2007-11-23

書けないとはなんだろう



 「書く」と言うことを考えてみると、なんと言っても自分自身のために「書く」ということが誰もが頭に浮かぶだろう。また姿も見えないものたちのために書く者もいる。これもひとつの方法だと思う。だが他者であるものたちの中に自分がいるということにどれだけの人が気づいて書いているだろうか。でもそういうこととかを含めて自分自身を真の意味で捉えているだろうかと考えてみることも必要だと思う。「書く」という営為が孤独であることについて異論を持つものではないが『書かない』ということも営為のひとつの形ではある。ではこの『書かない』には何が含まれているのだろうか。「書けない」、「休筆したい」も『書かない』に含まれている。でも「書けない」に甘んじている者はもう一度自分自身を見つめ直してほしい。「書けない」ということを語ることは「書く」ということを語ることにならないだろうか。絶望とか虚無の中からも力を与えられた言葉は飛び出してくるのだから。

※写真はLouis-Ferdinand Céline
渓谷0年: 「累積」を読むこと
※このエントリィははてなGにおいて2007-10-07に書かれたものを転載した。

2007-11-02

「虚業」余聞


 私は先日自分の過去について触れたが、そのあとの挫折した生活のなれの果てにたどり着いたのは屍累々の凄まじい世界だった。余談になるが先日ある方とチャットで話していたのだが「はてな極悪ブロガー」の頂点に立っているのは実は南無さんではないでしょうか、と茶化されるほどである。多分そうなのだろうと思う。もっとも過去現在も含めて差し障りのない程度にしかブログ「南無の日記」では書いてない。でも先日も約束したとおり少しづつここでは書いてゆくつもりである。きわめて私的には近いのだが創作上の秘密というものが語られれば一番いいと思っている。

 私が書いていた自伝的小説「虚業シリーズ」が書かれ始めたのは今調べてみると2004年のことであった。その中で「虚業5」と題されたものはgooブログ「南無の事件帳」において2004年9月14日のプロローグから始まり3回のintermissionを挟みながら19回に分けて連載され2004年10月11日にエピローグを書いて終わっている。つまりほぼ毎日のように書かれたのである。また私の初めての中編領域のものであった。のちにその「虚業5」は「虚業」と名を変え編集し直されてC-Uにおいて2005年3月にアップロードされた。その間Vシネマで映画化の話が進み2005年5月にクランクインし編集、音楽、アフレコなどが終わったのがその年の9月も半ばのことであった。東京の撮影プロダクションから関係者用のプロト版が私の手元にビデオ・テープとして送られてきた。ビデオテープということで画面も荒く音質もモコッとしたものでしかなかった。そしてその後エンターテーメント性が薄いゆえかどうかは知らないが日の目を見ることなく殆どお蔵入りになっていた。ようやく今年7月にセルとレンタルの決定がされたようである。GPミュージアムの案内を見ていると確かに7月25日リリースとなっていた。ということは来月頃にはGPミュージアムの当該サイトで予告編も流されてゆくと云うことになる。映画会社に損をさせたような気がしないでもないが、これもリアル南無のつまらなさで勘弁してもらいたいとも思っている。
 当時その「虚業」を書き終えて私はこんな事を書いていた。
ようやく「虚業の5」を終える事が出来ました。長い間御愛読ありがとう御座いました。
 「列伝シリーズ」のなかでも虚業の章は人の運命の儚さと共に欲と銭、善と悪を意識して書かれています。私から見れば欲望の虜となった人間に善も悪もないだろうに、とは思います。所詮は妄想の中で生み出される物でしか有りません。だがそうやって人間のドラマは繰り返されるのであり、やがて老いて朽ち果てる時にそれに気づくに過ぎません。
 今回の「虚業の5」は私の経験したいくつかの事件が重なり合って描かれています。それぞれを別個に書く事も可能ではあると思いましたが、本質的な根底部分は全て同じであれば、よりフィクションに近づいた方が読みやすいだろうと思うからです。
(中略)
 なお下記に不必要と思われ本文で捨象された事柄を短く書いておきます。「虚業の5」についての元々の原稿は本文の3倍近くあったのが実情です(笑)。如何に短く伝えられるものかが全てでした。ですが表現力のない私にとってはこれが目一杯でした。また暴力シーンと性描写についてはそのほとんどを割愛しました。

