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2009-01-27

吉本隆明の「中学生のための社会科」

 昨年11月の「南無の日記」でもとりあげた吉本隆明の『中学生のための社会科』について再度言い足らなかったところを若干付け足して述べてみたい。もともとはミヤタさんのブログ「老いについてもう一度」-miya blog(要介護4の妻との介護&どたばた生活)2008年10月09日 -を読んで興味を持ち始めたのが動機である。この本に対する吉本の思いは巻頭に記されている。吉本隆明のおもいのすべを伝えるために引用文としていささか長いかも知れないが本書の位置づけを著者自身が述べているので巻頭文の「全文」を下記に転載した。
 はじめに
 この本の表題として『中学生のための社会科』というのがふさわしいと考えた。ここで「中学生」というのは実際の中学生であっても、わたしの想像上の中学生であってもいい。生涯のうちでいちばん多感で、好奇心に富み、出会う出来事には敏感に反応する軟らかな精神をもち、そのうえ誰にもわずらわされずによく考え、理解し、そして永く忘れることのない頭脳をもっている時期の比喩だと受け取ってもらってもいい。またそういう時期を自分でもっていながらそれに気づかず、相当な年齢になってから「しまった!」と後悔したり、反省したりしたわたし自身の願望が集約された時期のことを「中学生」と呼んでいるとおもってもらってもいいとおもう。
 ただ老齢の現在までにさまざまな先達、知人、生活、書物などから学んだり刺激を受けたりしたこと、体験の実感から得たものがたくさん含まれているが、すべてわたし自身が考えて得たものばかりで、模倣は一つも含まれていないつもりだ。これがせめて幻想を含めた「中学生」にたいする贈物だとおもっている。
 さあ、このくらいにしてあとは読者の理解や誤解の「自由さ」にまかせよう。
  2004年12月 吉本隆明記
 -はじめに「中学生のための社会科」より-

 この巻頭文を読んだ時に本年1月4日教育テレビで放映されたETV特集『吉本隆明が語るー沈黙から芸術まで』で見せた彼の妄念みたいなものを了解し、老いてはいるが思考ということに関しての極を我々に見せつけたのだと思った。この本についても簡易に書かれてるゆえの重たさみたいなものを感ぜずには居られなかった。
 大まかに言えば三つに分けられた章になっていてそれぞれを独立したものとして読むことも可能である。「第1章-言葉と情念-」となっていて詩作や詩表現から始まり古典に拠る日本語としての言語論も含めて我々にとって馴染みのある『言語にとって美とはなにか』で述べられてきたことの真髄が簡潔に述べられている。「第2章-老齢とは何か-」においては身体と意識の乖離からくる老いの認識についての識知とされているものへの批判的止揚として自らの身体とそれに伴う意識の現象において私達にとって非常に興味のある分析を行っている。特に72歳だったか、ちょっと失念しているが吉本自身が静岡の海岸で溺れた時の事後記録【溺体体験以後の後遺現象】については譫妄体験を語っていて、私が正月早々体験した前妻の低温療法手術後の譫妄現象と重なり個人的にも非常に惹かれるものがあった。また「第3章-国家と社会の寓話-」に於いては国家、民族、社会という共同体のはざまで生きるにあたり、共同性と個人という生き方にまで言及している。またこれらの章は吉本隆明を少しでも読んだ者にとっては既に聞き慣れた内容も含まれている。或る意味では吉本隆明の大著である『言語にとって美とはなにか』であり、『共同幻想論』であり、『心的現象論-序説-』で述べられてきたものと重なり合うと見る向きもあるかも知れないが一つの情況論として捉えるなら、より現在的であり優れた著作として読むことが出来るだろう。いうならば決して大著ではないが一種の飲み物としてたとえるなら濃縮ジュースみたいなものであり、初心者にとって難解な言葉を選ばず核なる部分を出来るだけ平易さを意識されて書き下ろされているのではないかと思う。だからといって取り上げられている項目内容の質については決して普通で言うような平易なレベルでもないところがミソではある。
このエントリィははてなダイアリ「愚民の唄」2009-01-23に書かれたものを加筆、編集し転載しました。
中学生のための社会科中学生のための社会科
吉本 隆明

