2007-07-31

鈍痛の王-矢島輝夫-

 この「鈍痛の王」という言葉は60年代の後半、矢島輝夫(*註1)がその小説『裂魂』(*註2)のなかで主人公を捉えて離さなかった感覚である。そして暗黒に閉ざされた未来に向かうときストイックなまでの彼の魂は引き裂かれていく。

ふと潤三はあの鈍痛の王を待っている自分に気づく。あの感じ 瞼がだんだん温もってきて 真珠色の光がチラチラしてきて 痛イヨオ痛イヨオと叫びが聞こえてきてだがなんていいんだ 痛いっていうのはなんていいんだ・・・・・・
 -「裂魂」矢島輝夫-

 この中での潤三はデモ(60年安保闘争)で機動隊に頭を打たれた後遺症に悩まされていて、この取り憑いた鈍痛の王によって会社は首になり生活不能者としての道を歩んでいく。潤三は離婚した妹の子供達の面倒を見ながらその妹と母親の営んでいる水商売の上がりで生活しているという設定になっている。いわば世の隅で誰からも振り返ることもされない社会的敗残者の家族の一員として歴史の暗闇の中を生きていくのである。
 潤三は記憶の中にある安保闘争で受けた傷と東京大空襲の中で幼いながらに母と逃げまどう姿とを重ねながら常に頭の脳髄を撃たれ続けていく。しかしある日潤三は公園にある池の中に棲まう鯉をみて感銘を受ける。まさしく中村文昭が「裂魂」によせた批評文「悪無限の呪縛と溶解志向」で書いている通り、その存在の畏怖にほかならない。

そのようにひっそりとした存在、その鯉がいるということさえ、めったに誰にも知られることのないそのような在り方に潤三は感銘し、その鯉の生が殆ど誰にも知られることのないように、その死が誰にも知られることのない生!
 -「裂魂」矢島輝夫-

 いうならば池の底にいる鯉のもつ生物としてのひっそりとした「生と死」の繰り返しに大衆の原像を一瞬の内に見て取ったといっていいだろう。矢島のここに於ける読点を駆使した実験的文体はあらゆる暗喩に覆われていて難解だ。いわゆる言葉が言葉を探っていくように矢島の意識は捻り歪みながら言語空間を撃ち続ける。潤三が自分の役割としていつも面倒を見ている妹の幼い子供達チコと朝男に惹き起こされていく終半のイリュージョンはまさに凄惨であり、その分、感動的でさえある。

 一粒の麦 地に落ちて死なずば ただ一粒のままにてあらむ 一粒の麦もし死なば 豊かに実を結ぶべし・・・・・・
 というチコの声がつづき、おれが死んだからチコの腹に豊かな実を結んだということなのかと苛だっておもい、いったいチコはなぜわざわざおれに聖書の中の一節を口誦したりするのかと腹立しくなってしまい、いったいチコは腹の中のこどもをどうするつもりなのか、と必死になってかんがえ、まさかおれのこどもではあるまいと構えるような姿勢になってただひたすら腹の膨らみに目をやっていると、胸を何かに圧迫されるような感じで目が醒めた、べつに何がどうしたということではない、とほっとして安堵し慌てて隣の蒲団のほうへ目をやると、そこには五歳のチコが睡っていて、その途端おれはああこの子は夢の中にいたチコの腹に入っていた赤ん坊だ、と思ってしまい、まるで、おれのこどもだ、顔つきや睡るとき拳をつくる癖までおれに似ている、(後略)
 -「裂魂」矢島輝夫-

 そして過去から追撃されていく中での生への転換は人を圧倒する。

罅割れた大地がせりあがってきて血の滲んだ泥が輪郭の不鮮明な塊をつくりそれはもこもこともりあがって、精液の匂う女の股の形になってその割れ目が濡れてきてぽっこりと穴ぼこがあき、そこから低い呻きのような声が洩れてきて、あおあおっと堪え切れなくなった呻きがこぼれてきたとき、おれはぼこっぼこっと執拗に殴打されていて、殺せ殺せ、という呪文のように繰り返す声音・・・・・・
(中略)
おれはぎりぎりと殺せ!殺せ!と鳴り響く言葉の嵐を必死に堪え、おれは殺されまいとして足を踏んばってまさにおれを殺そうとしているのは、おれ自身なのだと気づいて太い息を吐き、おれ自身にこびりついている記憶こそが、おれを殺そうと迫っていることに気づき、おれは呻くように生きてやるぞと叫びたくて咽喉を、ふるわせるがうまくいかないで、しかし必死に声を上げようとし・・・・・・
 -「裂魂」矢島輝夫-

 最後に彼は二人の幼子を前にしてこのように『裂魂』を結んでいく。彼は間違いなく未来に架橋しようとしたのである。

それは豪奢で、重く充実し、危うくおれをたわませるほどの熱さ、頭を撲られ現実世界から放逐された者のみの初めて到達しうる思想であり、暗いどろどろとした底点でのあがきが突如矜恃の光を放って輝く瞬間、おれは立ちあがるのだ、歩くのだ、育てるのだ!いまこそおれの恐怖が原動力、おれ自身が生きるための、ふたりのこどもを育てていくための・・・・・・いまこそ、おれの恐怖が原動力・・・・・・いまこそおれの恐怖が・・・・・・
 -「裂魂」矢島輝夫-

