2007-12-22

イマージュの断片的メモ2

Jean-Paul SartreのL'IMAGINAIRE『想像力の問題-想像力の現象学的心理学-』に関する私的メモ2
 ここに至る前に、このメモで飛び越えてしまったところへサルトルの論究をバックさせる必要性がある。という理由で、かってにさせて貰う。メモとしては、以下に取りあげる内容の先には進んでいるのだが「ここははずせない」という事を思っているので、あえていったん戻ることにした。お粗末な私の思考レベルで申し訳ないが所詮は行ったり来たりするものだと思う。ついでといったらなんだが、いささか長い引用でなおかつ難解な部分があるかも知れないことを断っておく。サルトルは一つの方法として、わかりやすい正六面体を取りあげている。意識の志向する対象物としての正六面体。
※写真はアンリ・ベルクソン
 
■準観察quasi-observationの現象

 知覚のなかでは私は対象物を観察する。観察するというのは、その対象物が如何に全的に私の知覚の中に入ってくるとしても、同時にある一つの面以上は決して私にはあたえられないという意味である。正六面体の例がよく知られている。その六つの面を把握しない限りそれが正六面体であることを私は知り得ない。ところで厳密にいえば同時に三つの面を見ることは出来ても、決してそれ以上を見ることは出来ない。それで私はそれを逐次に把握せねばならない。その上、たとえばABC三面の把握からBCD三面の把握に移るとき、私が位置を変えている間にA面が消え失せるのではないかという可能性は常に残る。それで正六面体の実在とは常に概念をとどめることになろう。同時に、私が正六面体の三つの面を同時に見ている時も、この三つの面は決して正方形として示されることはない点に注意しなければならない。それらの線は伸び、角は鈍角になり、それでわたしは私の知覚に映じたものをもととしてそれらの正方形としての性質を再構成せねばならぬのだ。全て以上のことは百たびも語られた。知覚の特性とは、その中では対象物が側面の連続、射影の連続としてしか決して表れることがない点にある。正六面体はまさしく私の眼前にあり、私はそれにふれ、それを見ることが出来る。しかし私はそれをある一つの仕方でもってみるほかはなく、そしてその仕方そのものが無数の観点を同時に求め且つ疎外している。それで対象物は学習apprendreされる必要があり、すなわちその対象物について能うる限り数多くの観点をとってみる必要がある。対象物自体とはこれらすべての現れの総合である。それ故対象物の知覚とは無限の面をそなえた現象である。このことが私たちにとって意味するところは何であろうか。それは対象物を廻ってつぶさに検討すること、ベルグソンのいったように、《砂糖が溶ける》のをまつこと、の必要性を意味する。これに反して、私が正六面体を具体的概念にもとづいて思念(パンセ)する時、私は同時にその六つの側面と八つの角を憶い浮かべる。また私はその角が直角であり、側面が正方形であることも憶い浮かべる。わたしは私の抱く観念の中心にいて、観念を残る隈なく一挙に把握する。このことはもとより、私の観念が無限の進歩を通じて完成されることを必要としないといわんとするのではない。ただ、私は意識のただ一度の作用のうちに具体的な諸本質を思い浮かべることが出来、従って外見を補修したり、学習に年期を入れたりする必要はないのである。思念と知覚の間にある最も明白な差異とは恐らくこのようなものである。この故にこそ私たちは思念を知覚することも知覚を思念することも決して出来はしない。それは根本的に二つの現象に関わる問題だ。すなわち一方は、一挙にその対象物の中心に身を置く、己自身の意識的な識知であり、他方は、おもむろに学習に年期を入れる、無数の外見の総合的統一である。
 註 このような概念の存在は屡々否定された。しかしながら知覚とイマージュとは、イマージュなく言葉なき具体的識知の存在を前提としている。
 ところでイマージュについては何というべきであろうか。それは学習であろうか。それとも識知であろうか。まず、イマージュは知覚に《与する》ように見える点に注意しよう。イマージュにあっても知覚にあっても対象物は横顔、射影、つまりドイツ人が《Abschattungen》(射影)という都合のよい言葉で示すところのものを通じてあたえられる。

以下の※は訳注(平井啓之)より

※「砂糖が溶けるのをまつ云々・・・・・。」ベルグソンが『創造的進化』その他で用いている比喩。同書10頁には、「私が一杯の砂糖水を欲しいとき、私は砂糖が水に溶ける間、空しく手を束ねて待っていなければならない。するとこの待たれている間の時間は、私の持続の一部と符合し、しかもそれは思いのままに長くしたり約めたり出来ないものである。それは体験的なものとなり、絶対的な性質のものとなる・・・・・・』という意味の言葉があるが、サルトルはここでは、単に、知覚の世界における事物と意識の関係の表面的な比喩として使っているもののようである。
※Abschanttunagen 射影  フッサールの用語。知覚、或いはこれに類する意識においてそこに意識されたものが現出する仕方。例えば一つの事物の知覚は知覚されている事物を決して一挙に意識することが出来ない。必ず知覚される《側》をもつ。このあらわな側は一つの超越的な意味対象物に統一されると共に、無限な、しかし特定の連続をなすことを特質とする。この際かかる一面的現出そのことは体験である。一度体験となったものは最早それ自らは射影することはない。これに反して、切り取られるように意識に映ずるそのもの自体は体験の実的要素ではなく、それに超越的なものであると考えられる。