市井文学 2005-03-01
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2008-10-09

アデンからハラルへ-「ランボー、砂漠を行く(アフリカ書簡の謎)」-


 アルチュール・ランボー(Jean Nicolas Arthur Rimbaud)が若くして、いわば詩作を放棄して、アラビアのアデンへ旅立ち貿易商社に従事し、その後アフリカのアビシニア(エチオピア)に渡ったことは広く知られている。そしてそれは一種のランボーの謎となって、さまざまな論究が為されていることも承知している。しかし、やはりこれは謎なのであり、凡人の想像力をくすぐる文学上のミステリィとも言えるだろう。
 さて、この書はまさしくランボーがアデンとハラル間を行き来し、最後の地として故国マルセイユの地で妹イザベルに看取られながら37歳で亡くなるまでの書簡を文学的想像力によって出来るだけ時空間を拡張せしめた労作であるといえる。また、ランボーの「詩」と「書簡」との間にある、つまり、詩作をやめた21歳からアデンに始まりマルセイユで終わる個人史的時間の前後差をその関係の絶対性とも言うべき中からランボーの繰り広げた詩的言語空間に逆照射させてみせたものでもあるといえよう。著者鈴木和成氏がいみじくもランボーに取り憑かれるように惹かれ取り組んできた中で思念に残るものをその本書の「追い書き Voici la date mystérieuse」の初頭で『私はランボーをいつでも終わりから読んできたような気がする。』と書き記している。まず謎を解く「アフリカ書簡」がはじめにあり「地獄の季節」、「イリュミナシオン」があったという鈴木氏の気持ちがそのまま「ランボー、砂漠を行く」に結実化したものと思われる。また、彼の師である井上究一郎教授()との研究室でのやり取りも一種の禅問答のようで興味深く、研究者としての井上究一郎の凄さを窺わせる。
 「ここに神秘な日付が来る Voici la date mystérieuse」とマラルメは言う。ランボーにおいて詩が終わり、沈黙が始まる時期のことを言っているのである。詩が沈黙と触れ合い、共鳴し、沈黙へと身を譲り渡す時期、私にはランボーの問題はそこにしか見つけられなかった。修士論文の指導教官だった-今は亡き-井上究一郎教授の研究室で、そんなランボー論を書きたいというと、教授は「ランボー論を書こうなんて思ってはいけない。ランボー研究だよ。」と釘を刺された。私は百冊以上の研究論文を読み通し、ランボーの詩が沈黙と触れ合う「神秘なdate」について諸家が述べるところを探索し、カードに採り、それらの資料を元に「『イリュミナシオン』の成立と詩人の死」と題する論文を提出した(これは『ランボー叙説-「イリュミナシオン」考』として1970年に一書となった。)
 その後も、ランボーにおける「神秘なdate」は私に憑いてまわることを止めなかった。
(後略)
  -追い書き Voici la date mystérieuse「ランボー、砂漠を行く」鈴村和成著より-
 後日それは研究室に閉じこもる「研究者」井上究一郎教授から鈴村氏に至る中で確かに鈴村和成氏の「ランボー論」の中核を占めるようになっていったのである。「文学者」鈴木和成の誕生とも言うべきものなのだろう。それは後に続く言葉にいみじくも表れている。
 言うならばランボーはアフリカ書簡の一通毎に詩の放棄を行っているのだった。そこに詩があるとするなら、砂漠に風が描き出す風紋に似たものだっただろう。そこでは生成と風解が同時に進行しているだろう。ランボーの詩はそのように詩の放棄と背中合わせになっていた。
 ランボーが詩を棄てた”時”というものは、もしそのような時があるとするならば、それは砂漠の砂のようにどこまでもちりちりに手のうちからこぼれ落ちてゆくものであるに違いなかった。ランボーにとっての時とは、詩の放棄そのものではないかと思われた。

註:井上究一郎(いのうえきゅういちろう、1909年9月14日 - 1999年1月23日)は日本のフランス文学者、翻訳家、エッセイスト-ウィキペディア
※仏語の出来る方は右記サイトへ:「アルチュール・ランボー書簡集」(1870-1891)
※このエントリィは「愚民の唄」2008-08-13に書かれたものを転載した。
ランボー、砂漠を行く―アフリカ書簡の謎ランボー、砂漠を行く―アフリカ書簡の謎
鈴村 和成

