージナル・ソルジャーから創造者根本正午へ架橋してゆくものはやはり想像的言語でしかなかったのである。
 2007年8月根本氏から彼が初めて書いた小説『セックスなんてくそくらえ』の初稿が郵送されてきた。これが私が読んだ初めての彼の生原稿とも呼べるものでもあった。当小説は25段落に分かれていて400字詰め原稿用紙にして凡そ80数枚によって成り立っていた。いうならば短編領域をわずかに超え中編と呼ばれるものとの中間に位置するもので量としていえば筆力がよく見て取れる分量であるといえるだろう。そしてこの小説はある文学賞に初挑戦した応募原稿だったので公表されていない。詩人井上瑞貴氏が根本氏の第2作目『重力の街』(叙情文芸2009夏)を読み、次の第3作目である『太平洋イルカクルーズ』(叙情文芸2009秋)を読んだ後どこかで呟いた「連作もの」の始まりはこの『セックスなんてくそくらえ』から始まったとも言えるのである。

2に続く

註1:「現実とその影」はレヴィナスが二次大戦後「捕虜収容所」で生き残った後に発表されたものである。ユダヤ人であった彼の親族や近しい者達も含めて多くはすでにかの「絶滅収容所」においてこの世にはいなかった。彼は収容所の中においてモーリス・ブランショから差し入れられた文学書を読み漁っていたが外部の「絶滅収容所」の中で行われていたユダヤ人に対する大量虐殺を信じがたい思いでいた。フッサールとハイデガーという巨大な思想家から多大な影響を受けるも収容所体験をしてハイデガー哲学の批判的立場を持つに至る。人間の持ちうる存在論的テーマを彼独自の「他者論」という展開で現代哲学におよぼした影響は大きい。主著としては『フッサール現象学の直観理論』、『全体性と無限-外部性についての試論』等がある。
註2:言い忘れたが根本正午氏は帰国子女である。

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2007-08-10

幻夢の果て-Edgar Allan Poe-

第Ⅰ章-古典の意義-
 さて、われわれは現代の世界に存在してその世界というものに規定されている。その世界といういわば人間の意識の存在そのものは一種の累積された歴史を土壌とした中に立たされている。つまりその世界に於いてひとつひとつのコギトはいるというように見える。そして更に言えばそれなるコギトのファンデーションとも言えるところに時代の下部に共有されているかのように無意識の領域がある。われわれの意識は好むと好まざるに関わらずその中から形の上では出ることはできないようにも思える。19世紀の思考は19世紀の観念世界のシステムというべきものの上にあるというのは間違いではない。だが一方で言葉は書かれたときからその時代の表現となり、創造された作品はその時代を現す思想となり、想像力によって表現されたものは時代を架橋するものとしてある。だからそれを見ると言うことは19世紀を孤として切り取ることではなく、その探索から得れるものは原始からの言語の累積史を包括したものであり、その時代のエピステーメーを超えて21世紀の現代にフィードバックさせるものになるはずである。
 私にとってのポオは『大鴉』や『海中の都市』を書いた詩人であり、『アッシャー家の崩壊』や『大渦にのまれて』を書いた小説家である。ポオの凡そ波及させた渦はアメリカ本国よりもヨーロッパ、そしてその影響下にあった日本の文学者達に様々な影響を与えたとみていいだろう。また、名前そのものをとった江戸川乱歩は『探偵作家としてのエドガー・ポー』のなかで探偵小説史をなぞらえながら謎とそれを解きうる推理という視点でチェスタートンやドイルなどと比較しながらポオの書いたトリック仕立てについても言及している。無論ここでは探偵小説やミステリィについて論じるものではなく、それはそれで有りであるとは思うのだけれども、どちらかと言えばポオ自身の表現者としての立ち位置から、おそらくゴシック・ロマンとか象徴主義的表現みたいな方向に論が進んでいくものと思われる。また、その昔ポオに接した時の私の意識の奧襞に茫洋として残っていたものに触れてゆくということにもなるかと思う。
 私がポオを読んだのは初めは中学生の高学年の頃だったと思っている。無論、学校の図書館にあった『モルグ街』とか『黄金虫』とかで一種の推理小説の分野にあるものだった。またこの類は意外と早く日本語に翻訳され、そう言う意味では小学校や中学校の図書館に於いて閲覧できうる態勢にあったと思われる。ちなみにポオの翻訳史的なものというか翻訳の年次を橋田久康の『ポオ文献』に拠ってみれば饗庭篁村訳の『西洋会談・黒猫』が明治20年11月、同年12月『ルーモルグの人殺し』ともっとも古い翻訳として挙げてあった。参考までの明治の文人達の訳はというと岩野泡鳴が明治42年「訳注近世英文学」で『大鴉』を、森鴎外が明治43年に「文芸倶楽部」において『うずしお』を訳している。大正になると生田春月、佐藤春夫、西条八十、辻潤などの名前が見え、昭和初期から戦前までに入ると正宗白鳥、江戸川乱歩、佐々木直次郎、日夏耿之介※2、谷崎精二等の名前がある。戦後については中野好夫、福永武彦、吉田健一、阿部知二、丸谷才一となっていて既知の文学者及び英文学者の名前が連なっている。もっとも現代というものを想定すればもっと新しい訳や評論等が出ているのだろうと思える。以上のことを鑑みても日本におけるエドガー・アラン・ポオの位置というものはあるのだということが判るだろう。
 私は先程少年期に於いて学校の図書館でポオに出会ったということを書いたが、そういう年代の頃の出会いというものは結構最後まで残るものだと思うところはある。今回のエントリを書くにあたって我々の先達者の書いたものも少々読み直すことになったが、とりわけ埴谷雄高※3がポオについて書いたものに惹かれるものがあった。少年期のもつ想像力に縁取られた感性にとってポオはどう見えていたのかと言うところに正しくポオがもちうる表現の世界があると言うことが分かる。埴谷はそれを「蝋燭の時期」と名づけている。

その頃、私は私の家のすぐ真裏にあたる一軒の小さな家にひとりで寝起きしていて、何時友達が訪れてきてもいいように、夜中、玄関の鍵をあけておくといった極めて自由な生活をしていたが、真夜中すぎに、どちらかといえば不良がかった友達がやってくると、何時も電燈をつけずに対座した私達のあいだに一本の蝋燭を立てて、その黄色い小さな焔の揺らめきにつれて互いの顔のなかの口元や眼のまわりにできるおおきな陰翳が日頃その相手に思いもかけぬような不思議な物質的凹所を示して無気味に揺れ動くさまを深く味わいあったものである。この下方の角度から蝋燭の光を照らしたときそこに隈取られる陰翳の異様な印象の奧に、敢えていってみれば、人間の暗部に蹲っている原始の邪悪や根だやしがたい暗い頑迷を覗いているような気持ちに私達はなったのであった。
 -「ポオについて」埴谷雄高(ポオ全集月報1963年)-

 今で云うならば真っ暗にした部屋で懐中電灯を下から照らす遊びにも似ている。少年期のこの体験をして埴谷の言うところの「闇への偏奇」だけで表すことの出来ない所以をポオの『ユリイカ』の中でみていて、一種の宇宙論である『ユリイカ』が彼をして「不可能性の文学」と名づけるにふさわしいとこの論の帰着するところで書いている。
 また芥川龍之介のポオに関する講演草稿、つまりメモ的なものなのであるがポオについて的確なところのことを書いていてこれも興味の惹かれるところである。『短編作家としてポオ』と題されたDaniel Defoe※4の作風とポオの作風を比較したこの講演メモは「事実らしく書いてあること」と言う項目を設けていることからポオのファンタジックな部分が内面的に掘り下げることによってリアリティをもっているのかを考証している。またポオが如何にボードレールに対して大きな影響を与えたのかも言及している貴重なメモでもある。

予ハPハ ardent aspiration と cold intellect との特殊なる mixture なりと云へり。彼が近代の大陸殊に仏蘭西に反響多かりしはこの点にありと信ず。近代の仏蘭西文学をつくれるものは二人の American なりと云ふ。且又 Poe の傑作は Baudelaire なりと云ふ。Baudelaire 全集の8中3は Poe の翻訳なり。Bを動かしたるものは何ぞや。予はこの理性と情熱との奇怪なる結合なりと思ふ。
 -「短編作家としてポオ」芥川龍之介(1921年講演草稿より抜粋)-

 日本人作家としてみるところのフランスの象徴派に与えたポオの大きさを強調していて興味深いものがある。

第Ⅱ章-ポオの幼年期及び青年期までの形成-
 エドガー・アラン・ポオEdgar Allan Poeは1809年1月19日旅役者の子としてマサチューセッツ州ボストンの町に生まれた、と阿部保はポー詩集のはしがきで簡単に書いているが「女優エリザ・ポーと俳優デービッド・ポーの息子として生まれた」とするウイキペディアの方が少しましである。ポオについては1930年(昭和5年)に日夏耿之介の「ポオ伝覚書」においてポオその人の出自について触れているがよく読むとこれもどうやらボードレール※5の「エドガー・ポー、その生涯と作品」から引用しているのではないかという節が見える。いずれにしても、であれば、いっそのことボードレールの書いたポーの出自の部分※6を読めば済むと言うことになるのではないかと思う。

 ポオの一家はバルチモアの名門の一つであった。その母方の祖父※7は独立戦争の際に主計総監をつとめたことがありラファイエット※8に高く評価され、またその友詛を得ていた。ラファイエットは合衆国への最後の旅のさいに、将軍の未亡人に逢って故人が彼のためにつくしてくれた数々の奉仕に対する感謝の気持ちを証したいとのぞんだ。曾祖父は英海軍の将官マック・プライドの娘と結婚した※9のであるが、これは英国の一流の名門と姻戚関係にあった。エドガーの父親であり将軍の息子であるデーヴィッド・ポオは有名な美貌の持主であった英国の一女優エリザベス・アーノルドに夢中になった。そして彼女とともに駈落ちをし結婚した。妻と自分との運命をいっそうふかくからまり合わせるために、彼はみずからも俳優となり、合衆国の主だった都市で、妻とともにさまざまな芝居小屋の舞台に上がった。
 -「エドガー・ポー、その生涯と作品」シャルル・ピエール・ボードレール(平井啓之訳)-
 (Poe, Edgar Allan - Sa vie et ses oeuvres)

 このように駈落ち同然だった両親の間の二番目の子としてポオは1809年1月19日ボストンに生まれた。そして1811年ポオが三歳の時にその母親は旅先であるリッチモンドで亡くなり、不幸なことに父はその先立つこと二週間前に死んでしまっていたのである。妹ロザリー(1810?-1874)は当地の婦人へ、兄ウイリアム(1807-1831)はボルチモア在住の祖父に引き取られた。ポー自身は当地の煙草輸出商のジョン・アランの養子となり、エドガー・アラン・ポオと名付けられたが正式には入籍されていなかったと言われている。1815年(六歳)7月にアラン夫妻と渡英しロンドン近郊のストーク・ニューイングトンにある私立のマナー・ハウス・スクールに在学し五年間滞在する。1820年(11歳)8月にアラン夫妻とともに帰米し学校に通いながら、詩作を始める。1826年(17歳)二月、シャーロッツヴィルにあるヴァージニア大学に入学、秀才で濫読型。博打に手を染め多額の借金を作り養父に連れ戻される。1827年(18歳)偽名で合衆国陸軍に志願入隊する。このあたりまでが感性的なものが育っていったポオの幼少期から青年期までと見ればいいだろう。つまりある意味では肉親の手で育てられなかった不幸を背負ったと見ていいのだろうと思う。
 ポオがヴァージニア大学に入学し博打等に手を染め養父に連れ戻されたあと、養父から逃れるようにして軍に志願したことを述べたが、そのことについて若干の背景状況を説明しておきたい。一般的な年譜等にはポオの養父たるジョン・アランは裕福であったと簡単に述べられている事が多い。これらの典拠はこれからも何度も取りあげていくボードレールの『エドガー・ポー、その生涯と作品』によるところから来ているとみられる。現にボードレールはポオが養父に引き取られるいきさつの部分で以下のように書いている。

その都市の富裕な商人であったアラン氏が天性の魅力にみちた態度にめぐまれたこの可愛い不幸な子に夢中になり、それに彼には子供がなかったので、養子にした。それで子供はそれ以来エドガー・アラン・ポオと呼ばれるようになった。こうして彼は何の不自由もなく、また性格にも誇りたかい気強さというものをあたえる恒産への当然の期待のうちに育てられた。
(中略)
彼は1822年に(イギリスから)リッチモンドにかえり、、当時最良の教師たちの指導のもとで、アメリカでの勉強を続けた。
 -「エドガー・ポー、その生涯と作品」ボードレール(平井啓之訳)-

 訳者である平井啓之は訳註のなかでこの部分にやんわりと訂正の註釈を入れている。ポオを引き取った当時の養父ジョン・アランは必ずしも裕福でなかったと云うこと、後の1825年頃に大金持ちの伯父の遺産を相続して町有数の財産家になったこと、ポオの愛くるしさに夢中になったのはアランの妻フランシス・バレンタインであることなどである。ボードレールが上記書で様々な誤謬を犯すのは本論『第Ⅳ章』でも書いているようにボードレールが参考底本としている『故エドガー・ポオ全集』の編集者であるルーファス・グリズウオールドの「メムア」を鵜呑みにしているところがあるからである。ヴァージニア大学を放蕩と博打のあげく、さも放校のように書かれてしまうのもグリズウオールドの作為にみちた中傷であり、もしかすると編集者たる権限で「全集」をスキャンダラスな話題の中で売り込もうとする策略を見落とすからだとも云える。平井啓之はその訳註の中で以下のように書いていてその方に説得力があると思うが自然である。

ポオが放校された原因をポオ自身の不行跡とすることは事実と反し、同大学の記録文書の中にはポオに対する戒告その他の形跡が全く見あたらない。彼が大学を去った原因はむしろ養父アランの無理解によって送金が断たれたことによる、とするのが今日の定説である。
 -平井啓之の訳註より-

 はっきり言えば養父アランはケチで文学等には全く理解のない人であったことは間違いが無く、夢を追うようなポオの性格自体が気に入らなかったことは大凡のちのちのポオ研究家達によってもよく言われている部分である。ポオの詩の優れた翻訳者であり詩人である加島祥造※10 は「ポー詩集」の解説で養父アランとポオとの軋轢のことを相当辛辣に書いている。

養父アランはスコットランド系の人であった。一般にスコットランド人はケチで知られている。養父はポーに一定額の費用(110ドル)しか与えなかったが、当時の大学は裕福な家の師弟ばかり集まったから、見栄からも多額の費用が必要だ。ポーはたちまち借金をこしらえてしまい、それを埋めようとカードの賭博をやってさらに大きな穴をあけてしまう。
 -「ポー詩集」加島祥造の解説より引用-

 結果としてポオの抱えた博打の穴はどうにもならなくなり借金から逃走するために軍に入ったと云うところが真相に近いようである。余談であるがアラン夫人であるフランシスからはポオは過分に愛されていて大学生活の仕送りの補完をそれとなくして貰っていたと云うことも伝えられている。守銭奴の妻は天使であったと云うことである。しかし、その夫人も1829年2月28日に亡くなりついにポオは唯一の庇護者も失ってしまうことになるのだ。これは正しくポオが若くして貧苦に苦しむ第一歩が始まったということに他ならない。ポオがヴァージニア大学での学業の継続を養父アランによって絶たれた後、養父との関係はポオの哀願によっても修復されることはなかった。また債権者から追われる身であったポオにとって取るべき道は偽名エドガー・A・ペリーを名乗り合衆国陸軍の一兵卒として逃げ込むしかなかったのである。ポオの1827年18歳の時から翌年1829年特務曹長で除隊するまでの間で特筆すべき事項は、幸運にも入隊直前に出版を引き受けてくれる印刷業者と出会い1929年に「匿名」で処女詩集を出せたことである。佐伯彰一は創元社版ポオ全集に寄せての「解説」でボストンのインデペンデント要塞のなかで新兵教育を受けている最中に詩集が出来上がったとしているので橋田久康との年譜との比較で大凡二年のズレが出ている。また橋田久康の「ポー年譜」にはこの処女詩集を『タマレーンその他』Tamerlane and Other Poemsとしか書いてないので1927年から1929年までに書いた詩の全てが入っているのかどうかは分からない。ちなみに、1927年作と呼ばれているものは「タマレーン(チムール大帝)」Tamerlane※11から「あのみずうみ、――に」The lake:To――までの10編、1929年作は「ソネット――科学によせる」Sonnet――To Scienceから「妖精の国」Fairy-Landの7編である。また借金まみれで軍に逃げたポオが『詩集』を出すなどは普通考えれないことであるからして、これにも死の直前だった心優しい養母フランシス夫人の援助の影が見え隠れする。ポオは1829年(20歳)の時、陸軍を一旦除隊するが今度はウエストポイントの陸軍士官学校への入学申請を出す。これもまだ借金から逃げようと思っているからではないかと推測できる。そして許可を待つ間ポオは実父方の叔母でボルチモア在住のマライヤ・クレム夫人を頼り夫人の家に逗留するのである。これについてはポオ自身が幼くして死に別れた実母の面影を慕って夫人を頼ったとボードレールは書いているが重要なことはそこに於いて夫人の娘でありポオの従妹であり後に14歳でポオの幼妻となった当時6歳、7歳頃のヴァージニアと出会っていることであろうと思う。またこの年12月に詩集『アル・アーラーフ、タマレーンほか小詩篇数編』Al Aaraaf,Tamerlane,and Minor Poemsを出版する。1831年(22歳)詩作を続けるために故意に士官学校の規律を乱し退学となり、本格的な詩作活動に向き合うこととなる。また士官学校を放校後ポオはニューヨークに赴き、第三詩集『ポオ詩集』※12の準備に取りかかり、そのあとまたもやクレム夫人の家に身を寄せることになった。ヴァージニアは八歳。ポオとマライヤ・クレム夫人についてはボードレールが一種の哀れみと感動を踏まえながら熱い思いで語っていることが印象的である。またそれはボードレールをして感動させるかのように己と幾重にも重なるかのごとき愛に溢れた讃辞となっている。ポオと共に苦労と不幸を背負ったこの婦人についてボードレールは忍びないものもあったのだろうと思う。以下のボードレールからの引用は長いクレム夫人への讃辞の締めくくりの部分である。

この婦人は、私には、偉大でありまた老婦人というより以上のものであったように見える。とりかえしのつかぬ打撃をうけていながら、彼女は自分にとってすべてであった故人の評判のことしかかんがえず、また彼女を満足させるためには彼が天才であったというだけでは事たりず、彼が忠実で愛情にみちた男であったことが世に知られねばならなかったのである。至高の天からの一すじの光によって点ぜられたかがり火であり暖炉であるこの母親は、献身とかヒロイズムとか、そしてすべて義務以上の物事についてはあまりにも無関心であるわが民族に、手本として与えられたものであったことはあきらかである。
 -「エドガー・ポー、その生涯と作品」シャルル・ピエール・ボードレール(平井啓之訳)-