 サルトルはここで知覚の世界で捉える正六面体への意識内に於いての像の結び方の限界性を述べている。であれば対象物をその全体的なイマージュとして捉えることは経験や学習によるものなのかということになるのだが、勿論これも否定されるのである。

■《溢れ出る》という在り方
『このことから《事物》の世界には何か溢れ出るものが存在することになる。』

・・・・・イマージュにあっては識知は直接的である。私たちは今や、イマージュとは、より適確にいえば、表象的ともいうべき諸要素に、ある具体的でイマージュ化されていない識知を結びつける総合的作用であることを知る。イマージュとは学習されるものではない。それは学習される諸対象物と同様に精確に組織される。しかし実は、イマージュはその出現の当初からそのあるがままの全貌をあらわすのだ。


一つの対象物はある一定の個性なしに存在しうるものではないといわれることの真の意味はこれである。それは、《限りなく多くの他の事物と、限りなく多くの決定的関係を保つことなしに》(存在しえない)という意味だと解さるべきである。


一言にしていえば、知覚の対象物はたえず意識から溢れ出るものであるのに、イマージュの対象物はそれについて人が抱く意識以上のものであることは決してない。それはその意識によって限定されている。既に知られていないようなものは何一つ学習され得ない。

 さて、スキップさせた部分についてはこのあたりまでとしよう。では知覚と区別されたものとは何かへ進もう。

■自発性
『イマージュとはエタ(状態)、すなわち確固として不透明な意識の残滓、ではなく、一つの意識であることがまずわかる』
 さて、サルトルは、いよいよこの章の結論的な部分に向かっていく。イマージュとして捉える身体的な関係、というか、イマージュという対象を捉える意識の表象は静的な時間で捕らわれているのではない。時間の不連続性の中で意識の表象として”単純”に外化されているのでもない。従来のいわゆる”意識の一部”から能動的、自発性をもって発せられているものであれば、それはすなわち何ものなのか、そしてまた、どこから来るのか、と。

イマージュはそれ自体が独自sui generisの意識であり如何なる仕方に於いてもそれより広い意識の一部をなすことは出来ない。思念以外にも、徴験や感情や感覚やを、内蔵していると思われる意識のうちにイマージュがあるのではない。

以下の引用は長いが重要なところだ。

この想像的意識は、それが知覚の領域に己れの対象物を求め、その対象物を構成する感覚的な諸要素を思念する(狙う)という意味に於いて表象的と呼び得る。同時に、それはまた、知覚的意識が知覚された対象物に対してすると同じに己れの対象物に対して自らの方向を定める。一方それは自発性をもち創造性を備えている。それは己れの対象物の感覚的資質を一連の創造作用によって支え保つ。知覚にあっては、まさしく表象的な要素は意識の受動性に呼応するものである。しかしイマージュに於いては、この要素は、その第一のそして言葉に伝え難い資質によって、意識的能動性の産物であり、想像的意志の流れによって全体に亘って貫かれている。この点から必然的に、イマージュとしての対象物は人間がそれに関してもつ意識をいささかもはみ出るものではない、ということになる。以上の事実こそ私たちが準観察の現象と呼んだところのものである。或るイマージュについて漠然とした意識をもつことは、漠然としたイマージュについての意識をもつことだ。それ故今や私たちは一般的なイマージュ、不確定なイマージュはあり得ない、と宣言したバークレィやヒュームからは遙かに遠ざかった。そして私たちはワットやメッセルの実験における被験者たちと全く一致する。被験者の甲は云った。「私たちは何か翼に似たものを見た。」と。被験者の乙は男とも女とも見当のつかぬ顔を見る。被験者の甲は実は「人間の顔に近似したイマージュ、典型的で、個性的ではないイマージュ」をもったのである。

以下※は訳注(平井啓之)より

※ヒューム(Hume,David)(1711-1776)イギリスの代表的哲学者。印象と狭義の観念とを区別し、観念を印象の再認とみた。ヒュームによれば凡ては印象として知覚にあたえられる。この点で彼は存在とは被知覚なりとしたバークレィに似ているが、知覚と想像との区別をその強度と生気の差にあるとした。我々の認識するものは印象として個々の性質と観念の聯合関係であり、実体、因果性などの観念はいずれも心理的聯想による主観的なものである。特に観念聯合については、類似、接近、因果関係の三方則を認めて、聯想心理学の先駆者の一人となった。
※バークレィ(Brkeley,George)(1685-1753)イギリスの哲学者。ロック哲学における物的実体の形而上学的存在を感覚論的に否定して、物はただ知覚表象として、即ち観念として存するのみであるとして、《存在とは被知覚なり》とする主観的観念論をを打ち立てた。
※ワット(Watt,H.J.)メッセル(Messer,A.)共にヴュルツブルグ学派に属するドイツの心理学者。ヴュルツブルグ学派とは、20世紀のはじめにキュルペの指導のもとにドイツのヴュルツブルグ大学を中心として、思考、判断、意志、等の高等な精神過程についてはじめて実験的研究を行った一派をいう。前出のビューレル、フラッハ、の他、マルベ、オルト、アッハ、コフカ、ゼルツ、等がこれに属する。ワットは連想反応実験を行い、メッセルはビューレルと共に質問法によって思考過程に存する特殊な非直観的内容の存在を指摘した。