 矢島輝夫は『裂魂』のあとがきで以下のようにいっている。
『ここ数年、私は<世界>から放逐された人間は<幻想>のみを拠点として、いかに<世界>を隷属できるかという主題にとりつかれてきた。-1970年10月のあとがき-』と。まさしく取り憑かれた妄念であった。
※60年安保闘争。岸首相の日米安保条約改定に反対し、デモ隊が国会を包囲、突入した(*註3)。

追補1 矢島輝夫の短歌について。
 歌人としての矢島輝夫の側面については倉田良成氏の「増補 矢島輝夫歌集を校正して」に詳しく書かれているのでそれを参照してほしい。ちなみにその中でも惹かれた矢島輝夫の短歌を下に書くと共に倉田良成氏の解説の抄を引用した。

 暁暗を蒼ざめし馬かけぬけて腹の底より怒りを歌え
 -矢島輝夫-
 うたわれている「怒り」が何であるか、作者はそれと指し示してはいないが、私には痛いほど分かる気がする。「蒼ざめし馬」とはむろんヨハネの黙示録のそれであろう。「腹の底より」という表現でも明瞭なように、作者は濁世として見えている今の時代に対し、けっして器用ではないけれど、その分骨太で膂力のある詠み振りによって、歌の持つひとつの側面である荒ぶるこころ、ともいうべきものをまっすぐに吐露することに成功している。この歌に、ある健康さを感じるのは私ばかりであろうか。
 -倉田良成-

追補2 2004年3月12日に私が書き記していたこと-remembrance-
 昨日Googleを色々検索していたのだが歌人、詩人のカテゴリから波及して矢島輝夫の名を見出した。私の胸が一瞬のあいだ熱くなり、目はさらに検索を追うた。その世界に縁のない私にとってはそれは小さな衝撃を与えた。
 確か当時の私が二十歳ぐらいであるから1970年前後の事ではなかったかと思う。ある大学学園祭の講演の後でその大学の新聞会の連中を交えて矢島輝夫氏と二、三言葉を交えたことがあった。彼はその当時同人誌「試行」(*註4)のメンバーと関わっていたかと思う。私はその後彼の書いた「暗き魚」に惹かれ、当時出た単行本2冊をむさぼり読んだ。そして彼の実験的文体の構造的な部分の批評を行い彼にその小文を手紙で送った。彼から丁重な手紙の返事が来た。私も若かったのである。
 私は今その当時の記憶の断片が次から次へと湧き起こってきて内的時間を鎖のようにしてしまう感覚に襲われている。そしてそれから私の記憶はさらに歪んでいく。その数年後だったかと思うが小さな出版社の編集をやっていた私の友人の自死とその後(*註5)の葬儀の運営で故人の周囲の人々に責められ憔悴していた頃の私が思い出されきた。葬儀委員長は私だったのだ。後日彼の書き残した詩片(*註6)は遺稿集として出版された。そして私は最後までその遺稿集の出版に対して抵抗した。出版に反対していた彼の娘の言葉の方が重かったのである。遺稿集の後書きにはその編集者である坂井信夫(*註7)によって非協力的態度をとった私が名指しで批判されていた。その後私はわだかまりを一切表に出すことなく一生懸命脇目もふらずに市井にとけ込み生活を続けた・・・・。
 そしてGoogleの検索によって記憶から追撃された私はあまりにも長かった私自身の空白を深い哀しみをもって思い知ったのであった。

*註1:矢島輝夫(やじま てるお) 1939年5月20日 - 1999年4月2日没。小説家、歌人。作品としてはそのほか『炎上』、『直立の屍体』、『暗き魚』、『炎えろ死者』などがある。ウィキペディア
*註2:『裂魂』は1970年11月30日第1版として三一書房から刊行され、文中の引用文はそれから引用した。また引用文を多く採ったのは既に絶版となっていて少しでも前後が分かればという思いがあったからである。一般の古書店では取り扱っているところも多いようだ。
*註3:全学連主流派を率いた政治組織、共産主義者同盟(ブント)はこの日、国会に三回突入し、東大生樺美智子=当時(22)=が死亡した。「暴力です。警官隊のすごい暴力です。これが日本の現在の情勢です」と叫んだ旧ラジオ関東の島碩弥アナの実況は騒然とした当日を伝えていた。
*註4:1961創刊 谷川雁 村上一郎 吉本隆明が初期のメンバー
*註5:妻や娘に逃げられた彼はその半年後板橋のマンションで首をつった。私は当時心配になって何度か彼の部屋を訪ねたが居留守を使い会ってはくれなかった。そして最後の訪問の20日後彼は自死に臨んだ。私は葬儀の出席を最後まで拒んだ彼の妻や娘にギリギリまで説得を試み最後に渋々了承を得たのだった。要するに私は友人の「最低の最後」に立ち会ったのであった。
*註6:彼の遺した原稿は全て彼の娘の手にあって彼の死後数日して娘は私の手元に置いて行った。読みたくないと云って。
*註7:現代詩人。主宰誌「索」。著作には「アンソロジー坂井信夫―現代詩の10人」ISBN:481201249X、「冥府の蛇」ISBN:4812004934黄泉へのモノローグ」ISBN:4812014700などがある。