 当時の一種の疲労感と共に何かひとつのことをようやく書き終えたという気持ちを表していたのだろうと思う。そして初めて言うが、今書き続けている「黄泉の男」はたぶん一旦アップから下ろされ、大幅な編集が加えられ、より長編の物語として生まれ変わると思っている。現在のところまでは原稿用紙にするとおよそ230枚程度にはなっているが当初から500枚程度を考えて書かれ始めたものである。キャパシティの問題と捉え直すとブログ向きではなく、紙化を目論んだ方がよいと思っている。そしてそれが実現されるべく黙々と書いてゆくつもりだ。
※写真は撮影の合間の風景である。『虚業』は映画化にあたり「闇金の帝王」と映画題が与えられた。
記:はてなGの「愚民の唄」2007年05月02日より転載した。
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なぜ私は今も書いているのか

 私は私自身をよく知っているつもりだ。そしてまた私は今最低の気分になっている。また私は私自身のことをここコンポラGで誰かにわかって欲しいというつもりも今となれば無くなった。心の奥底にしまってきたものを今後少しづつここに書いてゆくつもりだ。またここで書くことについては古くさいと言われようが狂人と言われようがどのような批判も受けてゆくつもりである。そしてこういう言辞で皆さんが共にやることが出来ないと思うならば去ってゆけば良しと思うようになってきている。こんな事は久しぶりに起きた心の現象である。また言っておくが、もともと退会はボタンひとつクリックすれば出来ることである。しかしそれを誰にも求めはしない。ただ私が責任者である以上私がそれをクリックすることだけは出来ない。またシステム上も出来ないようになっているのでみんなは安心して欲しい。
 さて、では始めよう。
 ぼくたちは「呪海」-創刊号-を刊行に至らせるまで一年以上の徒労を要した。これには物理的、経済的な制約があげられるが、このことは何も「呪海」に限ったことではなく様々な同人誌が等しく背負っている問題でもある。にもかかわらず一年あまりの時間は徒労に過ごされた。
 これにはぼくらが元来もっているところの誠実さと無知とが原因となった。「呪海」は文学を志す者すべてに門戸を開くという唯一の原則をもっているということから、、誰かまわずとぼくたちは接し、そのあげくが文学ゴロにひっかきまわされるというぼくたちの頓馬振りを示したのであった。誠実さが泣きをみるということが痛いほど身にしみた体験であった。そしてぼくたちはこのような甘えを造りあげている文学者共の正体をも一瞬、この時見たのであった。ぼくたちは断じて彼らゴロツキ共を許すわけにはいかないだろう。
 今となってはもはやぼくたちはただひたすらに書くのみである。書くことでのみ書く根拠を得ることができるという情況をを受けとめることでぼくたちは自立した表現行為をうちたてているのだ。
 -「呪海」創刊号編集後記より1970年10月-