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2008-07-20

谷川 雁の深い挫折感

雲よ
雲がゆく
おれもゆく
アジアのうちにどこか
さびしくてにぎやかで
馬車も食堂も
景色も泥くさいが
ゆったりとしたところはないか
どっしりした男が
五六人
おおきな手をひろげて
話しをする
そんなところはないか
雲よ
むろんおれは貧乏だが
いいじゃないか つれてゆけよ

-谷川 雁 詩集(国文社版)-

・・・光とは、なんとおそいものであろう。そして自分の「詩」を葬るためにはまたしても一冊の詩集が必要なのだ。人々は今日かぎり詩人でなくなったひとりの男を忘れることができる。
1960年1月6日-谷川 雁(あとがき)-

言語空間の営みにおける深い挫折感と思想の敗北。そして、そのように彼は忘れ去られた。
谷川雁詩集 (1969年)谷川雁詩集 (1969年)
谷川 雁

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2008-06-20

美しい書物

これらのメモのあちこちにいま目を通してみると、まずいくつかのものに失望させられる。じつのところ、私はそこに何を期待出来たというのか?それはシュルレアリスムがまだみずからをさがしもとめており、世界観としてみずからを明確化するにはほど遠かったからだ。みずからの前にひろがる時間を先読みできぬまま手さぐりで進み、みずからの威光の第一歩をおそらくあまりにも悦に入って享受していたのだ。影をつむぐものがなければ、光をつむぐものもない。(1962年)
      -NADJA(ナジャ)-Andre Breton 巖谷 國士 訳

アンドレ・ブルトンの作品「ナジャ」はシュルレアリスムが生んだもっとも美しい『書物』である。死後4年前、つまり1962年に自らの作品「ナジャ」に修正を入れ始めた。35 年前に書かれた作品に手を入れる想いはいかなるものかは想像の域は出ないが、完成を意識して書かれていなかったということだけはいえるだろう。

※このエントリィは「2004-06-28」にはてなダイアリに書かれたものが転載されたものである。

2008-04-08

そのうちずっと遠いところへ行ってしまわなければならない-(錯乱 I Jean Nicolas Arthur Rimbaud)


桜吹雪の中を猛スピードで走り抜けた。
川沿いの桜並木の下をはしっている道は、ただの国道の抜け道にすぎない。
約束のない再会の雨が降る:「桜吹雪を抜けて」

Arthur-Rimbaud3

 北陸の桜は先日の日曜日にほぼ開花を見た。好天も相まって川縁の桜並木はそれこそ数え上げることが出来ないほどの群衆に埋まっていて、まるで虫が湧いたみたいな様相を見せていた。建ち並ぶ露店や子供達の嬌声の中、互いになんら関わりのない人々の集団にしか過ぎないのに私の視角に入ってくる顔は一様に緩んでいた。いわば通りすがりにしか過ぎない肉の塊、人称とも呼べない人々の存在の中で私の歩みは一種場違いな音をギシギシと立てていて、きっとそれは砕かれてゆく自分の音なのだと気づくまでたいした時間を取らせなかった。一種の救いがたい心の欠片でさえ焼尽させてしまう世界の現出の前で私は立たされているのだ。
 孤独さえ砕かれてしまうことだってある。そのあとに残るものはなにかという問いに私は答えることが出来ない。
地獄の季節 (岩波文庫)地獄の季節 (岩波文庫)
J.N.A. Rimbaud 小林 秀雄

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吉本隆明初期詩集 (講談社文芸文庫)吉本隆明初期詩集 (講談社文芸文庫)
吉本 隆明

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2007-12-01

想像力の涯にみるもの



■埴谷雄高と想像的意識

眼球の片端をぐいと指先で押してみると、ものの像がぐらりと揺れ動き、斜めへぐっと膨らみもりあがってくる。それは滑らかな球面を或る方向へぐいと捻ってみるだけの実験で、つまり些細な角度の変化をもたらすだけの操作に過ぎないが、眼球をさらに激しく揺り動かしつづけていると、不動に据えついたこの世界の存在が物珍らしく見えてきて、やがては精神の位置さえ変わってくる。
・・・・・・・・・・・
    やがてはその意識が意識できよう。
    もしそれと名づけられるほどの意識が宇宙にあるとして、
    このきらめく光の変容を瞬きもせずに眺めつづけているとして。
   -意識(抜粋)-