 ガストン・バシュラール※13が幼くして実母を亡くしたポオをいみじくも「母に対する愛着と死の妄執の二重の徴を刻印した天才」と呼んだわけも今後本格的な作家活動をしてゆくポオの軌跡の中でおいおい明らかになってゆくであろう。

第Ⅲ章-ポオの年譜とその書簡-
 ポオの生涯に於いて書かれた詩は全部で63編といわれていて、創元推理文庫の『ポオ詩と詩論』の中に福永武彦と入沢康夫の手によって翻訳されている。その翻訳の中身については別途その「文庫」を読んでいただければいいかと思う。そのほか原詩であるオリジナル・テクストについては『The Work of Edgar Allan Poe』でその殆どを読むことが出来るので一度原文を味わって貰うのも良いかと思う。また1831年以降(軍からの退役以降)のポオの年譜については『POE MUSEUM』を参照し、抜粋したものを以下に記したので参考にして欲しい。このサイトを読めばおわかりのようにポオの年譜と対応するように右サイドに通常史における特筆すべき事項も記してあるのでその時代性というものも頭に入れておけばそれなりの手助けにもなるだろうと思う。たとえばAbraham Lincoln※19や英国の詩人Alfred Tennyson※20と時代を同じくして生まれていることなど興味深い史実も分かるだろう。

【退役以降のポオの年譜】
1831
Expelled from West Point in February
Lives in Baltimore with aunt, Maria Clemm, and her daughter, Virginia
Poems: Second Edition contains “To Helen”
1833
“MS. Found in a Bottle” (short story) wins literary prize; is published in Baltimore Saturday Visitor,
19 October
1834
John Allan dies, 27 March
1835
“Hans Pfaal” (first modern science fiction story) published in Richmond’s Southern Literary Messenger, March issue
Moves to Richmond in mid-summer to join Messenger editorial staff
Courts cousin, Virginia Clemm
Brings Virginia and her mother to Richmond
1836
Marries Virginia Clemm (age 13) in Richmond, 16 May
Increases Messenger circulation
1837
Resigns from Messenger
Moves to New York, January
1838
Moves to Philadelphia
The Narrative of Arthur Gordon Pym (novel)
1839
Becomes assistant editor of Burton’s Gentleman’s Magazine in June
The Conchologist’s First Book
(scientific textbook)
1840
Tales of the Grotesque and Arabesque (2 vols.) includes “The Fall of the House of Usher”
Quarrels with editor of Burton’s, leaves in May
1841
Becomes editor of Graham’s Magazine in February
“Murders in the Rue Morgue”
(first modern detective story)
1842
Publishes stories:
“The Pit and the Pendulum”
“The Masque of the Red Death”
“The Mystery of Marie Roget”
Interviews Charles Dickens in March
1843
Publishes stories:
“The Tell-Tale Heart”
“The Gold Bug”
“The Black Cat”
Publishes critical essay:
“The Rationale of Verse”
1844
Moves to New York City
Lectures on “The Poets and Poetry of America”
“The Balloon Hoax” (satirical story)
1845
Publishes “The Raven” in the New York Evening Mirror, 29 January
Publishes Tales in July
Publishes The Raven and Other Poems in November
1846
Moves to Fordham, New York
“The Cask of Amontillado” (story)
“The Philosophy of Composition” (critical essay)
several Poe stories translated, critically acclaimed in France
1847
Virginia Clemm Poe dies, 30 January
Poe falls ill
Completes “Ulalume” (poem)
1848
Eureka (philosophical essay)
Reads “The Poetic Principle” (critical essay) to audience of 1,800
Writes “The Bells” (poem)
1849
In Richmond to lecture and see friends in mid-summer
Engaged to widow Sarah Elmira (Royster) Shelton, former fiancee
Leaves Richmond for New York, 27 September
Found delirious in Baltimore, 3 October
Dies, 7 October
Poems appear posthumously:
“The Bells”
“Annabel Lee”
“El Dorado”
 -参照SITE

ポオの書簡など(坂本和男訳より)
 また、ポオの手紙というべきものも個人的な抜粋ではあるが転載した。
「ポオ書簡」の抜粋

【ジョン・ニール宛-1829年ボルチモアにて-】
 私は若くて-まだ二十歳にもなっていませんが-すべて美を深く礼賛する者が詩人であるなら、まさに詩人です。そしてごく普通の意味での詩人になりたいと思っているのです。私の想像に浮かぶ観念の半分でも表現できるなら、この世のすべてをなげうってもいいのです。

 希望と若さに満ちているポオを見ることが出来るが、詩人の人生はそんなに甘くはなかった。自ら詩を書くと共に雑誌を発刊する情熱は実を結ぶとは言えず芸術の切り売りをするしかなかったのである。やがて生活のために妻ヴァージニア(トップ肖像写真)と共に1844年ポオが35歳の時にニューヨークに転居する。

【エバート・A・ダイキング宛-1846年-】
拝啓
”特殊な事情”がありますので、三月一日までに小説集をもう一冊出版していただきたいと切望しております。そのようにお取り計らい願うわけにに参りませんでしょうか。今度お送りする小説集の著作権料として、総額で五十ドルほどワイリイさんからいただければ有難いのですが。  

 ある意味ではポオの人生は貧乏との戦いであった。 

【ヴァージニア・ポオ宛-1846年6月12日-】
 いとしい人、愛するヴァージニア、今夜ぼくがおまえのそばにおれないわけは、母さんが説明してくれるだろう。インタビューの約束があるのだけど、それはぼくのために、愛するおまえのために、また母さんのためにも、何か相当に役立つものと信じている。希望にあふれ、元気を出して、もう少しの間辛抱しておくれ-この前ひどくがっくりした時、もしおまえがいてくれなかったらぼくの勇気はくじけてしまっていただろう。この気に入らない、不満足な、骨折り甲斐のない人生と戦うために、愛するかわいい妻、おまえだけがぼくの最も大きな唯一の励ましなのだ。明日の午後にはおまえのそばに行けるだろうから、会うまで心安らかにしておくれ。おまえの最後の言葉と熱烈なお祈りとを、ぼくは愛情をこめて胸にきざんでおくつもりだ。
 よく眠れますように、また、深い愛を捧げるとぼくと一緒に安らかな夏の日々が過ごせますように。

 この翌年1847年1月30日、病床の妻ヴァージニア死去。

【マライヤ・クレム夫人宛-1949年9月18日-】
(前略)
ぼくはノーフォークで講演しましたが、マジソンハウスの勘定を払ってあとに二ドルと少し残りました。聴衆は相当程度の高い人たちでしたが、ノーフォークは小さな町ですし、同じ晩に二つ催しがあったのです。来週月曜にまたここで講演しますが、大勢聞きに来るだろうと期待しています。火曜日にはラウド夫人の詩を見てあげるためにフィラデルフィアへ出かけて-多分木曜日にはニューヨークへ発てるでしょう。
(中略)
ぼくはまだあなたにただの一ドルだって送ってあげれません-でも元気でいてください-ぼくたちの苦労もほとんどもうお終いになるでしょう。
(後略)

 以上の抜粋はポオの置かれた生活や背景を窺うことが出来るものを取り上げた。この年10月3日にボルチモアの路上で意識不明となって倒れているポオが発見され、10月7日永眠する。まさしく貧乏底なしの生活は「お終い」になったのである。

第Ⅳ章-アメリカのマガジン・ジャーナリズム-
 さて、「ポオは、たとえ狂人だったとしても、紳士だった」とはAllen Tate※14が書いたJ・W・クラッチの言葉である。
 ポオは1849年10月7日バルチモアで大統領選挙投票のさなか酒場の前にて意識不明で倒れているのを発見され変死を遂げる。その翌年1850年ニューヨークの出版社レッドフィールド社から『故エドガー・ポオ全集』が刊行される。ボードレールもこの全集を底本としてポオの翻訳に努めたことはよく知られているところでもある。ボードレールが書いた『エドガー・ポー、その生涯と作品』(Poe, Edgar Allan - Sa vie et ses oeuvres)は彼自身がテクストを何度か書き直し、加筆しながら今日に伝わっていることはその仏版翻訳者の平井啓之のあとがきや訳註を読めばわかる。また、ボードレールがポオに抱いていた決意は並々の思いではなく、ポオがフランス象徴主義サンボリスムに与えた影響は大きく、やがてそれは『悪の華』に結実化されてゆくことにもなった。そのあたりのことを平井啓之はその『エドガー・ポー、その生涯と作品』のあとがきで述べている。

ボードレールの文学的生涯にとって、ポオとのかかわり合いはふかくかつながい因縁をもっていた。彼が1847年にイザベル・ムーニエ女史※15の訳業によってはじめて「黒猫」を読み、その翌年「催眠術下の啓示」を訳出して以来、1865年死に先立つ二年前に『異様でまじめな物語』によって、ポオの訳業に終止符をうつまでの17年間は、ほとんどボードレールの文学生活の大部分であったと言い得るであろうし、しかもその間ポオはボードレールの関心の外に去ったことは、ほとんど一日もなかったのではないだろうか。
(中略)
ボードレールはポオのほとんど全著作をフランス語に移し入れることによって、リラダンやマラルメをこえてはるかにヴァレリーにおよぶフランス象徴主義の詩的世界を支配する原理を、自国の文壇に同舟することを得たのである。

 では、なぜボードレールはポオを紹介するにあたって『エドガー・ポー、その生涯と作品』を何度も書き直さなければならなかったかと云うことになるのだが、このことについてはポオの描いた作品とは別の視点も無視することは出来ないとおもえる。フランス人たるボードレールにとっては英文テクストを通してしかポオの作品や人となりを想像するしかなく誤謬や誤訳が伴うと云うこともあったからであり、そういうことは、とかく文学の世界にはありがちではあるが、米国本国に於いてポオの死後再編纂された『故エドガー・ポオ全集』に基づくしかなかったのである。ところがこの全集の編集者であるルーファス・グリズウオールドRufus W.Griswold自体の書いたものが様々な誤解やスキャンダルを招いていくことにもなったのである。とりわけボードレールは初稿に新たなページを付け加えざるを得なくなり、ついにはグリズウオールドのことを独善的吸血鬼とまでに罵倒している。またこれには理由があった。ポオと同時代の文壇ジャーナリスト※16であったグリズウオールドはポオが編集責任者としていたグラハム・マガジン社(Graham's Magazine)の後を継いだ編集者であり、ポオが死の直前に自分の文学作品の管理一切を任せた男でもあった。ところがこの男グリズウオールドはポオの死の二日後に「ニューヨーク・トリビューン紙」※17にルドヴィックという匿名を使ってポオの人格、性格を毀損する文を載せたのである。

エドガー・アラン・ポオが一昨日死んだ・・・だが彼の死をいたむ人はほとんどないであろう。なぜなら彼には読者はあったが、友人はなきにひとしかったから・・・。-1849年10月9日号-

 実に驚くばかりであるが、ポオが死の直前自分の伝記的な部分に対する執筆依頼をしている、やはり同時代の文壇ジャーナリストであるN・P・Willis N・P・ウイリスは10月20日の「ホーム・ジャーナル」誌上にルドヴィック文章の不当を正す意味での反論を載せた。またグラハム・マガジンの社主ジョージ・グラハム氏もグラハム・マガジン誌上に「ポオの擁護」と題する文を掲載しルドヴィック文章を悪質で嘘であるという論陣を張った。しかしグリズウオールドはこれで矛を収めるような男ではなかった。グリズウオールドは1850年に出版された『故エドガー・ポオ全集』の冒頭に「伝記(メムア)」Memoir of the Authorを執筆しより一層の人格非難(無論作品非難ではないところがミソ)を倍増したかのように掲載したのであった。またこの個人的な誹謗の原因はいまだに分かっていない。もっともアレン・テイトは「Our Cousin, Mr. Poe」のなかでJ・W・クラッチJoseph Wood Krutch※18がポオのインポ説を述べていることに触れているので、それよかいいのかも知れない。いずれにしてもポオにはそれなりの強烈な個性が光っていたということであろう。

第Ⅴ章-Ravenと呼ばれる大鴉とはなにか-
 日本の漢字では「鴉」もしくは「烏」と書く。生物学的な分類に拠れば嘴太鴉(はしぶとがらす学名:Corvus macrorhynchos)、嘴細鴉(はしぼそがらす学名:Corvus corone)と呼ばれているものが我々からするとカラス(以下カラスと書く)と呼ばれる代表格であり、本土以外の対馬や南西諸島などに、より小型の亜種が三種認められている。ウイキペディアではやはりポオとカラスの関係に立ち入っているのに興味が持たれる。

日本語でいう「鴉」は、普通は留鳥のハシブトガラスとハシボソガラスの二種をさす。 渡り鳥で冬飛来する鴉は、北海道にワタリガラス、西日本にミヤマガラスである。迷鳥を含めると、7種が記録されている。日常語ではこれら全身が黒い鴉を通常は区別することはない。なおハシボソガラスの分布はユーラシアに広く生息するが、ハシブトガラスの分布は東アジアと南アジアに限られる。ヨーロッパでは、ハシボソガラス、ワタリガラス(raven)、ミヤマガラス(rook)が一般的である。英語ではこのように、crow, raven, rook は日常語レベルで別の鳥とみなしていることが特徴である。文化的にもそれぞれが違うイメージを付与されている。英語のそれらを和訳する際(特に文学作品)には、ハシボソガラス等を指す crow と区別して、raven を「大ガラス」と訳すことがある。エドガー・アラン・ポーの詩「大鴉」はその一例である。ただし、近年ではraven を「ワタリガラス」と訳したり、そのまま音読で記す場合も多い。
 -東西の鴉(ウイキ)-

 これによるとほかに渡り鳥的な種もいることが分かる。さらにウイキペディアによれば日本名渡鴉ワタリガラスはハシブトガラスよりも一回り大きくユーラシア大陸全域、北米大陸に渡って広く分布し、日本では北海道地域※21に見られる。学名:Corvus corax英語名ではCommon Ravenもしくは単にRavenともいう。またそのほか英語の「レイヴン」には、「黒い髪の色」の意味がある。日本語の「烏の濡れ羽色」と同じ。ギリシア神話では太陽神アポロンに仕え色は白く言葉も話す事が出来る非常に賢いカラスだったがアポロンの怒りに触れて炎に焼かれ黒く焦げ、声も潰れたとある。また北欧神話ではオーディン(戦争と死を司る神)の斥侯として、フギン(=思考)とムニン(=記憶)の二匹のワタリガラスが登場、イギリスでは※22チャールズ2世の勅令で、最低6羽のワタリガラスがロンドン塔で飼育されており、「ロンドン塔からワタリガラスがいなくなるとイギリスは滅びる」というジンクスがある。2006年には鳥インフルエンザから保護するためにロンドン塔から一時避難させられた。ビーフィーター(Beefeater)の中には、ワタリガラスの世話をする「レイヴンマスター」という役職があるということである。勿論日本に於いて、古事記によるところの八咫烏(やたがらす、やたのからす)と呼称されているカラス※23は居る。
 またついでながらウイキには以下のようなカラスについてのイメージについて書いてあるのだがカラスと黒猫を同列に置いて書くなど、もしかするとポオの作品イメージから来る影響も考えられないでもないだろう。

黒い姿から、『カラスが鳴くと人が死ぬ』、『カラスが集まる場所では死人が出る』等と言われ、不吉であると信じる人もあるが、カラスの実際の羽色は、「烏の濡羽色(からすのぬればいろ)」という表現もある通り、深みのあるつややかな濃紫色である(「烏の濡羽色」は、黒く青みのあるつややかな色の名前で、特に女性の美しい黒髪の形容に使われる事が多い。烏羽(からすば)色、烏羽とも)。ファンタジー小説やゲームでは、黒猫などと並んで魔法使いの使い魔とされる事が多い。賢さと不吉なイメージからであろう。
 -イメージ(ウイキペディアより)-

 このようにしてカラスは人間にとって何ものかである意味が持たされていることが理解できるだろう。また、更にカラスについての役割をキリスト者の世界という限定で見ればなにも不吉というものばかりでもなく、旧約の「創世記」(ノアの洪水:旧約聖書「創世記」8章6-7)に於いての大洪水から40日後の世界の偵察の任務を帯びたカラスについて描き『さらに四十日たったとき、ノアはさきにつくっておいた箱船の窓を開いて洪水後初めて鴉を放した。すると鴉は出ていって、水が地上からひあがるまで、あちらこちらと飛びまわっていた。』とあり、足の裏を休ませるところが無く、すぐ戻ってきた鳩との区別がある。その7日後再び放たれた鳩は口にオリーブの若葉をくわえて戻って来る、さらにその7日後に放たれた鳩は彼の元には戻ってこなかった。水が地上から引いたと言うことである。もっとも、この時最初から戻ってこなかったカラスの行動に対する解釈は体力抜群以外別段不審なものはないと思うのだけれども、これも自分なりの解釈にしか過ぎず、ノアを裏切って戻らなかったとする、もっぱら不服従の象徴であるとする説もあるようだ。King James Versionによるとこの部分は以下のようにしか書いてない。

And he sent forth a raven, which went forth to and fro, until the waters were dried up from off the earth. -Genesis 8。

 ここのどこを読み解けば不服従disobedienceとなるのかは分からない。このあたりについては別途「鴉の不服従」を参考にして貰えればいいだろう。また「列王記」(エリヤ:旧約聖書「列王記Ⅰ」第17章4-6)に於いては予言者エリヤに神から遣わされたカラスが登場してくる。異教神を祭るイスラエル王国のアハブ王とその妃イザベルの対立者としてのエリヤは神の命を受けてイスラエル王国の首都サマリヤに行き王と妃の前で『イスラエルの神の名によって伝える。今後二、三年、イスラエルに雨が一滴も降らない。私が雨が降ると告げる時まで』と偶像崇拝による彼らへの神の罰を宣言して立ち去る。その後、王の追っ手から隠れるため神に導かれてヨルダン川の支流ケリテ川に潜む。その時エリヤに朝、夕、パンや肉を運びエリヤを飢餓から守ったのは神が遣わされた数羽のカラスであった。神がカラスに命じたと書かれている。King James Versionでは以下のように書いてある。

I have commanded the ravens to feed thee there. -1 Kings, chapter 17

 このようにカラス※24にも役割は与えられている。だが、いつの間にかカラスは古代に於いての神の使いを越え近代にはその立場が逆転し不吉なものとしてのイメージを以て語られることになってゆく。ではここで位相を少し変えてみた場合のカラスはどのように見られているのかと言うことになればそれなりの愚民世界に立ち入ることになってゆくかと思う。またそれは一種の神秘と幻想に覆われている、まさに侮蔑すべき民衆の持つべき畏れの世界と重ね合うことにもなる。ではその言うところのオカルトっぽい世界ではどう書かれているのかを見てみることにする。

