2012-08-27

仏文訳者祖川孝の冒険

 アルチュール ランボォ(Jean Nicolas Arthur Rimbaud)については随分惹かれるものがあり、年甲斐もなく且つ恥ずかしながらも今までいくつかの短い拙文(※参照3)を書いてきた。また、ランボォに関しての彼の手紙文の仏語版についてはネット上見ることも可能で得意な方はその「Lettres et Documents」を参照にされるのも良いかと思います。またランボォの手紙についてはこれとは別にアデンからアフリカへ渡ったりした前後のランボォを描くすぐれた著作を鈴村和成氏が「ランボー、砂漠を行く―アフリカ書簡の謎」としてあることも断っておきたい。
 さて詩業とは別にランボォその人についても若くして劇的な生涯を終えていることは今更ここで語ることでもないように思える。またその生涯についても語り尽くされていると云ってもいいだろう。しかしながら堅苦しさを除いたところで興味を持つときもある。
 ランボォの「手紙」についての様々な研究者的論究についてはいつも興味の尽きないものがある。そうではあるのだけど、「面白さ」がおまけとして付いていることはそんなに無いはずである。角川文庫クラシックスとして昭和二十六年版を複刻させた「ランボォの手紙」において、その訳業を果たした祖川孝氏の波瀾万丈的放浪を垣間見せる「あとがき的」面白さはある意味では格別のものである。お堅いばかりが能ではないのである。と私は思っている。
「ランボォの手紙」あとがきより-1
 この邦訳にとりかかった当時、わたしは事業の失敗やら女のことで、いっそ死んでしまいたいほどのつらい思いをさせられていた最中だったが、この「ランボォの手紙」一冊をかかえて、四国を振り出しに旅にのぼった。そして初めて腰を落ちつけたところは群馬県の友人の宅の土蔵の中であった。冬の土蔵は冷たかった。冷え込みからか、一週間足らずで猛烈な下痢をした。わたしは窖から這い出して東京に舞い戻った。それから知り合いのものの家に旅の身を寄せたが、そこもひどく逼迫していたのでそうそうにきりあげた。わたしの訳業は然し、名古屋、京都、大阪、四国、九州と流々転々の生活のうちに続けられた。その当時のせっぱつまって、死を希うほどの苦しい思いは、現在、明日の命も判らぬ病の躯でありながらも、今こうして生きているという時の推移と事実によって遠く過去の中に過ぎ去ったが、その時のわたしを救ってくれたものは、矢張りこの「ランボォ」であった。
  事業の失敗と、当然ながらの女のことも、ついでの話として出てきて興味が持たれるところである。逃亡先の土蔵での生活も意外だが、気の毒だなぁ、と思うしかない。下痢の中でもランボォの訳業への情熱は失わないでいるところが笑えないところでもある。そして更にあとがきは続く。
「ランボォの手紙」あとがきより-2
旅の空はたいていわたしひとりであったが、時々、女もいた。中には声をあげてわたしの原稿を読み、原文との対照を手伝ってくれた女もあり、また北九州、朝倉街道の甘木駅の旅館のお文さんという女中に、涙ながらに邪恋の悩を切々と話して聞かされ、しんみりなったこともあった。今となっては、あれもこれも、思い出深いものがある。  なお、この訳業に就いては、いつもかわらぬ宮崎嶺雄氏の適確な教示と、同氏御夫妻のななみなみならぬ尽力とにより、刊行の運びに至ったことを末筆ながら明記し、感謝の微意を表したいと思う。
昭和二十六年八月    祖川 孝
このようにして訳者の偉業は達成された。立派としか言いようがないだろう。だが、周りには女だけは居たようである。
※参照1:祖川孝氏のその他の訳業については昭和15年リルケRainer Maria Rilke「ロダンへの手紙」ほかシャルル・ボードレールCharles Pierre Baudelaireの「母への手紙」昭和13年、アルフォンス・ドーデーAlphonse Daudet『アルプスのタルタラン』 Tartarin sur les Alpes 昭和30年等、ぐらいしか判らなかった。氏の個人史についてはわたしの力不足のため目下のところ不明です。
※参照2:宮崎嶺雄1908-1980)東京生れ。東京帝大心理学科中退。岸田国士に師事、バルザック、サンド、メリメ、カミュ等、多くの仏文学を翻訳紹介。1941年、フランス文学賞受賞。戦後創元社編集長を務めた。-新潮社の著者プロフィールに依る。
※参照3:南無の納戸はこちらから「翻訳詩とはなにか」



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