 1969年に三人の男が同人誌の発刊を企てた。私は22才だった。詩を書く者がふたり、小説を目指す者がひとりであった。創刊号の編集後記は私が書いた。そして私はその後徐々に仕事の世界に埋没してゆき、私は他のメンバーも増えてきた頃の「5号」を最後に自分の才能の無さとそれに伴った書く意欲の喪失と共に深い敗北感に苛まれながら最低の人生を歩むこととなった。そして私の居ないあいだにも残りのメンバーで「呪海」は年一回というペースではあったが発刊され続けていき、私に送り続けられていた。1979年7月第10号が結果的には最終号となった。『結果的』という言葉を使ったのは編集を担当していた詩人御堂勝の自殺によって結果的に最終号となったのである。葬儀は先日もコンポラGのコメント欄で書いたように私が葬儀委員長であった。無論色々な関係から私の意志にかかわらず葬儀のとりまとめが出来る者が私しかいないと言うことが当時残った同人達によって決められたのである。そして彼の家族が列席も拒む最低の葬儀((結果的には私が懇願し夫人と娘を出席させることが出来た))を執り行った。今も悪夢のようにその時の模様が記憶の隅から消えることはない。また御堂勝は他の同人誌にも寄稿していてその関係者の方々も出席していた。そして葬儀後、遺稿集を出すという発言が大勢を占めそのことについて唯一後ろ向きであった私が弾劾されたのである。なぜ後ろ向きであったかという理由を私は死ぬまで書いたり言ったりすることはない。そして遺稿集は御堂勝が「あぽりあ」の同人も兼ねていたという関係で詩人坂井信夫達の手によって成された。その当時の詩人達の一部の動向は坂井信夫の「講演」などでも知ることが出来、御堂勝の「遺稿集」にも触れられているからみなさんも読んでみるのもいいだろう。御堂と私は詩を書く者と小説を書く者との違いがあったが喧嘩も絶えない兄弟のようでもあった。現に東京では半年近くも4畳半のボロアパートの一室で共に生活をしていた時期もある。そしてその当時、御堂からたくさんのことを私は学んでいた。一番学んだのは「言葉」であった。つまり言葉の重みであった。そして彼はその重たさゆえ自死を選んだのだと私は今も思っている。彼が死ぬ20日程前に電話がかかり私は何とか仕事の都合を片付けて東京へ深夜車を飛ばした。彼の言要のただならぬ気配で彼の住む板橋のマンションに向かったのである。だが在室であるに関わらず彼は私のためにドアを開けようとせず意味不明のことをドア越しに叫ぶだけであり私はドアの前で呆然と立ちつくすしか無く、翌日あきらめて北陸へ戻った。そして20日ほどしてから彼は首を括った。死に顔は決して美しくなく浅黒く醜くもあったが、だが私はそれが美しいと感じた。後で知ったことであったがその頃にはもう夫人や娘達は家を出て行ってしまっていて、御堂も一切の働きを止めたままであったということを知った。
 私はここで皆さんにこれらのことをわかって貰おうとは決して思いません。同人誌という古くさい言葉の意味と言葉の持つ重たさを知って欲しいだけなのだ。いかにも同人誌は古いとも言えるが意味もわからず皆さんに語られる事は今後一切拒否する。また、ここにいてさえ自分の書くことに意味を見つけられない者や、まやかしの言葉に奢る者はこのコンポラGからたった今去るべきである。どのみち、そのような者が書くものはその言以下でしかない。しかし書くことが唯一無二とまでは言わないが意味あるものと思う者は、うまいとか下手ということに関わらず今しばらく我々と一緒にやっていくべきである。それをCUが待っている。
 どうもコンポラGで書くという行為を勘違いして振る舞っている者もいるようだ。また「自由」とか非自由とかという言葉はどのような意味があるというのだ。id:akkyに聞くことがある。本質的な自由というものはどのようなものなのであろうか?自由が本質的に目指すところのものはいったい何なのであろうか。古い時代には、と言ってもフロイド的な時代のことだが自分の鎖は自分が作り出したところから鎖を見るという人間の潜在的な意識の有り様を分析して見せた。つまり鎖に縛られたと思うに至る己の幻想で鎖に縛られた人間を見せてくれたということになる。もしこれがきみの言う意味であればきみは類あるものとして凄く古い人種であるという証明になる。
 そうでないなら次に行こう。それから後の世は現象学を経て人間のもっと深い存在の有り様をサルトルは世界内存在として捉え、個人の自由は全的にも全ての人間が自由になることでしか果たせ得ないのではないかときわめてカント的に捉えた。ではこの自由のことなのか?
 違うのであれば更に言うがきみの自由とは何なのだ?どのような位相でここにその非自由さがあるというのだ。ではこちらからその位相に下がって言わせて貰うが自由とは「孤独」に決まっていることは小学生でさえ知っていることである。対他的関係の消滅する孤独というものこそ、その意味では自由であると言うことであって、ここにはいかなる拘束事項もない。孤独という自由が嫌であれば、いかなる自由が欲しいのだ。そしてまたきみが言うような孤独でない自由というものがあるのであろうか?そんなに非自由に書きたいのならば自らのブログへ戻り、いままで通り非自由な「メタブログ文章」を書けばよろしい。
 そして皆さんにもついでに言いたい、私にこれ以上何を言って貰いたいのだ。私が言いたいことはそれだけである。そしてCUの諸君、君たちはそこのところはよくわかっていると思う。そう思って私はフォーラムでぬーん氏が私にくれたメールの一部を公開したのだ。CU以外のコンポラGの皆さんのために抜粋だけ以下に転載しておく。
言葉の力とは何なのか。文学の使命とは何か。この古くさいテーマを今この時代に真剣に考えることが、いま僕らが直面している課題なのだと思っています。なぜならそれは少しも古くなく、いまもなお力を持つ問いであると僕は信じるからです。
  -ぬーん郵便より-