「鴉のノアへの不服従」
The raven, too, is traditionally portentous, and is sometimes called the Devil’s Bird. Its plumage is said to have been changed from white to black because of its disobedience in not returning when Noah set it free to find dry land after the Great Flood.
渡り鴉は伝統的に凶兆を表し、時々悪魔の使いの鳥と呼ばれていました。 ノアの(箱船における)大洪水の後に水の引けた陸地を見つけるためにノアが鴉を放つが、命令に背き戻らないので羽根を白から黒に変えられたと言われています。-南無訳-
 -http://www.hauntedamericatours.com/occult/BESTIARY/-

 旧約聖書「創世記」におけるノアとカラスについての解釈をこのように「裏切りdisobedience」と述べていて、これについての根拠の有るか無しかは別としてもアメリカ国民の全てとは言えないところの部分でこのような解釈が成されていると思えばいいだろう。また、カラスそのものについても以下のようにも述べている。

「鴉と死のイメージ」
The raven’s ability to find nourishment among the corpses of the dead was viewed as something supernatural in itself and forever linked it with the process of death and rebirth. The raven is the emblem of the etheric or supernatural self and ravens are considered inimical supernatural beings in their ability to resist possession by demonic entities, earning them a unique distinction among the so-called “servants of the Devil.”
カラスには人間の死体を食い物にして、それを死と再生というものに繋いでゆく超自然的な能力が見られます。カラスは超自然的な精気を表す象徴であり、魔力を持った(人間にとって)非友好的な存在であり、まさに悪魔の使いとしても特別な能力を発揮する存在だといえる。-南無訳-

 まさに、「旧約聖書」で見られるような人間に役に立つ生き物ではなく、要するに不吉さのシンボルでもあり生きている人間に対して決して愛らしくないばかりではなく非友好的な悪魔の使いだと見る向きが多いと言うことである。日本に於いても怪談映画やホラー映画等で意味の有りそうな墓地ではどういうわけか墓石の上や近辺の木々の枝でカラスが止まって啼くというシーンがないわけではない。つまりのところカラスには超自然で且つ邪悪な特殊能力があるというわけだと思えばいいだろう。

第Ⅵ章-『構成の原理』というレトリック-
 『ポォは異常ではあるが精神病ではない。それは一種の神経症である。』これは精神分析学からポオを研究したことでも知られているフロイト学派であるマリー・ボナパルトMarie Bonaparte※25の言葉といわれている。だが、「精神分析的文学批評」についてはここでの任ではないことも言いたい。また、それと同時に我々は19世紀に数多く書かれた詩人の人生とそれを描いた伝記というものにも注意深く距離を置かなければならない。確かに自伝的エピソードや記述はその詩人のメタフォリカルな部分を表象していて、とかく分析をしたくなるものである。しかし、こと文学史的な、といえばいいのか、詩的表現の問題に考察を進めれば、今やろうとしていることは間違いなく古典の再評価に臨もうとしていることでもある。だが、その前に、つまりのところ、一種のパラダイム・シフトを経て現在的批評というものもあるということを忘れてはならない。それが後世における我々の立場でもあるだろう。ポオは小説や詩の他に詩論というべきものも書いている。『構成の原理』※26The Philosophy of Composition(1846年)がその代表的な詩論である。またこの『構成の原理』はポオの代表的な詩篇である『大鴉』The Ravenを例にとり自らがその詩篇の分析を行っていることでもよく知られているところである。その意味では読む者の興味が一層注がれる内容となっている。以下先人達のポオ分析等を手がかりにして『構成の原理』と『大鴉』についての関係に言及してみたい。『大鴉』は1845年、『構成の原理』は1846年に発表されていて、これが相互の年代関係であるということをまず考慮の範囲に入れておかなければならないと思う。つまり、『大鴉』の1年後に『構成の原理』が書かれているということになる。そしてそれは多分、想像するにはきわめて挑戦的な言辞に覆われていて、当時の人々を惑わせるに十分な内容となっている。まず彼はチャールズ・ディケンズ※27がゴドウィン※28の書いた『ケイレブ・ウィリアムズ』の構成的手法が既に結末が出来ていて、それから始まりを思いめぐらしたという説を取り上げて、ポオはプロットというものは書き始める前に既に出来ているのが当然であるとして、ポオにとっての構成の手法を述べ始めてゆく。多分普通に行われているだろうストーリーの組み立て方、たとえば、物語の大綱を作りあとは描写や対話、自註で埋めようとする手法の中に読み手に与える肝心の「効果」というものが考えられていないと主張し、独創的な効果こそが作品の命であるべきだというのである。そして創作の秘密というべきものの公開をどの作家も行っていないという点を挙げ、彼はこの秘密というべきものを『大鴉』を例にとって展開しようとする。

 ぼくはときどき思うのだが、どんな作家でもいい、自分の作品のうちどれか一つが完成するまでに辿った過程を逐一詳述する気になれば(というのは、それができれば)、たいへん興味深い雑誌論文が書かれるはずである。そうした論述がなぜ公刊されないのか、ぼくには何とも言えないが、恐らくは作家の虚栄心が他のどんな理由にもましてそのことと関係しているのであろう。たいていの作家、殊に詩人は、自分が一種の美しい狂気というか、忘我的直観で創作したと思われたがるものだし、また舞台裏、つまり、手は込んでいるが未だ定着していない生の思想とか、最後の瞬間まで補足しがたい真の目的とか、無数の片鱗は覗かせても全容を顕すまでには熟していない観念とか、手に負えないことに絶望して放棄してしまった熟しきった想像とか、最新の取捨、苦しい推敲、要するに車輪と歯車、場面転換の仕掛け、段梯子と奈落、雄鳥の羽毛、紅と付け黒子といった、九十九パーセントは文学的俳優の小道具であるものを、読者に覗き見されることに怖気をふるうものである。
 他方ぼくだって、結末に至るまでの過程をもう一遍辿ることができるということが、どんな作家にでも当て嵌まるわけではないことぐらい承知している。総じて連想は雑然と浮かんでくるものであって、同じく雑然と追っているうちに忘れてしまうものだ。
  -『構成の原理』篠田一士訳-

 一見、既存作家に対して嘲笑的にさえ思える始まりとも言えなくはないが、当時の時代的位相を考えると、ことの内容はともかく充分革命的でもあるアジテートだといわざるを得ないだろう。また当時アメリカで文学を志す者達にとってもこの論は受け入れられたのではないかと思える。それが19世紀の時代性というものの他、ポオがこの時おかれている職における立場も考慮に入れなければならないだろう。『故エドガー・ポオ全集』の編集者であるルーファス・グリズウオールドのスキャンダラスなアメリカ独特の宣伝的手法を思い出せばよい。売れなければ値打ちがないのであるという資本の論理というものを無視することは出来ないという現実である。悲しいことではあるが、なにも21世紀においてさえいわれているところのものが今に始まったわけではないのである。ここでは今、書かざるを得ない立場、というものもあるということだと思えばいいだろう。そして更に冷水をかけるようなことにもなるのだが、20世紀に至ると、よりシニカルで尚かつ愛情に溢れるW・H・オーデン※29の以下のような辛らつな言葉を思い起こすべきである。

 たとえポーがその批評家としての才を充分に発揮することができなかったとしても、それはもっぱらポーの不運のせいであって、彼自身のせいではない。彼の優れた批評の多くが広く読まれないのは、それがまったく読む気が起こらないような作品の書評のなかに埋もれているからである。彼がときおりオズグッド夫人のような二流詩人を過大に評価したり、イングリッシュ氏のような内容のない人物を排斥するのに時間とエネルギーを浪費したとしても、それは生来どんなに固い食物でも消化する胃袋を備えた批評家が周囲の事情のために文学的おかゆを当てがわれる破目になったことの必然的結果であった。第一級の批評家には第一級の重要性をおびた批評上の課題が必要なのであるが、彼はそれに恵まれなかったのである。ボードレールに与えられた主題-ドラクロワ、コンスタンチン・ギュイ、ワグナー-のことを考え、それからポーが書評のために当てがわれた本のことを思ってみるがいい。
『英国のメフィストフェレスたち、またはある総理大臣の告白』
『キリスト教徒の花屋』
『女性の高貴なおこない』
『テキサス史』
『ある悲運な紳士の生涯における浮き沈み』
『四季についての聖なる哲理』
『フランスにおける現存する著名人物素描』
『人生についての自由な鉛筆による一筆書き』
『アリス・デイ-韻文によるロマンス』
『ワコンダ-人生の達人』
『故ルクレシア・マリア・デイヴィドソンの詩的遺稿』
  -W・H・オーデン(八木敏雄訳)-

 強烈なアイロニーといわざるを得ない。21世紀である今日の日本における文壇ジャーナリズムの世界を揶揄するわけでもないが19世紀に於いてやさえ、まさしくポオのおかれた国内での当時の位相を示している。アメリカは遥かヨーロッパに知的位相として及ばざるとしてとるのか『構成の原理』における創造の普遍性にすくい取られるものを見るのかである。まず我々は『第Ⅲ章-ポオの年譜とその書簡-』においての「ポオの書簡」から読み取れるポオの生活の窮状を思い出さなくてはいけない。無論我々はその普遍たるべきものの姿をこの『構成の原理』で見ていかなければならないということになる。さらにW・H・オーデンはポオの評論についての特質として当時の知を擬装する愚民世界を意識せざざるを得なかったことも述べている。

ポーがあらゆる長い詩を原則として攻撃せざるをえなかったのは、『失楽園』や『批評に関するエッセッイ』に対しては不当のそしりを免れないが、偉い詩人になるためには長い詩を書き、詩を通じて教訓を垂れねばならぬとする詩人や一般大衆の先入観をゆるがすためであった。
  -W・H・オーデン(八木敏雄訳)-

 ここに於いて我々はその時代にポツンとして置かれたポオの姿を見るのである。いつの世もあるようにそこに尖った者の孤独な影を見ることになってゆく。
 ポオは『大鴉』を発表して1年後『構成の原理』で以下のように力説するのであり、花田清輝の指摘のようにこれが『構成の原理』で言いたいことを或る意味では簡潔に述べているとも言えよう。

その構成の一点たりとも偶然や直感には帰せられないこと、すなわちこの作品が一歩一歩進行し、数学の問題のような正確さと厳密な結果をもって完成されたものであることを明らかにしたいと思う。
  -『構成の原理』篠田一士訳-

 そして花田清輝は『構成の原理』においてのポオのこの言を取りあげ明快に以下のように言っている。また考えようによっては『構成の原理』に対して誰もが最初に抱くことであるとも言える。W・H・オーデンも指摘していたように従来の詩人、文化人、及び取り巻く大衆の先入観をゆるがすためにも意図的に書かれていると言う印象である。だがそれはあくまで我々が最初に感じる印象でしかない。

周知のように、この論文のなかで、ポーは、かれの有名な詩『大鴉』がいささかも偶然や直感に依頼するところなく、砂糖をいれ、塩をいれ、とろ火で煮たて、やがて一皿の見事な料理ができあがるように、「数学の問題の正確さと厳密な因果関係をもって、一歩一歩、その完成にむかって進行していった」次第を物語る。かって私は、正直なところ、こういうポーの言葉を、すこしも真面目に受けとろうとはしなかった。私の読みとったものは、大衆の鼻をつかんで引きまわしてやろうという不敵なポーの面魂であり、たちまち霊感をふりまわす凡庸な詩人への皮肉であり、さらにまたかくも特異なテーマを、かくも無造作な調子で表現することによって、かえって強烈な印象を読者の心に喚起しようとする、この論文の「構成」の巧みさであった。
 -「ポー終末観」花田清輝 1941年-

 しかしW・H・オーデンもいっていたポオのその他の批評のことも考えればポオにとってサロン界が収入の道のひとつであったことも考慮の内に入れておかなければならないだろう。つまりへっぽこ詩人達の批評を書くことによって生計の糧のひとつになっているという当時のポオの文化人としての姿が見えるはずでもあるのだ。だが、それらのことを横に置いても、『構成の原理』はポオにとって言いたいことが言えた批評のはずである。しかし、21世紀の今の我々にとってその書かれた内容を自ら持ちうる観念と照応させ、なおかつ、その意識でもってただ遡行し古典的なものを断じていいものでもない。まず『構成の原理』を読んでいて我々が素直に感ずるのはその一種古典的な論理と、それにも関わらず当時のポオの持っている情熱である。今まで誰もがその当時取りあげなかった詩作領域への形式と表現への言及なのである。そしてまたそれにいたる彼自身の誇りと既成概念に対するアンチテーゼというべきものも見ることが出来る。つまり旧態依然の状態への彼の目一杯の主張であるとまずは読みとるべきだと思っている。

以上の考察と、大衆の好み以上でも批評家の好み以下でもないと考えられる興奮の程度とを思い合わせてみたとき、ぼくは自分が構想した詩作品に適当と思われる長さを即座に考えついた。即ち百行の長さだった。実際には百八行(『大鴉』の詩行数)ある。
  -『構成の原理』篠田一士訳-

 まず彼は文学作品というものの長さについて触れ小説、散文と違い詩作品には効果を考えると自ずから長さの限界があり、「短さ」が効果の強さに正比例するはずなのだという論を展開する。つまり詩の外見的な「形式」について触れているのであり、読み手が受けうる詩的イメージに美を感ずるには適度の長さというものがあるというわけである。それは決して長いものではなく限界というものがあって然るべきだというのである。そして次に詩的言語と言うべきか、言葉が創り上げてゆく美の領域の根底には美表現へのトーン(調子)というべきものがあって、それが最高潮に達していれば人を最高の美に酔いしれさせることが出来るという論調に進んでゆく。ポオはその調子(トーン)のことを「悲哀の調子」ということによってその調子が奏でるものこそが表現美を形作れるのであり読者に感動を呼び起こすことが出来るとして『大鴉』において重用されている技法上のリフレィンやその使い方にヴァリエーションを持たせ絶えず新たな効果を与える手法、そして言語の持つ音韻のことに迫ってゆくのである。
 『構成の原理』におけるポオの手法なりを検証する前にその論の対象となっている『大鴉』についての簡単な輪郭を述べておきたい。ポオはまず『大鴉』の詩を書くにあったって大まかな構成を作ったと言っている。その詩の実際のプロットの展開とは以下のようなものである。
 恋人と死に別れた男がその面影を断ちがたく自分の部屋にいた。深夜その恋人への思いを忘れるために古い書物を読んでいたがついまどろみかけているところに何か部屋の戸を叩く音がする。戸を開けてみてもそこには誰か居るわけでもなく外には暗闇しか広がっていなかった。もしかしたらその音は死んだ恋人のではとその名を呼ぶが答えもなく、やがて一層強く戸は叩かれ、よろい戸を開けると羽音を響かせながら壁の胸像の上に下り立ったのは一羽の堂々とした大鴉であった。そして男はその大鴉に問う。大鴉は次々と問う男に対して"Nevermore"と答えを繰り返してゆく。男は大鴉に最後には去りゆくように哀願するがその男の言葉を無視するかのように胸像に止まったまま"Nevermore"と答え、その大鴉の瞳の前で逃れることも出来ず釘付けになったままの男の姿で終わっている。まさしく「愛の傷心のテーマ」※30がそこには綴られている。
 『大鴉』の詩の中で繰り返される"nothing more"に始まり"Nevermore"という言葉で繋いでゆく手法こそが『構成の原理』でポオが言うところの技法上の変化を持たせるための韻を踏んだリフレィンの言葉でもある。とりあえず"nothing more"のあと"Nevermore"もしくは"nevermore"としての使われ方として以下その大鴉がアテナイのパラス胸像の上に止まってからの詩句の中の六行を引用する。また引用した訳※31としては福永訳と松村訳を取りあげてみた。また、本論の筋から離れた余談でしかないが、"Nevermore"の訳としては前後の詩句関係から松村達雄が採った「またと告げじ」、「またと去らじ」、「またとあらじ」、「またと忘れじ」という訳し方から、阿部保の「またとない」、福永武彦の「最早ない」や安藤邦男の「もはやない」、noon75の「ありえない」と統一してしまう訳があり、必殺技としては加島祥造のとった"Nevermore"もしくは"nevermore"と原文のままとしたものがあるということを付け加えておこう。

Then this ebony bird beguiling my sad fancy into smiling,
By the grave and stern decorum of the countenance it wore.
"Though thy crest be shorn and shaven, thou," I said, "art sure no craven,
Ghastly grim and ancient raven wandering from the Nightly shore-
Tell me what thy lordly name is on the Night's Plutonian shore!"
Quoth the Raven, "Nevermore."
     -extracts from The Raven-


その時黒檀のこの鳥は、重々しくいかめしげな表情を
その顔に浮かべて、私の沈んだ気分を微笑へといざなった。
『お前のとさかは剃ったように短いが』私は言った。『お前は臆病者の、
薄気味悪い、夜の岸からさ迷い出た古えの鴉ではない-
語れ、夜の領する冥府の岸にお前の王侯の名を何と言うのか!』
     鴉は答えた、『最早ない』
     -福永武彦訳-


やがてこの漆黒の鳥のつんとすました物々しい顔つきに、
沈んだ気分もついに解きほぐされて微笑と変わり、わたしはつぶやいた。
「鶏冠こそ短く削ぎ取られてはいるものの、よもやお前は
夜の岸辺からさ迷い出た、臆病者の、うす気味悪いそのかみの鴉ではあるまい-
夜が統べる黄泉の国の岸辺にあって、王者たるお前の名は何というのか」
鴉は答えて、「またと告げじ」
     -松村達雄訳-

 ポオがこの『大鴉』の詩※32を構成するにあたり考えたことは韻を踏み尚かつリフレィン出来る各連の結句とはどのような言葉なのかということであった。まず長くのばせて悲哀の調も兼ねる言葉を考えに入れたと言っていて、長く引き延ばせることが可能な子音のrと響きよく感じられる母音のoが結びつかせることを考えたと言っている。そして真っ先に浮かんだ言葉が《Nevermore》であったのである。そしてその言葉を何度も用いる口実として人間と違い理性を持たない生物としての鴉を選んだとも述べている。鸚鵡を選ばずに鴉を選んだのはテーマである憂鬱に屈折している恋人を失った男の心象を表すのには鸚鵡ではどうしようもなく、不吉だと思われる鴉を選んだとも付け加えている。そして言葉の持つ意味的な喩にヴァリエーションを持たせるために以下のような構成の仕方をしたといっているのであり、わたし流の解釈としては言葉の持つ意味性を鴉に向かう意識の対位置的な問いによってその意味性を超えて喩的な像領域の変化を目指したということを言っているのだと思う。つまり空間性としての意味喩と時間性を帯びた自己の思想的な暗喩の意味を含めていると言うこととして解釈すればいいのではないかということである。