 あまりにも有名な観念小説である。娼婦の部屋でひたすら眼球実験をおこなう男。同時代、フランスにおいてJean-Paul Sartreが「想像力の問題」を世に問う。そして埴谷は前人未踏の宇宙へ向かう。やがてそれは「死霊」となって死す。彼の中でそれは完成したのであろうか。
『愚民的想像力』
※この稿は2004-06-19にはてなダイアリに於いて書かれたものを転載しました。
埴谷雄高 (KAWADE道の手帖)埴谷雄高 (KAWADE道の手帖)

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虚空虚空
埴谷 雄高

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2004-11-27

痙攣する言葉は深淵を認識しているか

解体へのレトリック1

 ひとまず目をブログの中に向けてみよう。詩とは私にとって長く不在の言葉の一つであった。それは過去の時代から今日の時代まで到るタイムラグがあたかも在るような錯覚に囚われるようである。敢えて「創作性ブログ」という安易な言葉を選ばせて貰うことにはいささか抵抗を覚えるのだが、これも成り行きと言うことだ。
 の詩作品についてのランダムな抽出から始めようかと思ったが、時代的順列に沿って「部分」抽出を以下におこなってゆく。また部分抽出については後々問題が残るような気がするが、後日再検証するようなことがあればやぶさかではないと思う。意識の流れをまず見ることが本意であればさほど問題にはならないだろう。また、その方が批判的に止揚でき得るのではないかと思っている。2000年代から書いているようなので作品量は膨大である。また彼自身のために擁護するのだがはっきり言って「習作」を批判することは真意ではない、とだけ言いたい。その辺も考慮に入れながら自分なりの判断で抜粋をしてみよう。

「偽善者」

そんな目で俺を見ないでくれ
確かに俺は偽善者だったさ
そんな目で俺を見ないでくれ
確かに俺は嘘吐きだったさ
そんな目で俺を見ないでくれ
確かに俺は盗人だったさ
そんな目で俺を見ないでくれ
確かに俺は罪人さ
そんな目で俺を見ないでくれ
これでもおれは人間なんだぞ?
・・・・・・・・・・
・・・(中略)・・・
・・・・・・・・・・
さぁ右手を出して。僕の心をあげよう。
とっても汚い僕の心さ
さぁ左手を出して、僕の身体をあげよう。
じつわもう、腐っているけどね。


「完全世界」

この世界は腐っている。

俺の目指すべき世界-完全世界
世の中のあらゆる事に存在理由があり
あらゆる出来事が最適化されていて
全ての物事を説明できる素晴らしい世界
・・・・・・・・・・
・・・(中略)・・・
・・・・・・・・・・
一つだけ教えてやる
「お前の欲しい世界は絶対に手に入らない」
それは・・・俺が耳元で囁くから。


「手を伸ばしてみる」

・・・・・・・・・・
・・・(前略)・・・
・・・・・・・・・・
なんだか何もかもがどうでもいいような
もやもやしていながら安心するような感じ

夢を見ているのかもしれない
生きている感覚は掴めないけれど
死にそうな感じもしない

時間がずれているのかもしれない
どこかで何か重要な間違いをして
変な世界に迷い込んだかもしれない

世界を壊したいわけでも無い
世の中に不満があるわけでも無い
未来が見えないわけでも無い
もっと違う感覚
・・・・・・・・・・
・・・(後略)・・・
・・・・・・・・・・

 この辺りから現在のはにゃ氏のモチーフが見えることは誰でも明らかだろう。どうやら彼はニヒリズムというものに惹かれているようにも思える。初期作品だからと大目に見るわけにはいかないが、まだ「言葉」が通俗的な意味性を無意識のうちに選択しているように見える。またこのような構文上の対比的構成は古典的手法であり「予測された言葉」で構成され詩的言語としての内的意識が意識の表層上を流れて行くにとどまっている。この辺りのところは現在のはにゃ氏と相違はあまりないように思える。
 深読みすれば自らの心の判明し難き部分を自ら軽蔑すべき「醜さ」として光の中へ投げ返そうとする意志が見えないわけではないだろう。そしてまた彼の世界観は言葉としての距離がある故に純然たる世界であるのか、その時代における「彼と世界」という不可逆性に満ちた世界なのかまだ判然としていない。このことは「手を伸ばしてみる」において彼のおかれた世界を端的に表していると思う。地獄を語りながら「地獄」はまだ見えていないと言うべきか。

