2007-09-30

『言語にとって美とはなにかⅠ、Ⅱ』出版当時の愚民的考察



ついにじぶんのやってきたことは空しい作業だったかという覚醒は辛いものであった。それゆえ、わたしの主観のなかでは、じぶんの手でつくりあげてゆかねばならない文学の理論は、とうぜん思想上の重荷をも負わなければならないものであった。その時期が、わたしの文学上の最大の危機であり、わたしは少数の言語理論上の先達にたすけられながら、まるで手さぐりで幾重もたちふさがった壁をつきぬけるような悪戦をつづけた。そして本稿によって、わたしは思想上の貴任を果しながらその作業をおえることができたのである。
  -吉本隆明/初出「試行」(昭和36・10~40・6)-

 これは『言語にとって美とはなにか』の序に於いてのさわりの部分である。
 さて上記の『言語にとって美とはなにかⅠ、Ⅱ』は吉本隆明の膨大な著作集の中でも言語表現の構造にメスを入れた労作であり「大作」である事に異論が無いところである。また私達は国内にいまだ匹敵するような類する著作を持っていないことも事実である。吉本隆明はこの『言語にとって美とはなにか』を直接購読制を取った同人誌『試行』((1961年谷川雁、村上一郎、吉本隆明の三名によって創刊され、1997年12月20日第74号で終刊する))の創刊号から第14号までの間連載した。その論は非売品にも近い『試行』の直接購読性ゆえ一部の者だけしか読むことは出来ず、また後年その原稿に加筆訂正をくわえ勁草書房より公刊された「Ⅱのあとがき」にも書いているように『わたしは少数の読者をあてにしてこの稿をかきつづけた。』といっている。そしてそれは成されたわけであるが彼はこれを書き続けている中、沈黙の言葉でつぶやくのである。『勝利だよ、勝利だよ』と。そして公刊について以下のように述べている。
 いままでいくつかの著書を公刊しているので、つながりをもった小さな出版社もひとつふたつないではなかった。しかし本稿はみすみす出版社に損害をあたえるだけのような気がして、わたしのほうからはなじみの出版社に公刊をいいだせなかった。それでいいとおもったのである。最小限、「試行」の読者がよみさえすればわたしのほうはかくべつの異存はなかった。
  -「言語にとって美とはなにかⅡ」のあとがきより-

 これは暗に彼独自の言語構造論がその当時の日本的情況からみれば世界思想に迫ったという自負心の裏返しの心境の吐露であり、孤高であるがゆえの当時の彼の位相を表しているといえるだろう。愚民の目から見れば畏敬せざるを得ないくらいの実に恐ろしい男であったわけである。そしてやがて愚民代表として筑摩書房の編集者((現在は『ハイ・イメージ論』等20冊程度の吉本の著作を出版している。))が出版したいと思うから連載された「試行」を見せてもらえないかと訪ねて来るのである。そして後日、筑摩書房から出版する気が無い旨の連絡が来る。ま、いまでは「ちくま新書」、「ちくま学芸文庫」と銘打って構造主義だわ、ポストモダンだわとアドバルーンを揚げている愚民教養出版社であることを考えればもっともなことであった。また書かれたものの孤高ゆえの商業性を有していない著作でもあったともいえるかと思える。だがしかし、世は捨てたものではなかったのである。勁草書房から優れた編集者である阿部礼次氏がやってきたのである。そしてこの『言語にとって美とはなにか』が我々の目の前に現れたのであった。そして彼吉本隆明は勁草書房の阿部礼次氏へ尊敬と感謝の念をこめて当時を振り返り、こんなことを言っている。
わたしはこのときも、よくよんだうえで本気でよいとおもったならば出版するように求めたと思う。阿部氏はよほど非常識だったらしく、やがて本稿を出版することに決めたという返事があり、わたしのほうもそれではと快諾した。校正の過程でも、怠惰と加筆で散々な迷惑をかけたが不満らしいことは、わたしの耳にははいらなかった。阿部氏がいなかったら本稿は陽の目をみることはなかっただろう。未知のまえで手探りするといったあてどないわたしの作業の労苦よりも、阿部氏のような存在や、本稿を連載中のわたしの周辺の労苦の方が、この社会では本質的に重たいものにちがいない。わたしは本稿にたいして沈黙の言葉で『勝利だよ』とつぶやくささやかな解放感をもったが、阿部氏やわたしの周辺は本稿の公刊からはどんな解放感もあたえられないだろうからである。-1960年7月
  -「言語にとって美とはなにかⅡ」のあとがきより-