そこでぼくは、死んだ愛人を嘆いている男と、絶えず、《Nevermore》という言葉を繰り返している鴉との二つの観念を結びつける必要に迫られた。反復される言葉の使い方を、それが出てくるたびに変化させようという意図を懐いた上で、両者を結びつけなければならなかったのである。ところがそうした結びつけ方で納得できるものといえば、鴉が男の問いに答えてその言葉を使うところを想像する以外にない。こうしてぼくが依拠した効果、すなわち使い方の変化による効果に、機会が与えられたことを即座に了解した。男が最初に発する問い、つまり鴉が《Nevermore》と答えるはずの最初の問いは平凡なものにしておいて、第二の問いではその平凡さを少なくし、第三の問いでは更に少なくするといういうようにしてゆけば、男も、その言葉自体の憂鬱な性質や、その度重なる反復によって、またこの鳥が噂に聞いた不吉な鳥であることを思いあわせて、将来迷信に無頓着だったのが、ついには迷信の擒となって、狂ったように全然異質の問い、その答は情熱的に彼の内心に秘められているような問いを発するようになる-
  -『構成の原理』篠田一士訳-

 さらにポオは考えれる限りの悲歌と絶望をこめての問い、つまりクライマックスとして《Nevermore》に向かう最後の問いを連としたものは最初に既に出来上がっていたとも言うのである。まさにこの言い様はポオ以前の先達者達の詩表現の秘密を自らの詩に当てはめて分析して見せたような言いぶりにも聞こえる。またそれは当時に於いてはこの『構成の原理』がもっともらしく聞こえたことも推測するに可能でもあるようにも思われる。だが、よくよく考えてみると一体そのような論理で最初から最後まで詩が表現できるものなのかということには疑問を提示せざるを得ない。そもそも詩に対して小説のような「構成立て」をして韻を踏みながら表現できるものなのだろうか、という疑問である。さらに現代人である私はガストン・バシュラールの次の言葉※33を思い起こすのである。『他のあらゆる形而上学的経験が、果てもない前置きをもって準備されるのに対して、詩は前提、原則、方法、証明といったものを一切拒否する-「詩的瞬間と形而上学的瞬間」』と。
 ポオは『構成の原理』を書いた意図について自分の創作方法の秘密を明かすのだともいっている。

 ぼく自身はといえば、いま言ったような嫌悪は感じないし、いつだって自作の進行過程を回顧するのはたやすいいことだと思っている。それに分解とか再構成とかいった必須ともいうべきことに対する関心は、分析を受ける作品に対して実際に懐いている、或いは懐いていると思っている関心とは全然別個なものだから、ぼくが自作の一つをとって、その創作方法を明かしても、礼に悖るとは思えない。
  -『構成の原理』篠田一士訳-

 だがしかし、ポオは同じくこの『構成の原理』において書いているところのものに表現者としての本性もしっかり書いていることも思い出さなくてはいけない。現に彼は『他方ぼくだって、結末に至るまでの過程をもう一遍辿ることができるということが、どんな作家にでも当て嵌まるわけではないことぐらい承知している。総じて連想は雑然と浮かんでくるものであって、同じく雑然と追っているうちに忘れてしまうものだ。-構成の原理-』と書いていて、つまりポオもその中に含まれうるということも示唆していると言えるだろう。そうであれば、この論じたいが前半部分の論理と中半部分の論理に矛盾を含んでいることにもなるし、ある意味ではこの『構成の原理』自体がもっているものは1年後という後日に書かれた『大鴉』への一遍の分析にしか過ぎないことにもなる。それも作者自身がその作品の批判というものを排除した上で批評しているのである。つまりそれは厳密な上での「批評」ではないのも明らかであり悪くいえば「解説書」にしか過ぎない。無論それはそれで含みうる論の中に詩作に対しての「矛盾」を捨象しても価値あることは認めなければならない。だが詩作品は作者の観念の代理物ではない。ポオにとっての大作(だと彼自身は思っているはずである)である『大鴉』を少しでも認知されることも望んでいたはずである。またそれが世間がポオをもっと認知してくれるはずだという、いわば一種の確信犯的な思惑によって書かれたと思わざるを得ない。それを愚かであると言うべき言葉を今日の我々は持つことは出来ないし、そこには今も文学の世界に於いて問われている問題をあまりにも多く含んでいるからである。つまり決して古くない問題をポオ自身が我々に伝えているからだともいえる。そういった意味で言うならば『構成の原理』には読むべきものはあるということになるだろう。実際のところこの『構成の原理』は当時ポオが意図したように読まれたのであろうかと考えを巡らせてみると、多分彼の思惑と大きく離れたところにしかアメリカ文学界みたいなものがなかったのであり、もはや世間は次の時代にまさに入ろうとしていたとも言えるだろう。当時はそれを裏付けるかのようにポオの作品全体は世間では怪奇に満ちて謎めいた大衆作家として二、三編程度が読まれる程度であり、広くアメリカで文学的に認知されうることもなく、やがて朽ち果てた十字架のように忘れ去られてゆく。これはある意味ではアメリカがヨーロッパよりいち早く近代資本主義から現代資本主義の台頭の中で目覚めてゆくという大きな歴史の必然の中で一人の作家が蹂躙されてゆく姿を我々に見せているといえる。一つの近代が終わる時の末期の姿をヨーロッパに先駆けてポオが見せてくれるのであり、それゆえその詩群も普遍性を纏っているのだ。つまり悲しいことにポオが認知されうるまでには相当の年月を待つしかなかったのである。W・H・オーデンがいう次の言葉はポオの置かれた立場をいみじくも代弁していると思っている。つまり20世紀の中頃になってようやくポオの評価がされはじめたということでもある。

まず最初に、彼の墓は二十六年間も墓標さえ建てられずに放置され-それがついに建てられることになったときには、その建立式に出席した唯一のアメリカ作家はホイットマンだけであったが、彼は今日では二、三の学者の一生の仕事の対象になる危険性にさらされている。学者は、むろん、たいへん有用である。というのは、彼らの献身的な仕事によってはじめて、ポーはあらゆる作家が望むような読者にめぐり合えるかもしれないからである。
  -W・H・オーデン(八木敏雄訳)-

 さて、我々は再度、詩表現における韻律の問題に立ちかえらなければならない。ポオの他の詩たとえば『アナベル・リィAnnabel Lee』※34もその女の名前が読みやすい韻を響かせており、詩表現として優れているかを別として誰でもが口ずさみ易いものとなっておりアメリカに於いてもポピュラーな詩である。そしていずれの女も死んでしまったことに対しての男の追慕であることも共通している。また『大鴉』で詠まれている死んだ恋人の名はレノーアLenoreとなっており名前そのものがポオがいうような「子音のrと母音のo」でもあり、別詩である『レノーアLenore』※35とも同じくしている。それを考慮に入れると暗示的でもありポオが如何に音韻を意識していたかも分かるだろう。だがしかし、一方でそのリフレィンに伴う韻律についてW・H・オーデンは英語という言語圏を同じくする詩人として以下のように述べていることを書きとめておきたい。

だが問いと答えは別にしても、語の筋が自然に流れなければ、詩の効果が損なわれる危険はまだあり、ポーは英詩ではめったに用いない女性韻※36を多用する韻律法を採用したものの、これが筋の流れに対抗し、ときには詩に悪効果をもたらすことになった。

Not the least obeisance made he; not a minute stopped or stayed he;
But, with mien of lord or lady, perched above my chamber door,
(鴉は会釈ひとつするでなし、ひとときもとどまらず、とまらず、
貴人か貴婦人かの物腰で、私の部屋の戸のうえにとまった)

ここで"stopped or stayed he"とか"lord or lady"とかのように同意語を反復する必然性は語り手にも、その場の情況にもなく、ただ韻律の必要からそうなったに過ぎない。
  -W・H・オーデン(八木敏雄訳)-

 また同様に「ユーラルーム-バラードUlalume-A Ballad」※37についてもポオが母音にこだわったばかりにその音色の犠牲になって詩全体のもつ意味が判然としなくなったと手厳しく批判している。
 わたしは詩表現の持ちうる像領域を空間性に流れてゆく意味喩と深く時間化度を増してゆく暗喩というものによって成り立っているという言い方をした。大方の近代詩はそのように成り立っているからである。『大鴉』においては恋人を亡くした学者が風格のある鴉の出現によった学者の心象の変化を描いている。そして更にいうならばポオのいうように彼が拘りを持った言葉であるところのリフレィンによる"Nevermore"とは連句の中でどのような姿を見せるのだろうかと言うことにもなると思う。つまり"Nevermore"の意味性の変容がどのように為されたのかという表現の本質的な部分に触れなければならない。11連句にまたがる中で繰り返される"Nevermore"は無論ポオに言わせれば構成され意図されたものであり、誰が何といおうとも音韻を最適に配置したということになる。さらにもうひとつはわたしにとっては詩が持ちうる喩の力学に於いてどのように深みを帯びて像領域を彼がいう通りに果たしているのだろうかということになる。つまり言葉が"Nevermore"という同じ言葉なのに描く像領域がどのように変わるのかということになる。つまりポオのいうように劇的なまでに美しい詩になっているのかということでもある。そしてついでながら全てに於いて『構成の原理』の通りに詩は出来上がっていたのかということにもなるのだ。だがしかし詩表現は直観による垂直時間の馳せ上がりである。極めて言語表現における時間化度が濃密になったところに表現美が現れると言い換えれる。つまり『構成の原理』に基づくようにして詩は書かれないと言うことにもなるのだ。

第Ⅶ章-The Raven『大鴉』という詩篇は何を意味するのか-
 下記に『大鴉』の全原文を載せ、"nothing more"から"Nevermore"を結びとする「全連」を分けて、つまり長くはなるが『大鴉』を「連」毎の松村達雄訳と共に掲載した。そして『大鴉』そのものについて語る前に、ポオは詩人であるが小説家でもあった。当たり前のことではあるが言っておきたい。

         The Raven[First published in 1845]


Once upon a midnight dreary, while I pondered weak and weary,
Over many a quaint and curious volume of forgotten lore,
While I nodded, nearly napping, suddenly there came a tapping,
As of some one gently rapping, rapping at my chamber door.
`'Tis some visitor,' I muttered, `tapping at my chamber door -
Only this, and nothing more.'
あるわびしい真夜中のこと、心はいたく倦み疲れて、
遠き世の学問をつたえる奇書の数々をひもといていた-
こくりこくり思わずまどろみかけたとき、だしぬけにこつこつ戸をたたく音、
だれやらがそっと静かにわが部屋の戸をたたいている。
わたしはつぶやいた、「だれか人が来て、部屋の戸をたたいているようだ-
なに、ほかでもない、ただそれだけのこと」


Ah, distinctly I remember it was in the bleak December,
And each separate dying ember wrought its ghost upon the floor.
Eagerly I wished the morrow; - vainly I had sought to borrow
From my books surcease of sorrow - sorrow for the lost Lenore -
For the rare and radiant maiden whom the angels named Lenore -
Nameless here for evermore.
ああ、忘れもせぬ風すさぶ12月、
暖炉の火がつぎつぎと燃えつきるごとに、床には怪しい影がゆらめく。
ひたすらに待たれるは朝の訪れ-
わが嘆き-亡きレノアを懐うわが嘆き、忘れんとして空しくも書物をひもとく-
いま天使たちがレノアと呼ぶ、たぐい稀れな、光り輝くごとき乙女-
とこ永久にうつせみの世にその名はなく。


And the silken sad uncertain rustling of each purple curtain
Thrilled me - filled me with fantastic terrors never felt before;
So that now, to still the beating of my heart, I stood repeating
`'Tis some visitor entreating entrance at my chamber door -
Some late visitor entreating entrance at my chamber door; -
This it is, and nothing more,'
真紅のカーテンのあやしくも悲しげな絹ずれの音は、
わが心をさわがせ-わが胸をためしも知らぬ奇怪なる恐怖の数々でみたす。
そこでわが胸さわぎを静めんものと、わたしはたたずんだまままた繰り返す。
「だれかがやって来て、部屋の戸をあけてくれとたたいている-
なに、ほかでもない、ただそれだけのこと」


Presently my soul grew stronger; hesitating then no longer,
`Sir,' said I, `or Madam, truly your forgiveness I implore;
But the fact is I was napping, and so gently you came rapping,
And so faintly you came tapping, tapping at my chamber door,
That I scarce was sure I heard you' - here I opened wide the door; -
Darkness there, and nothing more.
やがてもっと大胆になり、今はためらうこともなく、わたしは声をかける、
「どなたですか、いあや、御婦人かも存じませんが、どうも失礼申しました、
じつはうとうとしておりまして、それにほんとにそっと来てたたかれたものですから、
ほんとにそっと来て、部屋の戸をたたかれたものですから、
どうも音がしたのやら、しなかったのやら」-そういってわたしはからりと戸を開けた-
そとは真くらやみ、ただそれだけのこと。


Deep into that darkness peering, long I stood there wondering, fearing,
Doubting, dreaming dreams no mortal ever dared to dream before
But the silence was unbroken, and the darkness gave no token,
And the only word there spoken was the whispered word, `Lenore!'
This I whispered, and an echo murmured back the word, `Lenore!'
Merely this and nothing more.
くらやみの奥をのぞき込み、怪しみつつ怖れつついつまでもたたずんでいた、
いぶかりながら、且つ、何人もいまだ知らぬ夢を夢みながら。
だが、沈黙は破れず、静寂は何の手答えも示さない、
そこでわたしがささやいたのはただ一言、「レノア!」
そうささやくと、こだまは同じ言葉を返して、「レノア!」
ほかでもない、ただそれだけのこと。


Back into the chamber turning, all my soul within me burning,
Soon again I heard a tapping somewhat louder than before.
`Surely,' said I, `surely that is something at my window lattice;
Let me see then, what thereat is, and this mystery explore -
Let my heart be still a moment and this mystery explore; -
'Tis the wind and nothing more!'
燃ゆる思いにあふれて、部屋の中へと取って返せば、
やがてまたきこえたのは前よりはやや強く戸をたたく音。
わたしはつぶやいた、「たしかに、たしかに窓格子のところに何かがいるにちがいない。
さて何がいるのかたしかめて、この謎をはっきりさせよう-
しばし心を静めて、この謎を確かめよう-
なに、風のせいだ、ただそれだけのこと!」


Open here I flung the shutter, when, with many a flirt and flutter,
In there stepped a stately raven※38 of the saintly days of yore.
Not the least obeisance made he; not a minute stopped or stayed he;
But, with mien of lord or lady, perched above my chamber door -
Perched upon a bust of Pallas※39 just above my chamber door -
Perched, and sat, and nothing more.
よろい戸をからりと開ければ、ひとしきり羽ばたきながら、
下り立ったのは、神さびしそのかみの威風堂々たる鴉。
頭一つ下げるでもなく、一刻もじっとはしていない。
さながら王侯か貴女のごとき面持ちで、わが部屋の戸の上へと止まった-
部屋の戸の真うえ、パラスの像の上につと止まって-
止まったままじっとしている、ただそれだけのこと。


Then this ebony bird beguiling my sad fancy into smiling,
By the grave and stern decorum of the countenance it wore,
`Though thy crest be shorn and shaven, thou,' I said, `art sure no craven.
Ghastly grim and ancient raven wandering from the nightly shore -
Tell me what thy lordly name is on the Night's Plutonian shore!'
Quoth the raven, `Nevermore.'
やがてこの漆黒の鳥のつんとすました物々しい顔つきに、
沈んだ気分もついに解きほぐされて微笑と変わり、わたしはつぶやいた。
「鶏冠こそ短く削ぎ取られてはいるものの、よもやお前は
夜の岸辺からさ迷い出た、臆病者の、うす気味悪いそのかみの鴉ではあるまい-
夜が統べる黄泉の国の岸辺にあって、王者たるお前の名は何というのか」
鴉は答えて、「またと告げじ」


Much I marvelled this ungainly fowl to hear discourse so plainly,
Though its answer little meaning - little relevancy bore;
For we cannot help agreeing that no living human being
Ever yet was blessed with seeing bird above his chamber door -
Bird or beast above the sculptured bust above his chamber door,
With such name as `Nevermore.'
この見苦しい鳥がかくも明瞭に語るのを耳にして、わたしはただただ驚嘆した、
その答には意味もなく-的はずれとは思いながらも。
たれしも思わないだろうか、いかなる者もいまだかって、
その部屋の戸の上に、戸の上なる彫像に、かかる鳥を-
鳥かはた獣か、かかるものを眺めたためしもないことを、
「またと告げじ」と、かかる名で呼ばれるものを。


But the raven, sitting lonely on the placid bust, spoke only,
That one word, as if his soul in that one word he did outpour.
Nothing further then he uttered - not a feather then he fluttered -
Till I scarcely more than muttered `Other friends have flown before -
On the morrow will he leave me, as my hopes have flown before.'
Then the bird said, `Nevermore.'
だが、鴉は静かな像にひとり止まって、
さながら魂すべてをそこにこめたかのようにそのひと言をいうばかり。
あとは何ひとつ語らず-羽根一枚すら動かしもしない、
ついにささやくようにしてわたしは、「お前はほかの仲間もすでに飛び去った-
明日ともなれば、数々の希望がわたしを見捨てたように、
お前もまたわたしのもとを飛び去るのであろう」
鴉は答えて「またと去らじ」


Startled at the stillness broken by reply so aptly spoken,
`Doubtless,' said I, `what it utters is its only stock and store,
Caught from some unhappy master whom unmerciful disaster
Followed fast and followed faster till his songs one burden bore -
Till the dirges of his hope that melancholy burden bore
Of "Never-Nevermore."
このうまい答えが沈黙を破ってきこえたのに驚いて、
私は思った。「たしかにこのひと言は、だれか不幸な飼主から、
習いおぼえたただ一つのきまり文句、
つれない不運につけ廻され追いまわされ、
飼主の唄にきまって出てくるのはこのただ一つの繰り返し-
その希望を葬う挽歌はまたしても悲しげなこの繰り返し、
『ゆめ、ふたたび-またとあらじ』」


But the raven still beguiling all my sad soul into smiling,
Straight I wheeled a cushioned seat in front of bird and bust and door;
Then, upon the velvet sinking, I betook myself to linking
Fancy unto fancy, thinking what this ominous bird of yore -
What this grim, ungainly, gaunt, and ominous bird of yore
Meant in croaking `Nevermore.'
だが、鴉はなおもわが悲しい思いを微笑みへと誘い、
わたしは褥おいた椅子をくるりとまわして、鳥と彫像と戸に面と向かった。
ふかぶかとびろうどの褥に身をうずめて、次から次へと空想をはせ、
いったい、そのかみのこの不吉な鳥は、とわたしは考えだす-
いったい、そのかみの、やせさらばえた、見苦しく、すさまじい不吉な鳥は、
どんなつもりで啼いているのか、「またとあらじ」と。


