2007-11-02

愚民的想像力


 人間はどうも逃れようもない幻想をもつように自らの手によって仕向けられている。そんな思いを抱きながら人生の晩年を迎えようとしている自分なのだが、べたにそうかと言えばそうでもないように思うのも人間である。意識の下降する状態に陥ってしまうひとつには抗いようもない死というものがあると云うことも挙げられるだろうし、たとえそれ自身が観念の中で自己完結させようとしても残滓みたいなものは残る。云うならばその残滓みたいなものからあらゆる人間の創造的な営為というものが生まれてくるのだろうと思う。たとえそれがなんの意味がなくとも当の本人にとっては意味も意義もあることに思えるわけだ。たぶん意味はあるのだろうが意義があるとは思えない。創造的思考に虜になった妄念は時間性の方に収斂され個を更に深化させ、そこからこぼれ落ちた雫みたいなものが空間性の方に投げ出される。その雫が幾つかの雫と交わり変容してゆくみたいなものとしてあるのだろう。現実界で妄想の虜になるのは人間が本来持っている自分自身の存在の不快から来るものであり、形なきものの有るかのごとき装われた擬態を見るからである。これは肉体を意識に拠ってしか受容できない人間の在り方から来ている。しかし、やがてそれをも意識されることない世界の存在に気づかされる時がくるのだ。もっともそれは不合理の思考の累積でしか到りつかない世界だ。「壮大なる無」は感覚界全てを取り去った世界である。つまり滓さえも存しない世界、無機でもなく有機でもなく意識の非存在の世界。観念をも消滅させる世界、一切合切が是全て無と云うべきもの、「もの」ではないもの。何ものをの意志さえない世界、幻化というべきものの完全なる世界、佛世界ではそれを捨象して涅槃と云う言葉を生み出した。しかしそれはある意味ではあらゆる整合性を超越したところにしか存在しない。宗教がもつ本来の所以である。その対極にはアフォリズムの果てに自我そのものを宇宙まで拡大して見せた埴谷雄高の「自同律の不快」という言葉。
やがてはその意識が意識できよう。
もしそれと名づけられるほどの意識が宇宙にあるとして。
このきらめく光の変容を瞬きもせずに眺めつづけているとして。
  「意識」-埴谷雄高『虚空』より-

 そんなことやあんなことを考えていた。くだらん、といえばクダラン妄想でしかないのだけど、そんな中でものを書いたりしている。
※写真は埴谷雄高。はにや ゆたか1910~1997。1910年に台湾の新竹に生まれる。戦後の形而上小説「死霊」(しれい)を書いた作家。
記:はてなGの「愚民の唄」2007年01月2日より転載した。
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