 さてわたしも愚民の一人として当時の勁草書房版を持っているのだが「奥付((本の構成内容の一つ。主に書籍名、著者名、発行者名(出版会社)、印刷所名、製本社名、ISBN、発行年月日、版数、定価、著作権表記などを記載したページ日本の書籍では最終ページにおかれる。))」を見ると興味の引かれることに目がいったのである。わたしが買ったのは昭和43年であることがわかるのであるが、このときの「Ⅱ」についての刷数(太字)に注意してもらいたい。
「言語にとって美とはなにかⅠ」の奥付
昭和40年5月20日第1刷発行
昭和43年3月15日第8刷発行
「言語にとって美とはなにかⅡ」の奥付
昭和40年10月5日第1刷発行
昭和43年8月15日第6刷発行
定価 750円

 つまりは「Ⅰ」ほど「Ⅱ」は売れてなかったという見方もできるが、大概の者は当時の流行で購入はしたが、頭の具合がおかしくてというかヴァカなため「Ⅱ」に進めなかったと見るべきであろう。40年前も今も知ったかぶり愚民と呼ばれる者達の「知」の位置は変わらないのではないかと思った次第である。
 そのほかぐぐって見ると結構あるものだ。なかには『積んでるうちに文庫版は「定本」といふのが出ちまひましたが、かまひません。』という積読と呼ばれるものがあることも知った。ニヤニヤしながら以下を読んでいた。なかなか必要に迫られない限り、「言美」は一筋縄でいくような書物ではないのだろうなと思った。
三浦つとむ「日本語はどういう言語か」(講談社学術文庫)の吉本隆明の「解説」を読むことで、やっと吉本隆明の主著「言語にとって美とはなにか Ⅰ Ⅱ」(角川文庫)を読む気になってきた。
「言語にとって美とはなにか」は、誰も最後まで読み通せない点でマルクス「資本論」と同様に有名だが、ご多分にもれず、学生時代から何度挑戦してもダメな本である。
「心的現象論序説」も読みたいのだが、同様に未読だ。
  「晴耕雨読 古本屋の読書日記」より

※その他の参照サイト:

「表出論の形成と複合論-嶋 喜一郎-」
「対話とモノローグ-弁証法のゆくえ-」
「終わりなき〈意識のさわり〉の営み-石村 実-」
「言葉が生まれるところは、どこか。-吉本隆明と糸井重里の対談-」・・・全5回
「言語にとって美とはなにか (冒頭部分)」
記:このエントリははてなGの「愚民の唄」2006年10月30日より転載した。

文学者の老いや自殺とか

 一晩で「追悼私記」読み終える予定だったはずが自分自身が夜まるでダメポ状態により今になってようやく読み終えた。文学者の老いとか病とか自殺とかが満載で、これほど興味深く読んだ文庫は最近なかったような気がする。恥ずかしい話だが「えっ、この人*註1は自殺だったのか」という驚きもあった。ついでに言うならば1999年9月に「文学界」に寄せた「江藤淳記」の最後に書いている吉本自体の老いについて触れていた部分が自分の気持ちを暗くさせてしまった。
眼と足腰がままならず*註2、線香をあげにゆくこともできなかった。この文章が一本の線香ほどに、江藤淳の自死を悼むことになっていたら幸いこれに過ぎることはない。
  -「江藤淳」最後の立ち姿のイメージより-