This I sat engaged in guessing, but no syllable expressing
To the fowl whose fiery eyes now burned into my bosom's core;
This and more I sat divining, with my head at ease reclining
On the cushion's velvet violet lining that the lamp-light gloated o'er,
But whose velvet violet lining with the lamp-light gloating o'er,
She shall press, ah, Nevermore!
わたしは鳥のこころに思いを致しながら坐していたが、ひと言も問いかけはしなかった、
火と燃えるその眼はわが胸の奥をも灼いた。
ともしびの光浴びるびろうどの褥に
やすらかにわが頭をもたらせて、わたしはあれこれと推しはかった、
しかし、ともしびの光浴びるそのびろうどの褥に
かのひとの身をよせるときは、ああ、またとあらじ。


Then, methought, the air grew denser, perfumed from an unseen censer
Swung by angels whose faint foot-falls tinkled on the tufted floor.
`Wretch,' I cried, `thy God hath lent thee - by these angels he has sent thee
Respite - respite and nepenthe from thy memories of Lenore!
Quaff, oh quaff this kind nepenthe, and forget this lost Lenore!'
Quoth the raven, `Nevermore.'
やわらかな毛氈の床、足音もかろく歩む天使たちの手に揺れる
見えざる香炉から香は流れ、部屋の空気も濃くなったかと思えるばかり。
わたしは叫んだ、「哀れなるものよ、神はなんじに-この天使たちの手によって神はなんじに
休息を-レノアの思い出を消す休息と忘れ薬を贈りたもうた。
飲め、この心の傷を癒す忘れ薬を飲みほして、今は亡きレノアを忘れよ!」
鴉は答えて、「またと忘れじ!」


`Prophet!' said I, `thing of evil! - prophet still, if bird or devil!
Whether tempter sent, or whether tempest tossed thee here ashore,
Desolate yet all undaunted, on this desert land enchanted
On this home by horror haunted - tell me truly, I implore -
Is there - is there balm in Gilead? - tell me - tell me, I implore!'
Quoth the raven, `Nevermore.'
わたしはいった、この予言者め!災いなる者!-鳥か、はた悪魔か、ともあれ、この予言者め!
サタンがよこしたか、あらしが吹き送ったか、お前をこの岸に、
すさまじい、されどおめず臆せぬお前を、この魅せられた荒涼の地に、
「恐怖」に憑かれたこの家に、-お願いだから教えてもらいたい-
そもそも-そもそもギリアドには痛みを癒す香油はあるのか-
どうか-どうかそれを教えてもらいたい!
そのとき鴉はいった、「またとあらじ」


`Prophet!' said I, `thing of evil! - prophet still, if bird or devil!
By that Heaven that bends above us - by that God we both adore -
Tell this soul with sorrow laden if, within the distant Aidenn,※40
It shall clasp a sainted maiden whom the angels named Lenore -
Clasp a rare and radiant maiden, whom the angels named Lenore?'
Quoth the raven, `Nevermore.'
わたしはいった、「この予言者め!災いなる者!-鳥か悪魔か、ともあれこの予言者め!
頭上に弧を描くこの天にかけて-われらが共にあがめたっとぶ神にかけて-
悲しみにひしがれたこの魂に告げよ、はるかなるエデンの園で、
天使たちがレノアと呼ぶ天国の乙女をわたしが抱くときがあるだろうか-
天使たちがレノアと呼ぶ、世にも稀な輝くばかりの乙女をだくときがあるだろうか」
鴉は答えて、「またとあらじ」


`Be that word our sign of parting, bird or fiend!' I shrieked upstarting -
`Get thee back into the tempest and the Night's Plutonian shore!
Leave no black plume as a token of that lie thy soul hath spoken!
Leave my loneliness unbroken! - quit the bust above my door!
Take thy beak from out my heart, and take thy form from off my door!'
Quoth the raven, `Nevermore.'
「鳥か、はたまた悪魔か、その言葉をわれわれの別れの挨拶としよう!」と、
わたしは立ち上がりながら叫んだ-
「さあ、あらしの中へ、夜の統べる黄泉の国の岸辺へと帰れ!
お前が口にした嘘言のしるしのその黒い羽根を、一枚なりともあとに残すな!
わたしをこのままそっと一人きりにして-戸の上の胸像から立ち去れ!
わが胸からお前の嘴を抜き去り、お前の姿をわが戸の上からかき消せ!」
鴉答えて、「またと去らじ」


And the raven, never flitting, still is sitting, still is sitting
On the pallid bust of Pallas just above my chamber door;
And his eyes have all the seeming of a demon's that is dreaming,
And the lamp-light o'er him streaming throws his shadow on the floor;
And my soul from out that shadow that lies floating on the floor
Shall be lifted - Nevermore!
かくて鴉は飛ぼうともせず、なおも止まったままでいる、そのままじっと止まっている、
わが部屋の戸の真うえ、蒼ざめたパラスの像に。
その眼はさながらに夢みる悪魔の眼、
ともしびの光は鴉にそそぎ、その影を床の上に落とす。
床に落ちたその影からわが魂が離れ去ることは、
離れ去ることは-またとあらじ!

  -松村達雄訳-

 読んだ感じはいかがであろうか。韻も原文を見ればだいたいのところもつかめるだろう。意味としての表層は訳文から少しは読み取れるだろうし訳文を飛ばして一挙に原文を読み込むこともいいだろう。ポオの規定にかかわらず詩としては随分長く感じられたのではないかと思う。いかにもポオの中では長文詩でもあることもわかる。そしてそれは読むという視覚からと、それが言語を異なることにすることから一旦時間的な了解作業を経ているからだとも云えるだろう。もっともそのことを除いたとしてもこの詩は様々なものを持っている。おそらくは朗読詩として聴覚を通して了解したならば音を媒介させることになり違う姿も見せると言うこともいえる。わたしはこの詩を読んでいるときに最初に思ったのは散文世界を感じさせたと言うことであった。いかにも全体的に物語的な要素を深く漂わせているといってもいいだろう。なぜにそう感じさせたのかは1から始まり7までにある結び言葉"nothing more"などを用いて作った「連」に空間性に拡張されてゆく表現を多く使っているからである。ドアをたたく音とか部屋の物とかがそれをさらに押し広げてゆく。そしてまた学者の悲嘆がなぜかも指し示し、またその死者への思いに耽っているのが真夜中の部屋という密室的空間の設定であることも示すための「連」でもある。恋人を失ったこの学者の心象を暖炉の燃える炎の影が床で揺らぐという隠喩で表し次の連の喩ではそれが真紅のカーテンにとって代わられる。そしてポオらしくというか、段階をひとつひとつ上げながら不安を煽り、それはもはや戦きとよべるまでの気持ちの昂ぶりを示し、その戸を開けようとする衝動にまで高めてゆく。またそれは死者であり、恋人であったレノアに対する激しい追慕の念であり孤独に浸っていた密室であるはずの部屋の主人たる学者は誰かが戸をたたく音のために何度か体を移動さえする。いうならば"nothing more"の意味性をそれぞれの当該連の隠喩によって意味を変えさせ、つまりここでの男(学者)の表象である聴覚や視覚をそれを顕す言語表現によって言葉の持つ像領域そのものを変換させているということになる。『"nothing more"=ただそれだけのこと』の指し示す内容に変化を持たせているということになる。ポオが1から6までの「連」の間で行っていることのひとつにレノアという佳人の死を織り込んでいることであり、彼女が死して再び男(学者)の元にやって来るのではないかという思慕の念と共に全く相反する恐れも描いている。そしてこのような一種の「死美人」※41はポオが様々な作品で取り上げているのでその作品の説明をすることをしないが、この『大鴉』においても死者が生者として甦るのではなく、死者のままやって来るということを暗示していて夢幻的な暗闇の美を最初の連で創りあげているということにもなるだろう。そしてまたこの得体の知れない"visitor"が戸をたたくという決して姿を現さない登場の仕方をし、連を重ねるごとに、その決して像を結べぬ気配を伴う領域に恐怖という意匠を感じさせながら進行してゆく。そしてその先には悲劇を通り越した「絶望」というものが待っていたとわれわれは読み解かなければならないだろう。エンディングまでに進む様々の喩の裏に隠れていて結び句に至る"Nevermore"とはまさしく「絶望」という言葉の象徴なのであり、それゆえにこの『大鴉』は詩たらしめているのだと思う。文語的に装った『大鴉』も「悲劇」にはヒロインが必要であるという構成立てになっていて、ポオの得意とする「美女の死物語」の雰囲気を漂わせているといえよう。たとえ恋人が死者になっていても追慕の念の消えない男の被虐的心理を詩として詠おうとしているのである。愛と死という当時の大衆文化※42でもてはやされそうなテーマであるともいえる。またそのことは表現に劇的な意味をもたせるためには既成言語帯に依存するしかなく、また旧時代からの韻律にこだわることによって従来の古典的表現法を踏襲するしかなかったともいえる。またそうでなければ先立つイギリス「文芸」※43に慣れさせられていた一般大衆が読むと言うこともなかったのではないかと思われる。
 アメリカの19世紀の時代は当然といえ18世紀を引きずっていたのであり、独立戦争後イギリス文化の影響からようやく脱却しようとしている時代でもあった。そしてアメリカ産業資本主義の急激な発展※44は機械システムの導入をあらゆる業の中に組み入れ、それと共に物流システムも発展してゆくことになった。出版業もこの例外になることは出来ずに「読み物雑誌」を量産化し国内全域に販路を見いだしてゆくという時代も迎えていた。急激な雑誌文化の伸長は読者層を増やすと言うことがあっても知的層を増やすこととイコールとはならないことも現実として残った。新たに出現してきた大衆と呼ばれる人達の意識の位相は無学に近いままであったのである。雑誌出版社の編集者という立場にいたポオもまさにそういう時代の真っ只中にいて大衆文化と純粋芸術のはざまにいたということである。
『ポオの年譜や書簡』を思い起こして欲しいのだが『大鴉』がニューヨーク・イブニング・ミラー誌によって世に出たのは1845年のことであり『構成の原理“The Philosophy of Composition”』が書かれた1846年にニューヨークへ引っ越ししている。14才の従妹Virginia Clemmと結婚したのは1836年であり1847年にはヴァージニアが亡くなっている。「死美人」のイメージが彼の作品の中になぜ執拗に描かれたのかを最小限書いておきたいと思う。そしてそれが『大鴉』の位置関係とポオの書いた言葉の持ちうる解読にも繋がるものだとも思っている。
 ヴァージニアと結婚して数年の間その母を含めた三人の生活は貧乏であったが愛に満ちた生活であったと想像するに難くない。だが1842年に愛妻ヴァージニアが喀血し5年後には死が待っていたと云う状況にあった。その通り『構成の原理』を書いた翌年にヴァージニアは帰らぬ人となりその二年後1849年ポー自身も絶望の果てに死んでいる。死という影がその生活過程に於いても具体的なものを伴ってポーの脳裏から離れなかったと言うことである。詩篇『大鴉』は大衆文化の狭間に於いてのいわば二律背反とも言うべきポオの芸術主義と生活過程においてのふたつの挫折というポオが持ちえていただろう予感、そういった背景すべてを象徴しているのである。『大鴉』の中で鴉自身が登場してきてからの学者※45との問答を読めばそれがすべて象徴的に暗示されているという解読が出来るのである。そう、その通り、学者の期待感を秘めたどのような問いにも鴉は「絶望」という答えを投げ返してくるではないか。いかにも、「愛と死」という大衆受けするテーマの他にポオはあらゆる事象に対しての「絶望」という言葉を無意識に於いてそこに挿入したのである。そしてその絶望は『大鴉』を書いた四年後1849年に道端で倒れた彼の死※46をもって具現化して40年にわたる人生の幕を閉じる。

第Ⅷ章-ポオとその現代的意義-
 さてどうやら私の中ではこの論も終わりを告げた。詩篇『大鴉』を通して独立戦争後に急激に発展し始めたアメリカ社会における文学というものの一端でもこの小論によって窺うことが出来れば、これに叶うことはないと思っている。また、ポオ以外の同時代であるナサニエル・ホーソンやヘンリー・ワーズワース・ロングフェローをはじめとする作家や詩人にも触れたかったがそれは私の任でもなく文学者や評論家たちがすでに解き明かしている分野でもある。また『大鴉』のみならずエドガー・アラン・ポオその人についても山ほどの書物や資料も出ている。そういった意味でも私の論は先人達の駆け入った道標があり、それを参照させて貰ったと言うことは幸運でもあった。先人達の遺産に感謝したいと思う。また、ポーの様々な軌跡を資料を辿っていた中で文学と社会という一種の二律背反したものをあらためて実感させて貰ったことは大きな収穫であった。言ってみれば過去に於いて教条主義的にまで語られたものにいったん距離を置いて文学というものを見つ直すことが出来たということである。またそれは資本主義が高度に発展してゆこうとする社会の中で文学の価値というものの「値うち」を知ったと言うことでもあるかと思う。そのアメリカ産業資本主義の中で弄ばれてゆくポオの姿は今日の私達にとっても人ごとで片づけられないものをわれわれに教えているのではないかということでもあり売れるものが必ずしも値うちがあるということでないことを現代人であるわれわれが知ることが出来たということでもあった。いわば即物的に値うちがつけられる物の中に芸術はあるものではないという姿をポオの持っていた理想の中に見たような気がするからであった。また大衆の姿というものにポオがいつも悩まされていたと言うことも膨大な資料の中で知ることが出来たということもついでに書きとめておきたい。いわゆる愚民化が高度に発展した社会が現代であることも踏まえポオが死して一世紀半後も同じ問いに我々が立たされているのだと言うことでもあった。
 また才人であったポオを考えるにあたり私は次の吉本隆明の言葉を思い出していた。

 かれは、ある真が表現されるためには、仮構を媒介にする方法しかないと考えているか、あるいはすべての真は直接性によってなりたつとかんがえているか、どちらかである。あるいは、かれはじぶんを直接愛憎しているか、できるだけじぶんから遠ざかった姿での、じぶんを愛憎しているかのどちらかである。また、かれはじぶんがある直接のふんいきとして存在していると信じているか、他からみられたときだけじぶんが、真のじぶんとして存在するとかんがえているか、どちらかである。資質としてかんがえれば、詩的な資質も散文的な資質も存在している。
  -「言語にとって美とはなにか 第Ⅱ巻 Ⅴ章 構成論」(吉本隆明)-

 これからするといったいポオという才人は詩人であるのか小説家であるのかということになるが、今の私には両方であるとしてしか答えることが出来ない。
 終わりにあたってこの論を書くきっかけを作り、尚かつ若さで溢れた「The Raven」の試訳を提供してくれたnoon75氏に感謝したい。彼から受けた様々な叱咤激励を決して忘れるものではない。またこの小論については他人の指摘を待つまでもなく中途半端で終わった観も否定しないし、それも充分に自覚していることである。またポオの詩篇という限定の中で論じられていったものでもある。とはいえ、それが成功したかどうかは自信があるわけでもなく、それもこれも筆力のおよばないことであると思っていただいて御容赦願いたいところである。
  -この稿終了-

記:この稿ははてなダイアリにおいて「スタイルとはなにか 9」と名付けられ、平成19年3月4日から書き始められ同年5月22日まで十二回にわたって連載という形で書かれた。そしてこの論は再度編集されここに転載されたものである。