「死神の人生」

私は死を恐れている
死は音もなく忍び寄り、じわじわと私を絞め殺す
私は死を恐れている
死は光よりも速くやってきて、一瞬で私の首を切り取る
私は死を恐れている
それはある夜眠ったら、二度と覚める事の無い夢
私は死を知っている
じつは私は既に死んでいるから
私は死を知っている
それは果てしなく深い、どうにもならないほどの虚無

人が死を残り越える事など、できるのだろうか?
人に死を乗り越える力など、あるのだろうか?
私は今、本当に生きているのだろうか?
・・・・・・・・・・
・・・(中略)・・・
・・・・・・・・・・
そんな俺の既に死んだ人生は、
真っ暗闇の中で手探りで生きるだけの事だ。
毎日通行人を殺しながら。

 どうなんだろうか?観念的空語と言ったら厳しいのだろうか。いや決してそうではあるまい。生きている確証が掴めないまま「死に神の人生」ではあるまいと思うのは私だけではないだろう。もとよりこのような感覚でニヒリズムが成り立つわけもないのは承知の上だと思うが。

「君と僕の距離」

・・・・・・・・・・
・・・(前略)・・・
・・・・・・・・・・
君と僕はとても危うい関係だ。
君の救いの手は僕を繋ぐ命綱だし、僕の持っている銃は君の頭を吹き飛ばす事が出来る。
だから今はこのままでいよう。
それがお互いの為なんだよ。
・・・・・・・・・・
・・・(中略)・・・
・・・・・・・・・・
ねぇ、だからさ、答えてよ!
今は遠くにいる君よ。
棺の中で眠ったフリをするのはやめてくれよ。

 ここで用いられているのは他でもなく暗喩であることは誰でも気づくだろう。自分自身に語りかけているのであるがまだここではある意味での、もう一人の自分に対しての不信感が完全とは言い切れない形を表している。なぜなら彼の言う通り眠ったふりをしているのかも知れないからだ。

2004-07-11

殺戮

James Ellroy


ぐるぐるまわって、落ちる。
音楽。
闇/光/痛み--腕に注射、狂ったような至福。
光=視界--目を取らないでくれ。
ぐるぐるまわって、落ちる--すべてがビーバップに同調する。
チャンプ・ディニーンのリフ--ルシールとリッチーが天国からゆらゆら落ちてきた。
汗--寒気が顔をなぶる。誰かの顔--年寄りの顔。
突き刺さる針が痛みを食いつくす。
腕に麻薬注射=とち狂ったような至福。
すべて--ぐるぐるまわって、落ちる。
頬のざらつきで半ば幸福に--濃い不精ひげ。
時間--闇に差し込む光、闇に差し込む光、闇に差し込む光。
眼鏡をかけた男--おそらくは夢。人声--夢心地、半ば現実。
音楽。
  -WHITE JAZZ(ハッシャバイ)-
  James Ellroy
   佐々田雅子 訳


サイレンサー付き三八口径リヴォルバーで最後の殺戮に向かう。
暗黒小説の四部作の最後になる「ホワイト・ジャズ」から抜粋した。

ホワイト・ジャズ (文春文庫)ホワイト・ジャズ (文春文庫)
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2004-07-10

乞食(こつじき)の念仏者

教行信証もしくはkakoさんへの返事

・・・ するとわたしたちは、一介の捨て聖として振舞っている無名の念仏者に宿った、巨大な思想という驚くべき矛盾した像を得られる。かれは同時代に、ほとんどじっさいに接した人々のあいだにしか知られなかったし、知られないように振舞った非僧非俗の風態をとった念仏者だった。だがかれが人格的な雰囲気と口調によって伝えたものは、比類のないほど巨大な独自の思想であった。この矛盾したかれの実像が、たしかな姿で得られたならば、親鸞の思想家としての姿はとり出せたことになる。わたしは最後の親鸞と名づけて、じぶんなりの親鸞の実像を描こうとした。
       -最後の親鸞(序)-
         吉本隆明