 その昔四谷の上智大学で行われた吉本隆明そのひとの講演を聞きにいったことがあった。電車に乗るお金もなく当時いた渋谷代々木上原から四谷まで歩いていくしかなかった。自分が畏敬してやまないその人は100人程度しか座れない教室の教壇に立っていて、その精悍な顔と鋭い眼光でもって他を圧するように見えた。吉本は当時40半ばの年齢であったはずである。だが喋りだすと決して巧いとはいえない訥々というか、近所にいそうなオッサンみたいな感じで恥ずかしそうに喋りだし、なんか自分の持っていたイメージを払拭して凄く親近感がもてたのを覚えている。だがそのときの内容はとても理解を超えていて全てが初めて聞くかのごとき世界であった。今考えればその頃もう既に「心的現象論」についての構想が既に始まっていたということになる。考えるだに恐ろしいことだと今も思っている。まさに日本人として前人未到の領域に彼はそのとき既に分け入っていたということになる。その場に居た人間のどれほどのものがそれを理解して聞いていたのかはわからないが、サルトルやフッサールをかじった程度の知識しか持っていない自分では到底理解を超えていたとするのは当然だった。そしてその「心的現象論」は彼が主宰していた直接購読制をもつ「試行」*註3の終刊号(1997年12月20日)まで連載されていることを知ってはいるが公刊で無いゆえに見ることも読むことも出来ない。ほぼ30年にわたってその論が書き続けられているということも驚愕に値するが全貌は推測することしか出来ない。彼は今83歳*註4になるのかと思うがたぶん陽の目を見るのは死後ではないかと思う。口述筆記なのだろうか。ある意味では埴谷雄高が死ぬまで書き続けたといわれる大作「死霊」を髣髴させる。凄まじいといえばそうに違いなのだけれども、なんか妙に寂しいことでもある。
※追記:吉本隆明と共に「現代批評」を創刊した奥野健男*註5が東芝出身の技術屋上がりだということを「追悼私記」を読むまで知らなかった。また当時奥野健男が高分子化学の製造技術に関して特許庁長官賞を受賞した。それに関して批評家平野謙の「推理癖」を平野謙への追悼文「平野さんの神々」において書いている。相当笑わせてくれる内容なのだが最後には笑えなくなってしまった。

註1:文学者ではないが対馬忠行が自殺だったことは知らなかった。1979年4月11日播磨灘で投身、同年8月11日に死体が浮上。思想家、ソ連論に収斂される業績は大きい。「トロッキー選集」の翻訳者でもある。「追悼私記-対馬忠行-駈けぬけた悲劇」の稿参照。
註2:糖尿病、白内障の手術、腸がんの切除手術など多くの病気を抱え、ほとんど歩けず見えない生活。満身創痍。
註3:「試行」全74冊の目次-「吉本隆明全著作(試行)」
註4:2005年11月の読売オンラインに吉本隆明の近況と共に執筆方法が載っていた。また、『共同幻想論』の仏訳がCD化されていることも知った。L'Illusion commune『共同幻想論』フランス語訳。「「肉フライ」 吉本隆明さん」-読売新聞-に於いても好々爺ぶりがみてとれる。視力が衰え、文字を拡大してモニターに映しながら、執筆や読書を行う。とあった。『「●ルーカスWを使う著名人●」』氏の初のCM出演なのか?微笑ましい。
註5:大正15年、(1926年)7月25日東京生まれ。昭和27年東京工業大学理学部化学科大学在学中、文芸部雑誌に「大岡山文学」に書いた「太宰治論」によって一躍注目を浴び本格的評論活動に入る。昭和28年同大学卒業後(株)東芝へ入社。昭和29年「現代評論」を服部達らと、昭和33年「現代批評」とを吉本隆明らと創刊。旺盛な批評活動を行う。昭和34年大河内技術賞、昭和38年科学技術庁長官奨励賞、昭和39年特許丁長官賞受賞。トランジスターラジオの開発に貢献した。参照先「奥野健男 ★プロフィール★」には若かりし頃の文学者達の写真が載っていて貴重だ。この中の写真で生きているのは吉本ただ独りとなっている。
記:このエントリははてなGの「愚民の唄」2006年11月09日より転載した。
追悼私記 (ちくま文庫)
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