※2エドガー・アラン・ポオの幻想的な名篇The Ravenをギュスターヴ・ドレの挿画26葉を加えた幻想的な一冊にした。日夏耿之介の名訳といわれている。
※3埴谷 雄高はにや ゆたか、男性、1909年12月19日 - 1997年2月19日は、小説家、評論家。本名は、般若 豊はんにゃ ゆたか。日本が生んだ観念小説「死霊」の作者。平野謙、本多秋五らと「近代文学」を創刊した。
※4ダニエル・デフォーDaniel Defoe1660年 ? 1731年4月21日:ロビンソン・クルーソーを書いている。
※5シャルル・ピエール・ボードレールCharles Pierre Baudelaire:1821年4月9日 - 1867年8月31日はフランスの批評家、詩人。詩篇としては『悪の華』(Les fleurs du mal)、『パリの憂鬱』(Petits poemes en prose, Spleen de Paris)などがあり、そのほか美術、音楽、文学批評に優れたものを残している。
※6ところがこのポオーの出自については当時色々な問題が多く、ボードレールがテクストとして参考にしたルーファス・グリズウオールドなる編集者の手になる1850年出版の『故エドガー・アラン・ポオ全集』の中に於いてもポオーの出生やその後についての誤謬が多いと言われている。また、ポオーとグリズウオールドとの関係についても、Graham's Magazine編集者の前任者、後任者という関係だけではなく不明な点も多い。またポー自身が都合上グリズウオールドに経歴年を偽らざるを得ないこともあった。
※7明らかに父方の祖父の誤り
※8ラファイエットについてはウイキペディアを参照のこと。
※9これはジョン・ポオのことであるが、彼の妻となったのはジェームス・マック・プライドの娘ではなく、姉妹であると今日判明している。
※10加島 祥造かじましょうぞう. 1923. 東京生まれ 早稲田大学・英文科卒業 カリフォルニア州クレアモント大学・大学院留学 信州大学、横浜国立大学、青山学院女子短期大学で英 文学を教えた後、現在信州伊那谷に住む。「荒地」に参加する。英米文学者、詩人、画家. 老子の「タオ」を日本語で出版。
※11入沢康夫訳では原題でも使われているタマレーンがチムール大帝の別称であるところから詩題をチムール大帝としている。
※12この詩集は既発表のものも含め11篇で序には最初の詩篇と書かれる。-橋田久康「ポオ年譜」-より。これは第一詩集が借金持ちの身分を隠すために匿名であったからだとすると、当初担いだその借金についてはこの頃解決していたのかも知れない。
※13ガストン・バシュラールGaston Bashelard:1884-1962年。フランスの哲学者。ソルボンヌ大学教授。科学史、科学哲学専攻。『大地と休息の夢想』La Terre et les reveries du repos、『空間の詩学』La Poetique de l'espaceなどの著書がある。
※14アレン・テート(1899-1979):アメリカ南部の詩人、批評家。20世紀前半アメリカ南部で興った文学運動、いわゆる「新批評」の論客。「南部軍の死者に捧げるオード」、「地中海」などの詩がある。「わが従兄ポオ氏」Our Cousin, Mr. Poeを書いている。
※15イザベル・ムーニエIsabelle Meunier参照
※161830年代から1840年代は「雑誌の黄金時代」と呼ばれ50年には四、五千種にものぼったといわれている。
※17ニューヨーク・トリビューン:1841年には、ホレス・グリーリーが「ニューヨーク・トリビューン」紙を創刊し、同紙はまもなく国内で最も大きな影響力を持つ新聞となった。
※18J・W・クラッチ:Krutch, Joseph Wood (krooch) , 1893?1970,著作としては「Edgar Allan Poe: A Study in Genius (1926)」などがある。 American author, editor, and teacher, b. Knoxville, Tenn., grad. Univ. of Tennessee, 1915, Ph.D. Columbia, 1923. He was on the editorial staff of the Nation (1924?52), and held a professorship at Columbia (1937?53).参照元:Free Encyclopedia Articles at Questia.com Online Library
※19エイブラハム・リンカーン:1809年2月12日 - 1865年4月15日は、第16代アメリカ合衆国大統領。初の共和党所属大統領。彼の大統領就任はアメリカ合衆国を二分し、南北戦争に結びついた。アメリカ合衆国とアメリカ連合国の戦いであるAmerican Civil War, 1861年-1865年は文字通りの「総力戦」だった。
※20アルフレッド・テニソン1809年 - 1892年、イギリスの桂冠詩人。『Poems by Alfred Tennyson』、『イノック・アーデン Enoch Arden』等がある。
※21後日ではあるが三上先生の『ワタリガラスcommon ravenに出会っていた!』によると北海道にやはり生息しているようだ。写真が載っている。
※22イギリスに於いては、アーサー王が魔法をかけられてワタリガラス(大ガラス)に姿を変えられたと伝えられる。この事から、ワタリガラスを傷付ける事は、アーサー王(さらには英国王室)に対する反逆とも言われ、不吉な事を招くとされている。
※23神武東征の折、創造神である高御産巣日神タカミムスビから神武天皇に遣わされ熊野から大和への道案内をしたとされるカラス
※24カラス:Franz Kafka,フランツ・カフカ(1883年7月3日 - 1924年6月3日)のカフカつまりkavkaをチェコ語でカラスを指すということを『カフカ短編集』の翻訳者である池内紀がその「あとがき」で述べている。フランツの父であるヘルマン・カフカはユダヤ系の小間物商人であった。またその商店の商標にカラスを図案としたとあり、ヘルマン自身がカラスに対して恥じ入っていないという事を意味している。
※25マリー・ボナパルトMarie Bonaparteフロイト理論を早くからフランス語に翻訳した。フロイトの最後までを看取った女性としても特別な存在であり、その生涯はカトリーヌ・ドヌーヴ主演によって2004年にテレビ作品化されていて、80歳(フロイト)の男性と50歳(プリンセス・マリー)の女性のラブ・ストーリーとして描かれている。著書としては『クロノス・エロス・タナトス―時間・愛・死』Chronos,Eros,Thanatosなどがある。
※26『構成の原理』篠田一士訳、The Philosophy of Composition「構成の哲学」と訳されている場合もある。この論では『構成の原理』とし、The Ravenを『大鴉』とした。『構成の原理』の英語原文についてはPhilosophy_of_Compositionを参照して欲しい。
※27チャールズ・ディケンズCharles John Huffam Dickens, 1812年2月7日 - 1870年6月9日は、イギリスのヴィクトリア朝を代表する小説家。自伝的要素が強い『デイヴィッド・コパフィールド』をはじめ『二都物語』、『大いなる遺産』などの作品がある。
※28ウィリアム・ゴドウィンWilliam Godwin, 1756年3月3日-1836年4月7日。イギリスの無政府主義者、ジャーナリスト。小説『ケイレブ・ウィリアムズ Things as they are,or theadventures of Caleb Williams,1794年』と論文集『探求者』(1797年)、回想『メアリー・ウルストンクラーフトの思い出』などがある。
※29ウィスタン・ヒュー・オーデンWystan Hugh Auden, 1907年2月21日 - 1973年9月29日詩人。英国ヨークに生まれる。1946年にアメリカ国籍を取得。
※30加島祥造がThe Ravenを訳したあとがきでそう名づけている。
※31The Ravenの日本語訳として私が参照している訳者は以下の六人である。阿部保松村達雄福永武彦加島祥造安藤邦男noon75の六氏の訳文を参照させて貰っている。そしてあえてもうひとり付け加えれば自分と言うことになる。ただしへっぽこ翻訳しかできないので除外した。
※32「大鴉」の全文と音声朗読については「書架」を参照して欲しい。クリック
※33トップ写真はガストン・バシュラール。以下は『夢見る権利』より引用
※34Annabel Lee:1849年
※35Lenore:1831年
※36feminine rthme:二音節または三音節の押韻で、アクセントのある音節のあとで弱い一(二)音節で終わっているもの。例としてはmotion,notion/fortunate,importunateとかがある。
※37Ulalume-A Ballad:1847年
※38ravenの語源自体は擬音語。アーリア系言語の語源では鴉の鳴き声に近いといわれている
※39パラスはアテネの守護神であり学者の部屋に飾るにふさわしいとされるが、それ以外にも発音したときの響きにも注目して選ばれたといわれている。
※40Edenのことであるがポオはこう綴った。これも音韻からそうしたのではないかと思われる。
※41ポオが死美人にこだわり、また『大鴉』の中でも学者が願う天国においても抱きしめたいとするレノアなる美女への想いの裏には彼が幼年時代から青年期までの間の二人の女性の死のイメージの影があったといわれている。つまり幼くして死別した母親とそれに代わった養母アラン夫人の死であった。最も重要なモチーフとなっているのはポオの病弱な幼妻、ヴァージニアである。
※42ポオは雑誌編集者としても優れた才能を発揮していて大衆が好む物を知っていた。当時のアメリカにおける産業資本主義の発展は今までの農本主義的な中で生きてきた大衆像を変えてしまった社会を迎えていたのである。つまり大衆文化が芽生え初め新たな読者層が出現してきたのである。しかし所詮は大衆文化でしか無く奇をてらった物が人気を集めていた。
※43独立戦争後、著作権フリー状態であったアメリカ出版文化は一斉にイギリス文芸、総じて詩や小説など一切の文化の無秩序かつ大量生産的出版に走った。それは逆に生粋のアメリカの詩人や小説家に出版の機会も奪ったという情況も示している。
※44アメリカは農業社会から工場生産を主体とする産業資本主義社会に変貌を遂げつつあった。そして機械技術の発展は人間をその労働の軽減化を図るものとされ、拠って人間の平等をもたらすとする信条とデモクラシーが結びついた時代でもあり機械文明礼讃が始まったと言える。そして1848年のカリフォルニアでの金の発見がその拍車をかけることにもなった。-参照:「ポーと雑誌文学」(野口啓子)彩流社版-
※45いかにもポオ自身の分身である
※46ヴァージニアを失ってからのポオは完全に生きる気力を無くしていてアルコール漬け同様であったといわれている。またそれが彼の奇言癖を増長しほとんどの友人といわれる者や庇護者と呼べる者達も遠ざかり、孤独の内に死んだ。

2007-07-31

鈍痛の王-矢島輝夫-

 この「鈍痛の王」という言葉は60年代の後半、矢島輝夫(*註1)がその小説『裂魂』(*註2)のなかで主人公を捉えて離さなかった感覚である。そして暗黒に閉ざされた未来に向かうときストイックなまでの彼の魂は引き裂かれていく。

ふと潤三はあの鈍痛の王を待っている自分に気づく。あの感じ 瞼がだんだん温もってきて 真珠色の光がチラチラしてきて 痛イヨオ痛イヨオと叫びが聞こえてきてだがなんていいんだ 痛いっていうのはなんていいんだ・・・・・・
 -「裂魂」矢島輝夫-

 この中での潤三はデモ(60年安保闘争)で機動隊に頭を打たれた後遺症に悩まされていて、この取り憑いた鈍痛の王によって会社は首になり生活不能者としての道を歩んでいく。潤三は離婚した妹の子供達の面倒を見ながらその妹と母親の営んでいる水商売の上がりで生活しているという設定になっている。いわば世の隅で誰からも振り返ることもされない社会的敗残者の家族の一員として歴史の暗闇の中を生きていくのである。
 潤三は記憶の中にある安保闘争で受けた傷と東京大空襲の中で幼いながらに母と逃げまどう姿とを重ねながら常に頭の脳髄を撃たれ続けていく。しかしある日潤三は公園にある池の中に棲まう鯉をみて感銘を受ける。まさしく中村文昭が「裂魂」によせた批評文「悪無限の呪縛と溶解志向」で書いている通り、その存在の畏怖にほかならない。

そのようにひっそりとした存在、その鯉がいるということさえ、めったに誰にも知られることのないそのような在り方に潤三は感銘し、その鯉の生が殆ど誰にも知られることのないように、その死が誰にも知られることのない生!
 -「裂魂」矢島輝夫-

 いうならば池の底にいる鯉のもつ生物としてのひっそりとした「生と死」の繰り返しに大衆の原像を一瞬の内に見て取ったといっていいだろう。矢島のここに於ける読点を駆使した実験的文体はあらゆる暗喩に覆われていて難解だ。いわゆる言葉が言葉を探っていくように矢島の意識は捻り歪みながら言語空間を撃ち続ける。潤三が自分の役割としていつも面倒を見ている妹の幼い子供達チコと朝男に惹き起こされていく終半のイリュージョンはまさに凄惨であり、その分、感動的でさえある。

 一粒の麦 地に落ちて死なずば ただ一粒のままにてあらむ 一粒の麦もし死なば 豊かに実を結ぶべし・・・・・・
 というチコの声がつづき、おれが死んだからチコの腹に豊かな実を結んだということなのかと苛だっておもい、いったいチコはなぜわざわざおれに聖書の中の一節を口誦したりするのかと腹立しくなってしまい、いったいチコは腹の中のこどもをどうするつもりなのか、と必死になってかんがえ、まさかおれのこどもではあるまいと構えるような姿勢になってただひたすら腹の膨らみに目をやっていると、胸を何かに圧迫されるような感じで目が醒めた、べつに何がどうしたということではない、とほっとして安堵し慌てて隣の蒲団のほうへ目をやると、そこには五歳のチコが睡っていて、その途端おれはああこの子は夢の中にいたチコの腹に入っていた赤ん坊だ、と思ってしまい、まるで、おれのこどもだ、顔つきや睡るとき拳をつくる癖までおれに似ている、(後略)
 -「裂魂」矢島輝夫-

 そして過去から追撃されていく中での生への転換は人を圧倒する。

罅割れた大地がせりあがってきて血の滲んだ泥が輪郭の不鮮明な塊をつくりそれはもこもこともりあがって、精液の匂う女の股の形になってその割れ目が濡れてきてぽっこりと穴ぼこがあき、そこから低い呻きのような声が洩れてきて、あおあおっと堪え切れなくなった呻きがこぼれてきたとき、おれはぼこっぼこっと執拗に殴打されていて、殺せ殺せ、という呪文のように繰り返す声音・・・・・・
(中略)
おれはぎりぎりと殺せ!殺せ!と鳴り響く言葉の嵐を必死に堪え、おれは殺されまいとして足を踏んばってまさにおれを殺そうとしているのは、おれ自身なのだと気づいて太い息を吐き、おれ自身にこびりついている記憶こそが、おれを殺そうと迫っていることに気づき、おれは呻くように生きてやるぞと叫びたくて咽喉を、ふるわせるがうまくいかないで、しかし必死に声を上げようとし・・・・・・
 -「裂魂」矢島輝夫-

 最後に彼は二人の幼子を前にしてこのように『裂魂』を結んでいく。彼は間違いなく未来に架橋しようとしたのである。

それは豪奢で、重く充実し、危うくおれをたわませるほどの熱さ、頭を撲られ現実世界から放逐された者のみの初めて到達しうる思想であり、暗いどろどろとした底点でのあがきが突如矜恃の光を放って輝く瞬間、おれは立ちあがるのだ、歩くのだ、育てるのだ!いまこそおれの恐怖が原動力、おれ自身が生きるための、ふたりのこどもを育てていくための・・・・・・いまこそ、おれの恐怖が原動力・・・・・・いまこそおれの恐怖が・・・・・・
 -「裂魂」矢島輝夫-

 矢島輝夫は『裂魂』のあとがきで以下のようにいっている。
『ここ数年、私は<世界>から放逐された人間は<幻想>のみを拠点として、いかに<世界>を隷属できるかという主題にとりつかれてきた。-1970年10月のあとがき-』と。まさしく取り憑かれた妄念であった。
※60年安保闘争。岸首相の日米安保条約改定に反対し、デモ隊が国会を包囲、突入した(*註3)。

追補1 矢島輝夫の短歌について。
 歌人としての矢島輝夫の側面については倉田良成氏の「増補 矢島輝夫歌集を校正して」に詳しく書かれているのでそれを参照してほしい。ちなみにその中でも惹かれた矢島輝夫の短歌を下に書くと共に倉田良成氏の解説の抄を引用した。

 暁暗を蒼ざめし馬かけぬけて腹の底より怒りを歌え
 -矢島輝夫-
 うたわれている「怒り」が何であるか、作者はそれと指し示してはいないが、私には痛いほど分かる気がする。「蒼ざめし馬」とはむろんヨハネの黙示録のそれであろう。「腹の底より」という表現でも明瞭なように、作者は濁世として見えている今の時代に対し、けっして器用ではないけれど、その分骨太で膂力のある詠み振りによって、歌の持つひとつの側面である荒ぶるこころ、ともいうべきものをまっすぐに吐露することに成功している。この歌に、ある健康さを感じるのは私ばかりであろうか。
 -倉田良成-

追補2 2004年3月12日に私が書き記していたこと-remembrance-
 昨日Googleを色々検索していたのだが歌人、詩人のカテゴリから波及して矢島輝夫の名を見出した。私の胸が一瞬のあいだ熱くなり、目はさらに検索を追うた。その世界に縁のない私にとってはそれは小さな衝撃を与えた。
 確か当時の私が二十歳ぐらいであるから1970年前後の事ではなかったかと思う。ある大学学園祭の講演の後でその大学の新聞会の連中を交えて矢島輝夫氏と二、三言葉を交えたことがあった。彼はその当時同人誌「試行」(*註4)のメンバーと関わっていたかと思う。私はその後彼の書いた「暗き魚」に惹かれ、当時出た単行本2冊をむさぼり読んだ。そして彼の実験的文体の構造的な部分の批評を行い彼にその小文を手紙で送った。彼から丁重な手紙の返事が来た。私も若かったのである。
 私は今その当時の記憶の断片が次から次へと湧き起こってきて内的時間を鎖のようにしてしまう感覚に襲われている。そしてそれから私の記憶はさらに歪んでいく。その数年後だったかと思うが小さな出版社の編集をやっていた私の友人の自死とその後(*註5)の葬儀の運営で故人の周囲の人々に責められ憔悴していた頃の私が思い出されきた。葬儀委員長は私だったのだ。後日彼の書き残した詩片(*註6)は遺稿集として出版された。そして私は最後までその遺稿集の出版に対して抵抗した。出版に反対していた彼の娘の言葉の方が重かったのである。遺稿集の後書きにはその編集者である坂井信夫(*註7)によって非協力的態度をとった私が名指しで批判されていた。その後私はわだかまりを一切表に出すことなく一生懸命脇目もふらずに市井にとけ込み生活を続けた・・・・。
 そしてGoogleの検索によって記憶から追撃された私はあまりにも長かった私自身の空白を深い哀しみをもって思い知ったのであった。

*註1:矢島輝夫(やじま てるお) 1939年5月20日 - 1999年4月2日没。小説家、歌人。作品としてはそのほか『炎上』、『直立の屍体』、『暗き魚』、『炎えろ死者』などがある。ウィキペディア
*註2:『裂魂』は1970年11月30日第1版として三一書房から刊行され、文中の引用文はそれから引用した。また引用文を多く採ったのは既に絶版となっていて少しでも前後が分かればという思いがあったからである。一般の古書店では取り扱っているところも多いようだ。
*註3:全学連主流派を率いた政治組織、共産主義者同盟(ブント)はこの日、国会に三回突入し、東大生樺美智子=当時(22)=が死亡した。「暴力です。警官隊のすごい暴力です。これが日本の現在の情勢です」と叫んだ旧ラジオ関東の島碩弥アナの実況は騒然とした当日を伝えていた。
*註4:1961創刊 谷川雁 村上一郎 吉本隆明が初期のメンバー
*註5:妻や娘に逃げられた彼はその半年後板橋のマンションで首をつった。私は当時心配になって何度か彼の部屋を訪ねたが居留守を使い会ってはくれなかった。そして最後の訪問の20日後彼は自死に臨んだ。私は葬儀の出席を最後まで拒んだ彼の妻や娘にギリギリまで説得を試み最後に渋々了承を得たのだった。要するに私は友人の「最低の最後」に立ち会ったのであった。
*註6:彼の遺した原稿は全て彼の娘の手にあって彼の死後数日して娘は私の手元に置いて行った。読みたくないと云って。
*註7:現代詩人。主宰誌「索」。著作には「アンソロジー坂井信夫―現代詩の10人」ISBN:481201249X、「冥府の蛇」ISBN:4812004934黄泉へのモノローグ」ISBN:4812014700などがある。

2007-06-30

翻訳詩とはなにか

 まず最初にqfwfq氏の『・・翻訳詩の問題』を興味深く読ませていただいた。一応今のところまだ「はてなダイアリ」において連載中であるということを断っておきたい。またそれにも関わらず私のようなものがこのような論を進めるには問題があると思うがそれだけ私を突き動かす内容があったということで許されたいと思う。qfwfq氏がまず取りあげている『訳詩と創作詩』の持ちえる問題点についての吉川幸次郎と大山定一とのやりとりにはいたく興味を持たされた。もう一度落ち着いて読み直し、何度もこのエントリィに書かれている内容を考察し、語を置き換えたりしている自分に気づき自嘲していた。氏の言う通り『詩的言語のベクトルの違い』って言うしかないような気がするのではあるが、吉川幸次郎のいうところの「文人の翻訳」、「学人の翻訳」というところで哲学の分野にまで入ると、まさしく「学人の翻訳」ってことになるんだろうな、と妙に納得もしてみたりした。こと文学の範疇に入るものには問題点がたくさんあるようだ。では始めよう。
 いきなりになるのだがアルチュール ランボオの「地獄の季節」の代表的な新旧の翻訳文を下に並べてみた。「新」、「旧」というにはあまりにも誤解を招くような気がするが、あえてこの試論の始まりに、とさせてもらった。
 ***
 かっては、もし俺の記憶が確かならば、俺の生活は宴であった。誰の心も開き、酒という酒はことごとく流れ出た宴であった
     -「地獄の季節」(序章)小林秀雄訳(ISBN:4003255216)
 この訳についての小林秀雄自身の若干の補足が『訳者後記』で書かれている。それによると自らの手の「旧訳」があり鈴木信太郎からの勧めもあり誤訳も含めて「改訳」をしたということがうかがえる。その旧訳というものがどのような訳であるのか分からないのであるけれども1970年4月の後記において小林はそう記している。