・・・『教行信証』はその正しい名が示すように「文類」であるから、多くの経論釈疏の引用をたてまえとするが、それを中心に据えて、その間に親鸞の理解を展開していく、そうした箇所がこのような言葉で始められ、あるいは書きつがれているのである。これは親鸞がみずからの考えを先行の典籍をしっかりふまえて論証しようとする姿勢に終始したことを語る。・・・
註(nam):このような言葉とは以下のような表現である。『だからここに』とか『だからこそ』とか、『したがって以上のよう見るかぎり』
       -『教行信証』のこと(抜粋)-
            石田瑞麿


さて、このようなことでkakoさんのcomentに対応しているのかどうか分からぬが、参考にはなるかも知れません。親鸞の生きた時代は仏典が学問の頂点であり、哲学でもあったと思われます。聖は一念仏者として”生きる”と云うことを一生問い続けたのであろうと思われます。当時の時代の「信仰心」の反逆者として。また、生活者として。その果てにみえた「佛智」、極限の思想。『教行信証』は私には大論理学のように聳えております。まして、いかの吉本隆明とはいえ聳えているものには違いなかったと思います。乗り越える「思想」としてです。
信というのは一宗教の能書きの一つと言い放つには重いものがあります。旧約聖書で神から試され続けるアブラハムの信仰心のように。
他力本願という世界はまさしく「信」を問うているのだと思います。すべてを無にした涯になにがみえるのでしょうか?kakoさんも歩むなかでしかおのれを視ることは出来ないでしょう。

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2004-06-30

おお、君は眩いくらい美しい

Arthur-Rimbaud2

聞き給え。この物語も数々の俺の凶器の一つなのだ。
俺は久しい以前から、世にありとある風景が己の掌中にあるのが自慢だった。
近代の詩や絵の大家らは、俺の眼には馬鹿馬鹿しかった。
    -地獄の季節(錯乱Ⅱ・言葉の錬金術、冒頭より抜粋)-
      Jean-Nicolas-Arthur-Rimbaud
           小林秀雄 訳


堀口大学の訳も美しいのだけれど、以下の部分に至りLacoste版に拠る小林訳の方が心に響く。


また見つかった、
   何が、永遠が、
   海と溶け合う太陽が。

もうボロで赤茶けてしまったこの文庫本を『海と溶け合う太陽』が見たいが故、新しく買い換えてしまった。

2004-06-25

Henry Miller


パリは売笑婦に似ている。遠くから見ると、男の魂をとろかすようであり、彼女を両腕に抱きしめるまで待ちきれぬほどだ。しかも、五分後には空虚感を味わい、自己嫌悪をおぼえる。だまされた思いだ。
      -TROPIC OF CANCER(北回帰線)-
          Henry Miller
          大久保康雄 訳


ヘンリー・ミラーは3人の女と出会った。とりわけアナイス・ニンの存在は大きかった。そして世に出たのである。


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2004-06-23

類的存在

Karl Heinrich Marx


動物はその生命活動と直接的に一つである。動物はその生命活動から自分を区別しない。動物とは生命活動なのである。人間は自分の生命活動そのものを、自分の意欲や自分の意識の対象にする。彼は意識している生命活動をもっている。〔人間は生命活動をもつものとして規定されるとしても〕それは人間が無媒介に融けあうような規定ではないのである。意識している生命活動は、動物的な生命活動から直接に人間を区別する。まさにこのことによってのみ、人間は一つの類的存在なのである。あるいは、人間がまさに一つの類的存在であるからこそ、彼は意識している存在なのである、すなわち、彼自身の生活が彼にとって対象なのである。ただこのゆえのみ、彼の活動は自由なる活動なのである。疎外された労働はこの関係を、人間が意識している存在であるからこそ、人間は彼の生命活動、彼の本質を、たんに彼の生存のための一手段とならせるというふうに、逆転させるのである。
     -経済学・哲学草稿(第一草稿 疎外された労働より抜粋)-
                     Karl Heinrich Marx
                    城塚 登・田中吉六 訳


カール・マルクスは人間は類的存在であると看破した。そして巨大なるヘーゲル哲学に挑む。ヘーゲル弁証法への深遠なる批判と止揚へ。


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2004-06-22

盲者

スッタニパータ


人間のこの身体は不浄で、
悪臭を放ち、
(花や香を以て)まもられている。
種々の汚物が充満し、
ここかしこから流れ出ている。

このような身体を持ちながら、
自分を偉いものだと思い、
また他人を軽蔑するならば、
彼は盲者でなくて何だろう。

        -スッタニパータ(抜粋)-
            ブッダ
           中村 元訳


ゴータマ・ブッダ(釈尊)の入滅は紀元前383年と云われている。このスータニパータは南方仏典としてはもっとも古いものである。それだけにもっとも尊き師の言葉に近いものだと思われる。