そしてまた、言葉は言葉によって復讐されるのだ。言葉の重たさとはそういうものであり、書くことに依ってしか視ることは出来ない。
おわりに御堂の「呪海」における最後の詩を以下に全文掲載する。
生殺し・・・・・・

攻めることもできず
守ることもできずに
きみはただじっとしているだけ・・・・・・
死ぬこともできず
殺すこともできずに
きみはただやっと生きてあるだけ・・・・・・
そして
きみはただとどまるだけ・・・・・・
そこにあるだけ

一本の線がつづいてある
それは
直線だったり
曲線だったりして
そこにあるそして
ここにいるきみの視角には入ることもなく
死角の方にきみをおいつめる死線
きみはそこで解放されることもなく・・・ ・・・

きみはよこたわる
よこたわることで仮の安息を得る
が きみの曲がりくねった列島は
四肢の隅々で
流れない時間の対流と
彎曲した空間の疲労を
いまここのマンションの入江に沈殿させる
生殺しの妄想と
歪曲されたきみの現実
ふみだす過程(プロセス)もなく・・・・・・

きみの階段はとぎれる そして
つかれた魚のように朝靄のなかを
浮遊する きみの歩行
一瞬 - バスを降りると
きみはそのままの姿勢で群衆の中にある
あきらかに光景は
夕刻時の立ち会い演説会であるというのに きみは
同致できない朝の空間を時代の方に引きずっている
いまここの時の段階(きざはし)に・・・・・・

攻めることも守ることもできず
きみがただみつめるだけの疲労
 - 関係はかんけい自体で
きみの昼と夜の活生が別たれている
いまここの彼岸
そして
小鳥たちの叫びの鋭(さき)の方で
匕首がはしる
生殺しの日々・・・・・・
きみの手の失業か

  -御堂勝(呪海10号1979年)-

記:はてなGの「愚民の唄」2007年04月28日より転載した

愚民的想像力


 人間はどうも逃れようもない幻想をもつように自らの手によって仕向けられている。そんな思いを抱きながら人生の晩年を迎えようとしている自分なのだが、べたにそうかと言えばそうでもないように思うのも人間である。意識の下降する状態に陥ってしまうひとつには抗いようもない死というものがあると云うことも挙げられるだろうし、たとえそれ自身が観念の中で自己完結させようとしても残滓みたいなものは残る。云うならばその残滓みたいなものからあらゆる人間の創造的な営為というものが生まれてくるのだろうと思う。たとえそれがなんの意味がなくとも当の本人にとっては意味も意義もあることに思えるわけだ。たぶん意味はあるのだろうが意義があるとは思えない。創造的思考に虜になった妄念は時間性の方に収斂され個を更に深化させ、そこからこぼれ落ちた雫みたいなものが空間性の方に投げ出される。その雫が幾つかの雫と交わり変容してゆくみたいなものとしてあるのだろう。現実界で妄想の虜になるのは人間が本来持っている自分自身の存在の不快から来るものであり、形なきものの有るかのごとき装われた擬態を見るからである。これは肉体を意識に拠ってしか受容できない人間の在り方から来ている。しかし、やがてそれをも意識されることない世界の存在に気づかされる時がくるのだ。もっともそれは不合理の思考の累積でしか到りつかない世界だ。「壮大なる無」は感覚界全てを取り去った世界である。つまり滓さえも存しない世界、無機でもなく有機でもなく意識の非存在の世界。観念をも消滅させる世界、一切合切が是全て無と云うべきもの、「もの」ではないもの。何ものをの意志さえない世界、幻化というべきものの完全なる世界、佛世界ではそれを捨象して涅槃と云う言葉を生み出した。しかしそれはある意味ではあらゆる整合性を超越したところにしか存在しない。宗教がもつ本来の所以である。その対極にはアフォリズムの果てに自我そのものを宇宙まで拡大して見せた埴谷雄高の「自同律の不快」という言葉。
やがてはその意識が意識できよう。
もしそれと名づけられるほどの意識が宇宙にあるとして。
このきらめく光の変容を瞬きもせずに眺めつづけているとして。
  「意識」-埴谷雄高『虚空』より-

 そんなことやあんなことを考えていた。くだらん、といえばクダラン妄想でしかないのだけど、そんな中でものを書いたりしている。
※写真は埴谷雄高。はにや ゆたか1910~1997。1910年に台湾の新竹に生まれる。戦後の形而上小説「死霊」(しれい)を書いた作家。
記:はてなGの「愚民の唄」2007年01月2日より転載した。
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