 そして下が宇佐美 斉の手になる訳である。

 *****
 かっては、私の記憶に狂いがなければ、私の生活は宴だった。ありとあらゆる人の心が開かれ、酒という酒が溢れ流れた宴だった。

     -「ランボー全詩集」(序章)宇佐美 斉訳(ISBN:4480031642)
 小林訳と比べると明らかな違いが分かる。また、詩集の題である「地獄の季節」についても宇佐美も言っている通り原文では数の概念が明らかに意味として付与されているがなじまないのでその表現を避けたと書いている。一応「地獄の季節」としての詩集自身の題について原題と直訳は以下の通りである。

UNE SAISON EN ENFER
地獄で過ごしたあるひとつの季節

 余談だが篠沢秀夫はあえてUNEを捉えて『地獄での一季節』と訳している。翻訳詩が大なり小なり意訳であるとするならば宇佐美 斉も言うとおり「説明的な訳」を避けるということは重要である。では説明的な訳というのを避けることが出来るのかというと、出来ると私は思うわけです。翻訳に対しては「脚注」という手立てを労することが出来るからである。その点、宇佐美訳の『ランボー全詩集』は構成的に優れたものを持っているといえよう。
 qfwfq氏はエドワード ゴーリーの翻訳の多い柴田元幸の『翻訳教室』(新書館)(ISBN:4403210880)から詩の翻訳問題に触れ、原詩を訳する事の難しさを例を挙げながら翻訳の持つ問題性を述べている。五回にわたって書かれていて今後も続いていくのだと思うが私は私なりに興味の惹かれるところを書いてみたい。
以前ここでも、ケストナーの詩を、板倉鞆音、小松太郎、飯吉光夫の三人の翻訳で掲げたが、訳者によってまるで別の詩のように見えるということはめずらしくない。小説では、まるでちがう小説に見えるということはないけれども。
 こと翻訳された詩についてだけは誰もが感ずるところだと思う。小説については後日に回すとして、詩的言語に限って何故こんなにも問題が多く、また過去に於いて何回も繰り返して論ぜられたのか、という事に尽きる。私の身近なところでは最初に挙げたアルチュール ランボオの「地獄の季節」がそうである。若い頃は小林秀雄訳や堀口大学訳(ISBN:4102176012)でこってりと読み後に粟津則雄訳ISBN:4087520307が出、そのほかランボーの詩訳としては清岡卓行(ISBN:430920175X)、篠沢秀夫(ISBN:4469250384)、鈴村和成(ISBN:478372511X)やまた仏語の翻訳者として平井 啓之らが刊行した『ランボー全詩集がある。また手軽な価格と内容の充実ぶりで読みやすい新訳として宇佐美 斉訳もある。もっとも宇佐美訳やその他の訳者の訳は「地獄の季節」だけではないから本としての単純な比較をする事は出来ないのだけれども、それぞれの訳文の受け取り方は違いがはっきりしていた。このことはやはりqfwfq氏も言っている『詩的言語のベクトルの違い』という事になるのではないかと思う。つまり訳者側の詩的言語に対する感性的了解性に繋がるともいえるだろう。小説はどちらかといえばいったん空間的に場所性を仮構しようとするのに対して詩的言語はひたすら時間軸に馳せ上がっていくからとも言えるだろう。この違いをして詩の翻訳の困難性を示していると言える。
 そもそもが外国語で書かれた詩とはなにかという事にもなるのだけれども、残念ながらリアルな外国語を目の前にして詩として映らない私のような凡人にとっては紙に印刷されたアルファベットか、もしくは、それに類した異国の文字でしかない。これが視覚というものを介して認識する大きな前提のひとつである。もっとも当然読めないわけであるから伴うべき、内的言語という韻の問題は内包出来ないでただ影の部分で在るという形でしかない。では外国の言語を違和感なく詩として認識できない私たちからすれば、どうするのかと言う事になるのだが、つまりのところ翻訳者の手になる「詩」を詩として読む事になる。ではさらにことを進めると翻訳化された詩についての私たちの意識のあり方はどうなのか、ということになる。これについては読み手は少なくとも翻訳されたその「詩」を「詩」として既に受容している態勢にある事も想像に難くないだろう。つまり詩に対して概念が既知として意識の中にあるという事も言える。そして日本語に翻訳されたその「詩」には日本語としての隠喩や音韻が伴い、読みながら内的言語も発しているはずである。このことも決して無視する事の出来ない前提としての二つ目である。
 そして「詩」とは何かという事にもなるのだけれども、そのあたりの事についてはこの論の本筋から外れていく場合もあるのでqfwfq氏の言っている「原詩」、「翻訳詩」という線上で考えてみたい。
 qfwfq氏は「すべて世は事も無し――翻訳詩の問題(1)」において取りあげている折口信夫の『詩の翻訳は必ずしも詩である必要はないという。文学から文学を創りだすのは翻訳として邪道である』という論や篠田一士の『原詩を尊重するという』という立場からする以下の篠田の指摘した部分は翻訳詩に対するきわめてエッセンシャルな部分だといえる。
『原詩をいろいろに変え全く似ても似つかないものにしてしまうのは、翻訳としての機能が十分に果たされたとはいえないということです。』
 つまり翻訳という手段を経た「創作詩」なるものの問題点の指摘である。そう言う意味で厳密にいえば日本語化された「詩」は似て非なるものであるといわざるを得ないだろう。とどのつまりはこの論法で行くと翻訳文学は文学といえるのかまでに行くことになるのだが・・。「詩は何処にあるか――翻訳詩の問題(3)」においてqfwfq氏の言わんとするところは大山定一訳と茅野蕭々の訳を富士川英郎が対比させたことにまさしく現れていると言えよう。私もこの論の始まりでアルチュールランボオの「地獄の季節」の訳を対比させた。これは読み手の想像力が詩句の持つ言語のどのあたりで像として結ぶのかも含めて対比すると違いがよくわかるからである。更に言えば翻訳されたどの表現が読み手に詩としての「美」を感ずるのかと言う事にもなる。
「詩は何処にあるか――翻訳詩の問題(3)」でも『銀座通りに、その軒をつらねている大廈高屋の群』と書かれたように訳者の数と同じ訳詩があるのも事実であるが、そこにおいて名訳であるとか、ないとかという事は本当の事からいえば妥当な言葉なのかどうかだが、これはある意味では妥当でないと思える。
 たとえば原詩に対して二つの訳があったとするならば並べて比較できるではないかという事になるのだが、そのいわんとする「比較」がそもそも問題になる可能性を秘めていると思うのだ。qfwfq氏も言う通り文語調か口語調かの問題でもないし、さらにいえば好きとか嫌いとかの問題においそれと横滑りさせるわけにもいかないところもある。だから勿論、芸術家気取りでいうところの「格調が高い」と感ずる問題でもないといえるところもある。先程私は「美」という言葉を使ったのだけれども、もっと慎重に使うべきかなと今は思っているわけで、いうまでもなく言葉を使った文学が芸術というならば芸術の範疇に文学があるというわけになる。
 芸術でいうところの「美」は何を指すのかといえば、文学に関しては「言語表現」という事に向かっていく。原詩の作者の意識の表象である、突出された言語表現が一つの作品になるということを意味することになる。言葉に表現せずにはいられなかったものが詩だとすればそれは一種の意識の混沌とした中から徐々に形を露わにしていく中で昇華された言葉でもある。そういう事を前提として考えるならば翻訳詩を考えるときに一つは原作者の表現した言葉の恣意性というものが読み手に通じているのかという事も大切になってくる。このことはわかりやすく言えば言語が持つ意味性も含めて作者の思想性というものがはっきりと伝わっているのかという問題にも突き当たるわけになるだろう。そしてまた意味性から表現美へまでを包括した先に表現されたもの、つまり「美」があるものであればそれを的確に伝える事が出来たのかがその翻訳の真価があるのだと言えるのです。ところが元々言語にはそれの持つ特殊な性質というものがあり書かれたものの客観的有り様からすれば、それを逃れ得ないものもある事を忘れるわけにはいきません。言葉の意味性とか恣意性からくる表現された中に内包している情動とかのことに論を進めると、それはもう論が途方もなく広がり続け私のような者には書きようもなくなる事も事実だ。ただ以下のことは言えるのではないかと思われる。
 原詩の書かれた時代性は重要である。その時代性を踏まえて翻訳者は翻訳するべきである、と。しかし、これはまた違った意味で問題点を多く含むことになってくる。言語表現がその歴史の累積の上に立つものとすれば古典と呼ばれるものの翻訳が問題になり、翻訳者の多角的な視点も必要になるからである。しかし、このことは或る意味では古典翻訳の前提条件に等しいことから読み手にある程度の前提も成り立たせてしまうことが出来る。「これは古典だから脚注も参考にすればいい」とか「現代語訳として意訳しているのだろう」とか思わせることも出来るということである。そうなればその古典の価値の一つに現代的意義という一項目を付け加えると言うことにもなるわけです。これは意訳がいいとか直訳がいいとかと言うことではありません。また古典についての価値の問題はこの論の本筋ではありません。
 先程、私は「時代性」ということを書いたが、では近いところで20世紀や今世紀に書かれたものの翻訳についてはどうなのかということになる。生物学的なことを持ち出すのは突飛なことだと思われるが、読解力について考えると、人の寿命というものは、およそ半世紀強程度の生物学的時間というものがあると思われます。痴呆とか加齢から来る根気無さとかを除外すれば読む力が何十年とあるわけです。無論、歴史は動いていき己の世界観にも影響されます。そして時代性という言葉を借りれば50年や60年の読解力の寿命があるとするならばその50年、60年を幾つかにまた細分化することも出来るわけです。しかし連続性を持つ時代性に生きているわけですから余程のことが起きない限り感性もその累積性の中で変容していくと思われるわけです。言語の特性を「潜在的に置き換え可能な語」として二つのファクターとして分けたのはソシュールだと思うのですが彼のいう言語の価値のなかで言語の対他的関係について言及している部分があります。これは強引に読み解けば言語の動的記号学みたいなものだと思っています。しかしソシュールのいうところの言語の相互依存という特性を考慮に入れれば、言語がその時代性によって相互補完的に変容していっていると言うことが或る意味では言えるわけです。とするならば翻訳している者にとっても時代性を例外とするわけにはいかなくなるということを意味する。何といっても翻訳者もそれなりの時代性に生き原詩と向き合ったからである。
 さてqfwfq氏は「キルヒベルクの鐘――翻訳詩の問題(5)」においてリルケの「海の歌」に関して高橋睦郎(*註1)の言葉を取りあげていて、この高橋のいっていることはきわめて示唆的である。

 そして大山訳は「海原から太初の風がそうそうと吹いてくる」といったふうではなかったろうか。私は大山訳のほうがなめらかでいいと思った。しかし、井上さんはリルケの原文を朗朗と読みあげたうえで、高安訳のほうが原詩の響きをよく伝えている、と断言された。大山訳は意訳がすぎる、とも言われた。

 これはqfwfq氏が何度も繰り返して取りあげてきた先人達の議論の本質を言い当てている。高橋にとって心地よく響いてきた「訳」は原詩から遠いということであり、原文の響きが伝わる「訳」にはそれがなかったことを暗に指している。氏はさらに原詩を離れる翻訳の問題点を一種の集大成として論じた川村二郎の「日本語の世界」ISBN:4124017359に求めている。そして川村の論について氏は以下のような思いで見ている。但しこれは決して氏が川村に同意しているものではないということを付け加えなければならない。

川村のこの論文を読んでいたら、私はこの「翻訳詩の問題」について書かなかったにちがいない。仮に書いたとしても、このような書き方にはならなかったろう。私が書いたようなことはすでにこの論文に言い尽くされている。

としている。実に読みようによってはqfwfq氏の書きようは神妙である。川村の言っていることは既に私たちが思っていることの代弁に過ぎなく、それから一歩出ているものではない。私は意訳が『形容過多』であるとか、ないとかという問題に集約されるものでもないと思っている。いささか長い引用になるが川村の言葉をqfwfq氏の書かれたものからピックアップして挙げよう。

『なくもがなの気取り、ことさらな思い入れ、それにもとづく原文の歪曲や改変が、訳者の手前勝手な自己陶酔と見えて、興を醒ます例も少くはない。だが、取り立てて気負った様子を見せることはなしに、しかも訳者の細やかな工夫趣向が、原文に食いこみ原文とまさしく契りを結んでいると合点される場合があって、そのような時には、これこそ翻訳の勝利と膝を打ちたくなりもするのだ』

『その成功は、原文をダシにした舞文曲筆、原文をいわば発想の契機にした上での恣意的な即興演奏、といった所ではなくて、むしろ逆に、原文が何を表現しようとしているか、思いをこめて見据えた末に、相応ずる日本語の表現を自己のうちから掴みだしてきた所で叶えられているのである。』

『吉川ほどの学識も見識もない研究者が、原文への忠実という名分を後生大事に信奉しながら、安全第一の及び腰で、無味無臭無色の訳語を一つ一つ原文に当てはめて行く退屈な光景を眺める時、なまじいな素面の状態が悪酔いよりも高級だとは、なかなかもって定めかねるのである。』

 今までの論点を俯瞰したかのような川村の言葉である。しかしそうであろうか。『意訳がすぎる』ということに翻訳の持つ問題点、いわば濃淡を付けることでいいのだろうかと言うことにもなる。そして今さらながらに思うのは今日の翻訳者側からの視点が私たちにうまく伝わっていないことも言える。
 原文がそれ自体で独自で比喩に充ち満ちていて全体がメタファーに覆われているケースが多い詩の翻訳はそれなりに訳者の読解力を要求されることは想像するに易い。それはあらゆる言葉が一つの意味を獲得するためだけに書かれているのではなく様々なイメージの転移が無造作のうちに書き印されているからである。意識の志向性を表現された言語のうちに読み解く作業がまず翻訳する者の目の前に現れ、直喩や暗喩に覆われた原作者の世界観と対峙することになるということになる。つまり、ことはそうは簡単にいかないのである。
 qfwfq氏は「光にむかつて歌つてゐる――翻訳詩の問題(4)」においてG・K・チェスタトンの言葉を借りて欧日の翻訳詩だけでなく欧々あるいは欧から英へ翻訳されたものについても本質的に同じ問題に行きつくことの可能性を示唆している。ただこれについては言語圏を「越える」という、或る意味では迂回路を辿った場合はどう変わるのかについての問題は残されると思う。たとえば南欧語から英語へさらに日本語へというケースを想定した場合等の事などであるが、しかし私はここで香具師的に論を横滑りさせるつもりはない。qfwfq氏はギリシァ詩人であるサッフォの詩を比較した森亮の「夢なればこそ」に向かう。このなかでの論こそが訳の濃淡の決め手であるところの核が述べられているからなのだ。

 そこには七五調四行の定型と「みめ/ひと ひと/みゆる」の「頭韻の組合せが、初めの二行に魅力を添えている」と論じる。「詩の翻訳は原典から離れるにきまっている。成るべく少なく離れながら、詩としての生命、人を酔わせる魔力、を持つように工夫するのが訳詩のこつ」であって、呉茂一は「そういうこつをいみじくも体得した人である」と森亮はいう。
 「外国詩の本当の良さ、美しさはそれが書かれた原語で読み取るほかはない。(略)どうせそうなら、訳詩は訳詩として生きる道があるはずだ。原詩の良い所は骨までしゃぶる欲深さで吸収しながら、独立して鑑賞できるような詩をつくり上げることである」(「詩を翻訳する」)と述べる森は、ときには原詩を離れ「思い切った意訳」をも厭わない。翻訳詩における二つの立場の、一方の旗頭ともいうべき存在である。

 まさしく原詩の美しさは書かれた言語で読み取るしかない。しかし訳詩としての値打ちはあるはずである、ということであるが、森が述べているのは読み手という立場を越えるものでもなく、森の持論を感性的な部分で述べているに過ぎない。ここでも森の言うことは今までの先達たちが述べていることと取り立てて異質なものではない。このようにしてqfwfq氏は様々な論を挙げつつ再び『原典に忠実』であることと『人を酔わせる魔力』の二つの立場の狭間に立つ。しかし qfwfq氏の論の志向性は断片的ではあるが既にばらまかれているのである。もっともこの私のものの言い方にはわたし自身が氏の論を歪曲化していくのではないかと恐れを抱くのではあるが、進めるにあたっての無礼を請うしかないだろう。所詮私も興味のあるところにしか論は進まないのだ。
 そしてqfwfq氏は意図的であるかどうかは横に置くのだけれども、こんなことも言っている。

 ドイツの詩を、そしてドイツ文化を称えた編者の言葉は、昭和十六年という年代を抜きにして受け取るわけにはゆかない。

 年代と言うことを想定したときに、そこに二層ではあるが位相的に並列化された人物像を浮かべることが出来る。原詩者の取り巻く世界と訳詩者の取り巻く世界がいわば「世界」として相互的に存在しているのかということである。これは言語の本性を考えるときに非常に重要な部分である。それでこそ翻訳詩が詩であることが出来るのかということにも繋がるのではないかと思える。翻訳詩が詩として自立出来るのかということがqfwfq氏のいう論の方向であるならば比較論証を経てどこに軸足を置くのかと言うことになる。
 ここでいったん翻訳の世界から翻訳者自身の声も私なりに聞いてみる必要があると思う。いささか長い引用になるがロートレアモンの「マルドロール」を訳したあとの渡辺広士の「あとがき」を以下に記してみた。翻訳者としての技巧上も含めて核心に触れていることが多く書かれているからである。

 おしまいに翻訳上の工夫について述べておくと、「マルドロール」の文体を日本語に移すことは恐ろしく困難であった。それは恐ろしく息の長い文章であって、いつもそうなのではないが、短い文章でてきぱきと叙述が進んでいると見る間に、一つのイメージ独特の推論によって蛇のようにうねり、渦をまいてえんえんと伸びはじめる。フランス語では一つの命題を、このように一つの文章の中で次から次へと展開させて行くことが可能である。この展開の自由な調子がロートレアモンの文体の特徴をなすもので、その圧倒的な調子は、フランス人の詩の朗読のレコード*1を聞いてみれば、「マルドロール」だけは恐ろしい勢いで朗読されているのをみてもわかる。ところがこれを日本語に移すと、必ず動詞を最後に置かなければならない日本語は、長くなると全体の意味がわからなくなるのである。ぼくはしかし、原文と同じぐらいのわかりやすさと、同時に原文の息の長さ出すために、いくつかの工夫をしたが、どこまで成功しただろうか?句点になるはずのところに読点が入っているのも、原文の頭からピリオドまでの勢いを生かそうとしたもので、できればそのように読んでもらいたい。読点から次の読点までが長い個所も、同じ意味の工夫のつもりである。