ブッダのことば―スッタニパータ (岩波文庫)ブッダのことば―スッタニパータ (岩波文庫)
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2004-06-16

非知と無智

吉本隆明の極北

<わたし>たちが宗教を信じないのは、宗教的なもののなかに、相対的な存在にすぎないじぶんに目をつぶったまま絶対へ跳び超してゆく自己欺瞞を見てしまうからである。
      -最後の親鸞-
        吉本隆明


称名念仏の極北に佇んでいる親鸞に立ち向かう吉本隆明の姿に”思想”の原点を見る。他力本願の思想の涯に見えた孤高の世界。

最後の親鸞 (ちくま学芸文庫)最後の親鸞 (ちくま学芸文庫)

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2004-06-15

ブッダの悟り

Dhammapada


かの尊師・真人・正しく覚った人に敬礼したてまつる。
『真理のことば』

怒りを捨てよ。
慢心を除き去れ。
いかなる束縛をも超越せよ。
名称と形態とにこだわらず、無一物となった者は、苦悩に追われることがない。

     -ブッダ(Dhammapada)-
         中村 元訳


現象界の全てを捨て去ったときにみえるものは、煩悩から解き放たれた自分である、と云うことか。
法句経(パーリ文での大蔵経の一部)にはいつもはっとさせられる自分が見えてくる

ブッダの真理のことば・感興のことば (岩波文庫)ブッダの真理のことば・感興のことば (岩波文庫)
中村 元

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2004-06-14

佛国土

親鸞1


おほよそ大小聖人、一切善人、本願の嘉號をもておのれが善根とするがゆへに、信を生ずることあたはず。
佛智をさとらず。
かの因を建立せることを了知することあたはざるがゆへに、報土にいることなきなり。
      -親鸞-
  教行信証 (化身土巻より抜粋)
     金子大栄校訂


人すら自分を善と思うが故に信心が起こせず、佛の智慧を悟れないでいる。
従って真の佛国土にいけないのだ、と。
親鸞の他力本願の神髄は「念仏者」とはなにかを厳しく問うている。

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2004-06-03

砂漠の商人

Arthur Rimbaud1


この土地はおさらばだ、何処へでも構わぬ。
志を立てた壮丁ら、俺達は、猛悪な哲学を持とう。
学識には文盲を、慰安には獄道を、歩み行くこの世には決裂を。
これこそ真の発展だ。
前進せよ、出発だ。

(デモクラシーより抜粋)
     - Jean-Nicolas-Arthur Rimbaud -
          小林秀雄 訳


「地獄の季節」ばかりではなく、ランボーには惹かれるものが多い。
まさに若くして天才であったのだろう。
そして、老いるのも早かった。

地獄の季節 (岩波文庫)地獄の季節 (岩波文庫)
J.N.A. Rimbaud

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2004-05-06

同一性拡散

アイデンティ・クライシス

同一性拡散と危機は何故起こるのか。自分の過去と現在、他者から認識されている自分のimageの破断。現代社会においての己の存在感の確証は難しくなる一方だ。ゆるりと蠢いている歴史の闇。その広大な底なし沼に放物線を描くように情念が吸い込まれていく。魂の彷徨う現代人達。

2004-05-05

イメージと文体

文体

難題のひとつだ。
年齢を重ねるとパノラマみたいにイメージが拡がると言うがそうではないであろう。それは老いたる思い込みに過ぎない。自己との相克をどのように経てきたのかが問題にされるべきである。これを場数を踏むとも言う。しかし、意識の時間化度は「感性」によってしか左右されない。

2004-05-03

世界内存在

E. Husserl


世界というものがわれわれの経験とはかかわりなく、それ自体の超越的存在を持続し、すべての事物はこの世界の内部に存在し、すべての出来事はこの世界の中で生起する
- E. Husserl(Ideen)-

「世界定立」に対するフッサールの初期的考え方である。死後遺稿によればすでに現象学的還元の捉え方を変えている。


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