 いかがであろうか。これは別にフランス語に限ったことではなくあらゆる言語に当てはめることが出来るということで「翻訳」にあたっての渡辺の苦心を引用してみたのだ。喩のことを蛇がくねる例えのように言っている。これは突き詰めて言えば詩句の一行での隠喩とかを指しているのではなく全体が喩であるということも含めて言っていると我々は理解しなければならない。それでも渡辺は原詩を前にして自分自身の衝動が抑えられなくロートレアモンに挑むことをやめなかったのである。それは下記の渡辺の言葉でもわかるだろうと思う。

とにかくロートレアモンは、本当の意味で日本にももっと消化されなければならない重要な詩人である。栗田勇氏の苦心訳があるのに、あえてぼくがもう一つの訳を出すのは、この重要な詩人に違った解釈のもう一つの訳があってもおかしくないはずだと考えたからである。

 翻訳者としての使命感と渡辺自身の固有な時代性の感性的な発露である。つまり渡辺自身の想像力がロートレアモンを通すことによって現代的意義の世界観への確立へ向かいたいという欲望である。これはとりもなおさず原詩が繰り広げた世界に彼なりの普遍性を見いだしたからに他ならない。この渡辺が抱いた『違った解釈』で訳したいという欲望は訳者と原詩との間で対自的な関係が出来たということもいえるだろう。またこのような時、もちうる意識を同じく「マルドロールの歌」のもうひとりの訳者である前川嘉男は以下のようにも言っている。

(前略)著者の死から百二十年たった今日でも、全ての誤解がぬぐいされてはいない。とくに日本では。だからこの翻訳は、ながいあいだの世界中での、彼と彼の作品についてのおびただしい誤解に向けての、ぼくの怒りと回答でもある。まるで作者その人でもあるかのような偉そうなことを、いま言っているぼくとロートレアモンとの、四十一年前の出会いそのものが、やはり愚かな誤解にはじまっていた。
 一九五〇年春、まだ木造だった新宿紀伊國屋書店二階の洋書部で、十九歳のぼくの手に偶然ふれたのが、ジョゼ・コルチ社刊の『ロートレアモン全著作集』一九四七年版で、パラリとひらくと(フランスの本はふつう仮とじなので、どうしてもグラビヤが最初にひらく)そこに、サルヴァドル・ダリが例の偏執狂的批判方式(パラノイアック・クリティーク)で一九三七年に描いた「十九歳のロートレアモンの空想肖像画」があった。それは夢のように漠としていたが、あまりダリらしくない写実風のものであった。なんとそれを、ぼくは女だと直感し、その変な美人画と「十九歳」につられてその本を買い、自室にもどるとすぐ読みはじめた。著者は「ロートレアモン伯爵(イジドール・デュキャッス)」で、伯爵夫人でもなんでもなかった。一昼夜半、ぼくは部屋から出ることも、眠ることも、食べることもほとんどせず、その本の二百六十七頁をともかく読了した。当時のぼくのフランス語読解力にすれば、そのスピードは奇跡であった。読み了えたとき、もちろん不十分にしか理解できなかったが、もう一度読めば気が狂うことだけはよくわかった。ぼくはそれを柱に、三寸ほどの釘で、金槌を使って打ちつけた。二度と読めないようにしようとして。だがぼくの非力と不器用さのため、釘の先端は百頁までもとどかず、それは床に落ちた。ぼくは拾い上げ、釘をぬいた。口絵のダリのロートレアモン像の、口の中央の正確に上唇と下唇のあいだに、穴があいていてぼくは、涙をこぼしてしまった。そんな出会いが、ぼくのその後の四十年を支配したのである。

 前川はこのようにロートレアモンとの激烈で熱情ほとばしる衝撃的な出会いを述べている。だがここで惹かれるのは渡辺も前川も己こそが原詩の世界観が描ききれるのだという自負心である。そこにおいては既翻訳では到底満足できるものではない、というそれはほとんど神の啓示にさえ近いものである。
 ここでいったん原詩の前に立つ翻訳者という位置を想定してみることにしよう。彼と原作者が同時代でないとしたら、まずはその描かれた時代背景に当然思いを馳せているに違いないと思われる。またそのことが一種の足かせになることも知っておきたいことの一つであるが、訳す行為の中に何をどこまで、ということも範疇に入れて組み立てなければならない。そういうことも大きな問題の一つとも言えるからだ。 欧米文学の翻訳にあたっては文化習慣はもとより生活土壌にあるキリスト教的共有観念を考慮に入れなければならないこともある種のネックとしてあると思えばいいだろう。ま、こうなると論は果てしなくなり本題からもずれてくるので「固有なその共同体(言語圏を同じくするという意味)の文化」という大さっぱな概念をもてばいいだろう。そこで、あらためてqfwfq氏のいうところの原詩が同じであるに関わらず「翻訳詩」が訳者によって異なったもののように読み手に映るのだろうかということを考えてみたい。
 その前に私が『読み手は少なくとも翻訳されたその「詩」を「詩」として既に受容している態勢にある』といった事を覚えておられるだろうか。これは私なりの考えを進めるにあたって基本的な姿勢であり、「翻訳詩」は本来こうであるべきであるという論証をいわば無視した形になると思う。またそうでなければ論は不透明さを帯びた形で堂々巡りしかできないように思えるからである。いまも上で言ったように訳者が違う「翻訳詩」がそれぞれ読み手に異なった詩に映るのかと言うことになるのだが、これは文字が違えば違うだけのイメージを読み手がもつからに他ならない。qfwfq氏が「光にむかつて歌つてゐる――翻訳詩の問題(4)」において森亮のサッフォの訳詩の比較したあとで氏自身がカロッサ(H Carossa)の訳詩を比較している。

  盲人     片山敏彦訳

 日のひかりが夏の森に射し入り

 人々は、ほの温かい砂を踏んで歩く。

 だが森のそとで樹木(きぎ)を背後(うしろ)にして

 明るく白い路の上に、手風琴を持って盲人が

 明るい光の中へ、暗い歌をうたっている。

(後略)

   めくら     板倉鞆音訳

 太陽は夏の森に照りつけ

 人々はなまぬるい砂の上をぶらついてゐる

 けれど木立のまへ

 明るい白い街道には

 風琴をもつためくらがたち

 暗い歌を光にむかつてうたつてゐる

(後略)

 『明るい光の中へ、暗い歌をうたっている。』と『暗い歌を光にむかつてうたつてゐる』では明らかに言語の仮構するものが違う。ある意味で訳者が選択した言葉(文字)が違うからである。しかし選択した文字が違うと言うことは何を指すのかと言うことにもなる。本質的に文字は対象物を意味するための一つの人間の意志の交通手段であるところのものを超えたところにある。対象が眼前になくともその対象物を文字でもって指し示すことが出来るわけである。したがって読み手はその文字からその読み手の意識の志向性によって像領域を描くことが出来る。そうであるならば読み手の想像力*註2によって文字を像に置き換えているということになる。これはある意味では読み手の数ほど像領域があるということにもなりかねない。読み手のそれぞれが年齢や生い立ち、環境、が違うところで感性の位相が想定できるからである。では言うが、原詩を知らずして我々はどちらの訳詩が優れていると感ずるのであろうか。はたして諸先達やqfwfq氏がいう通りの解釈でいいのだろうかということにもなる。たしかにqfwfq氏は『おそらくは原詩に可能な限り添いながら、殆ど訳詩と思わせぬまでに完成された翻訳詩として、板倉鞆音の訳は集中の白眉といっていい。』というように原詩を読んでいて知っていることは我々にも理解することが出来る。しかし一種の翻訳力の優劣についていえば、それとこれとは本質的に違うんじゃないか、と言いたくなってしまうことも否定できない。いわば個人の嗜好性とまでは言いはしないが、その危うさが無いとはいえない。私は『読み手は少なくとも翻訳されたその「詩」を「詩」として既に受容している態勢にある』ということを言った。ならばそこには原詩の存在は意識されない意識の内にあると言うことにもなる。
 ある時代に生まれた人間は既にその時代の世界を選択している。それはその人間における存在のあり方であるといえよう。これはとりもなおさず人間のありようが世界との関係でしか述べれないということをあらわしている。
 さて私の論は次第に終わりに近づこうとしている。翻訳の問題は確かに表現の問題である。であれば言語表現は人間と世界の関係の仕方を表象するものである。それゆえ私たちは表現の中に普遍性を求めようとする。読みながら世界観の認識にまで観念が馳せ上っていこうとするからである。つまりその翻訳による表現が確かにその時代性の感性を全円的に表現していればいいのである。文字による表現が確かな像を喚起させればそれにすぐるものはないのである。
 たとえば明治や大正時代に翻訳されたものを読むときにあらかじめ読者はその翻訳が百年も近く前に翻訳されたことを知っている。現在という面を物理的時間に切り取るならば翻訳された表現もそれによって読者の意識が規定されたことになる。私はそのことを時代的に古い表現であるから無価値であるかという問題を言おうとするのではない。言語表現が意味性をまとった恣意性にあることを読み手が既に知っていることはその表現された文字から当時の時代性を考慮の範疇に既に入れて全的喩として読み解いているということになる。これは一種の迂回的な解読に近いものであるといわざるを得ない。読み手からすると文字が極自然に像領域を作り上げていくほうが意識に負荷を与えることを避けれるのである。では私が言った『読解力の寿命』という範疇だと思われる場合にはどうなるのかということになる。同時代的にいくつもの翻訳詩が現れた場合の読み手側の捉え方はどうであるのかと言葉を置き換えてもよい。
 言語の本質のひとつにいわばその時代性を文字の意味性のほうで包括しようとしていくものがある。しかし表現された言語は無意識的にその時代性の高みで意味性を捨象してまで像領域を構成させる働きがある。であれば表現された言語の価値、いうならば読み手の心が動かされるのはどこでなのだろうかというところに行き着くのではないかと思う。だがしかし、表現者が期待するような読み手ばかりが存在しているとは限らないのである。個々によって惹き起こされるイメージに差があるからである。そのあたりのことについて考えてみよう。
 たとえば翻訳詩の中にピエールの家の入り口である『木の葉のレリーフのある扉』という言葉があったとしよう。読み手はその扉が木で出来ていてレリーフは鉄製であると思い浮かべる、いやいや、レリーフは銅製であるとイメージを作るかもしれない。いや、しかし扉自体が鉄であると思い込むかもしれない、と想像することは出来るだろう。日本的な風土の中になじまない風景や対象物について我々の想像的意識が形作る像領域はさまざまな個々の体験された意識の累積の中から生まれ出てくる。あるものは昔見た映画の中からそのイメージを喚起するかもしれないし、あるものは伝聞から既に規定の形がありそこから選択するかもしれないのだ。このようにイメージの共有化はとんと進むことは無い。
 さて、ではここで今まで論せられたところのqfwfq氏の先達でありその同伴者たちである論にいったん戻り検証してみる必要があるだろう。下記に記した抄訳分であるところのサッフォの呉茂一訳から意識の中で何が惹き起こされているのかみてみよう。

  みめ貌(かたち)よき 人はただ

 人めによしと 見ゆるなり

 正しき人ぞ いつしかに

 またみめよくも なりぬべし  (呉茂一『増補版 ギリシア抒情詩選』)

 -「光にむかつて歌つてゐる――翻訳詩の問題(4)」より抜粋-


 現代人である私は意味性は読み取ることが出来るがそれから像領域に向かうとすれば意識の志向性の遮断に何度も見舞われるのである。つまり像領域を思念するのだがすり替わった己の陳腐な概念に戻るのである。見目麗しい人は多分ギリシア人の美人であろうと思うのだが像として結ぶ先には顔が現れてこないのである。髪の色や眼の色さえも分からない女でしかないのだ。それでも意識は志向性を持っていてミロのビーナス程度の形は作ろうとする。これは美人は美人でも日本の美人ではなくギリシア人でなければならないという予見性を既に与えられているからである。そして、その予見性によってでも像領域を作る力が人間にはあるのだともいえる。でもこれはイメージとしての像領域が部分的に欠如しているといわざるを得ない。ではこの訳の今日的表現力の価値はあるのだろうか。今日的に言えば、迂回させることによってしか総合的な価値を見出すことは出来ないのである。言語表現のきわみがいわば意味性に寄り添うことしか出来ない状態だと言葉を換えてもよい。その分、喩が本来もっているはずのイメージの連動もそこでは見ることが出来ないのである。したがって、これを表現美と文学的に断ずることは読み手側の意識の歴史的累積性をも否定した論にならざるを得ない。だがしかし『多く人を酔わせる魔力を持っている』とqfwfq氏は森亮に言わせている。形が短歌的な喩表現になっているからとはいえ、こと翻訳の今日的な状況を考えると文学史論上に載せるしかない表現史の問題であるとしかいえないだろうし、私に言わせれば、酔うのは森に任せれば良いのではないかということになってしまうのである。文字は書かれた瞬間において表現となりうる。これは人間の意識のうちにある想像的意識のなせる技である。ではこれをこう言い直してみよう。言語表現が意味性を失ってゆく先にこそ表現美があるのである、と。これは表現された言語の本質的な部分である。意味性を辿ることしか出来ない文字はイメージとして心を揺さぶらないということである。
 では、最後に当たって1860年代(1865年頃から書いていたと推定されている)に書かれたロートレアモン伯爵ことイジドール・デュカッスIsidore Ducasseの「マルドロールの歌」(LES CHANTS DE MALDOROR)*註3の原文を上に、対応している抄訳を下に記しておく。なにをどう読み取るかはあなた次第である。

Les Chants de Maldoror
Chant cinquième.
*

O pédérastes incompréhensibles, ce n'est pas moi qui lancerai des injures à votre grande dégradation; ce n'est pas moi qui viendrai jeter le mépris sur votre anus infundibuliforme. Il suffit que les maladies honteuses, et presque incurables, qui vous assiègent, portent avec elles leur immanquable châtiment. Législateurs d'institutions stupides, inventeurs d'une morale étroite, éloignez-vous de moi, car je suis une âme impartiale.



 おお不可解な男色者たちよ。おれは君たちのものすごい堕落に悪罵を放ったりしないぞ、君たちのじょうご型の肛門に軽蔑を投げつけたりしないぞ。君たちを悩ましているほとんどの不治の恥ずべき病いが、それだけで逃れがたい懲罰となっている、この事実だけで充分だ。愚かしい制度の立法者ども、窮屈な道徳の発明者どもはあっちへ行ってくれ、おれは公平な魂なんだから。

 -渡辺広士訳-「ロートレアモン全集」の中から「マルドロールの歌」



 おお不可解なペデラストたちよ、君たちの偉大な堕落に、ののしりの言葉を投げつけるのは、それはぼくじゃない。君たちの漏斗状のアヌスに軽蔑を投げつけようとしているのも、それもぼくじゃない。君らを包囲して攻撃する、屈辱的でほとんど不治の病が、さけられない懲罰を君たちにもたらすことで、もうそれでじゅうぶんなのだ。おろかな諸制度の立法者たち、偏狭な道徳の発明家たちよ、ぼくから遠ざかれ。なぜならぼくは、不偏不党の魂をもっているからだ。

 -前川嘉男訳-「マルドロールの歌」



 おお不可解な男色者たちよ、君たちの大いなる堕落に侮辱の言葉を浴びせようとしているのは、私ではない。君たちの漏斗状の肛門に侮蔑を投げかけようとしているのは、私ではない。君たちを攻めたてる恥ずかしい、ほとんど治療不能な病気の数々が、避けがたい懲罰をともなっていればそれでじゅうぶんだ。馬鹿げた諸制度の制定者にして、偏狭な道徳の発明者どもよ、あっちへ行ってくれ、私は公明正大な魂の持主なのだから。

 -石井洋二郎訳-「ロートレアモン全集」の中から「マルドロールの歌」

※挿入写真説明:上から順にアルチュール ランボオ、折口信夫、フェルディナン・ド・ソシュール、Les Chants de Maldoror、ハンス・カロッサ、ロートレアモン伯爵ことイジドール・デュカッス。
 -了-

あとがき&qfwfq氏へのレスポンス
 ほぼ1週間にわたってqfwfq氏の『翻訳詩の問題』に触発されて自分なりの検証のため書きました。論の矮小化や誤謬が多くあり、流れに違和感を持たれるかもしれないが、それはひとえに私の無能力のせいでしかありません。またこれによって氏が不快感をもたれないことを念ずるばかりです。当初は一部の隙も見せないqfwfq氏の論証に論を向けることは無謀とも思いあきらめていたのですが氏のブログに私がコメントで言い分を書くにしては言葉も足りなく、テーマがあまりにも重たいと感じたのでした。でも私は私なりに異論を提示しておきたい気持ちをとめることが出来ませんでした。正直に言ってqfwfq氏の読解力はすばらしく私など太刀打ちが出来るものではありません。ですがこと視点に関しては自分の論と重なり合いながらも離れていくだろうとも思いました。であれば自分で書くしかなかったというのがこのエントリィの動機付けだと思います。
 もうひとつにはなぜ異なる翻訳ものを読むのか、という自分自身に対する疑問であった。ミーハー(好きになるので同じかも)ではないけれどもとりつかれたように取り寄せ読んでしまうのである。その答えが自分自身に欲しかったということもあるだろう。そしてその答えは今回書くことによって見出せたと思っている。
 言い訳になるのだけれども、毎日の仕事の合間をぬっての小ざかしい書き様に何度も断念しようと思いましたがこれも私の現在地でしかありません。いつかまたこの論の修正が迫られるときが来るとも思いますが今は誤字や書き損じ以外、そのままにしておこうと思っています。
 また当のqfwfq氏からもコメントをいただき恐縮するばかりであり、また過大な言葉を読むにつけ光栄とも思っております。

  qfwfq氏に感謝を込めて、 南無玄之介
記:この稿ははてなダイアリにおいて『意訳とか、たまにしてみるのだけれど』と名づけられ、平成18年5月10日から書き始められ同年5月21日まで八回にわたって連載という形で書かれた。転載するにあたって再編集されたものである。
*註1:残念ながら小生は読んでいないのでqfwfq氏の引用を以下に記した:高橋が「読まされたのは大山定一訳と高安国世訳」であったが、いまはいずれも手もとにない、と記憶をたどる。
*註2:想像力は、一般に、「対象が現前していなくてもそれを直観的に表象しうる能力」と定義される。つまりそれは、感覚的に与えられていない事象(現に存在しないもの)を想い浮かべる能力を意味している。-【鷲田清一】-
意訳とか、たまにしてみるのだけれど。
*註3:「筆名ロオトレアモン伯爵、1846年2月21日南米ウルグァイのモンテヴィデォで生まれる。本名イジドル・デュカス。1870年11月24日24歳でパリで死す。死因は不明。」これ以外、その生涯が全く不明の詩人が残した『歌』は、奇跡的に今世紀に伝わり、現代文学の新たな脱皮、革命の起爆装置として日々作用しつづけている。『マルドロールの歌』の初訳者は青柳瑞穂