 『その対象物の血肉がイマージュの場合と知覚の場合とでは同じでないということだ。』と云うサルトルの言葉がこの章の結論みたいなものである。そして静的力学からさらなる疑問へと旅立つのだ。つまり、ピエールを例にとるならば次のサルトルの言葉は示唆的である。『すなわち、何故に、また如何にして心象的意識conscience imageeは昨年パリに暮らしていたピエールを通してベルリンのピエールを思念する(狙う)のであるか。』と。
 さて、論の設定の入り口に立った訳なのだが、一度簡単に振り返るとしよう。『想像力の問題』においてサルトルはそのテーマの論究にあたって意識領域の中に一つの奥まった”意識”を仮定した。そしてその論拠を過去の”遺産”を批判的に論究したうえ『想像的意識』なるものの存在を我々に知らしめた。知覚作用のように見えながら、知覚とは全く区別されたあるものの存在がイマージュを創造すると言ったのである。つまり従来の古典的哲学者や科学者たちと異質な全く違う意識の存在を彼は言いはなったのである。そしてこれは彼の論の始まりであり、始まるが故に途中途中の論が彼自身の模索する姿と重なっていくのである。私は『想像力の問題』が様々な魅力に取り囲まれていると最初に言ったかと思うが、魅力や誘いがあると言うことはそれがそれ自身を止揚することとは別に、異なった時間と空間に”在る”私の視点と差異は出てくるはずである。またそうであるべきなのだ。つまりデカルト的に云うならば私とサルトルという”対比”は私はサルトルではない、従ってサルトルは私ではないという自明の認識があることは云うまでもないことである。この識別は重要である。私の反省的意識はサルトルを捉えサルトルを識知する事になっていくからだ。つまりわたしは私であるという認知の上で私は進むことになるからである。そもそも『想像力の問題』に惹かれるのは私自身が「表現」という問題を根底に抱えているからなのである。なにゆえこのような表現がなされるのかと言うことから始まる。つまり、なにゆえこのような映像表現がなされるのか、なにゆえこのような音楽表現がなされるのか、等々である。私にとっては表現の問題としての『想像力の問題』でしかないからである。そのためには医学でも現象学でも物理学でも構わないのである。前置きはこの辺にして前に進んでみよう。
※写真はサルトル

■類同代理物(アナロゴン)analogon

私は友人のピエールの顔を思い浮かべたいと望む。私はある努力をしてピエールの像的(イマージュ)意識を生ぜしめる。その時対象物はきわめて不完全にしか到達されていない。いくつかの細部は欠けているし、他の幾つかは疑わしいし、全体が暈かされている。或る共感的で快適な感情があって、それを私は彼の面影を前にしてよみがえらせたく思ったのだが、それは立返ってこなかったのだ。それでも私は自分の企てに諦めはつけず、立上がって抽出しから写真を取出す。それはピエールの見事な肖像写真であり、私はそこにピエールの顔のあらゆる細部を隈なく見出すし、その中には、それまで私が気がつかなかったようなものさえ幾つかある。しかしながら写真には生命が欠けている。それは完璧に、ピエールの顔の外部的特徴をあたえてはいる。だがその表情をつたえてはいない。たまたま私はある腕のいい画家がピエールを描いた戯画をもっている。今度は顔の各部部分の相互間の割合がことさら歪められており、鼻はあまりに長くなり、咽喉仏はあまりにも飛び出し過ぎている、etcといった工合だ。それにも拘わらず、写真には欠けていた何ものか、つまり生命、或いは表情、がこのデッサンの上には明らかにあらわれており、私はピエールを《発見》する。・・・・・。私はピエールの顔を知覚の領域に出現せしめたいと望むのであり、つまりそれを《現前せしめ》たいと望むのである。それに、私はその知覚を直接に出現せしめることは出来ないので、私は類同代理物analogonとして、知覚の等価物として働く何らかの素材を利用するのだ。

 『想像力の問題』の二での入り口のさわりの部分である。いよいよ。イマージュのイマージュたる部分にわけ入ることになる。

■類同的代理者representant analogique

私たちは、対象物はその場になく、その不在性を措定するのだと仮定した。しかしまたその非在性inexistenceを措定することも出来る。物的代理者たる、デュラーの版画の背後にあって、騎士と死神とは私にとって立派な対象物である。しかしこの場合には、私はそれらの対象物の不在性ではなく、非在性を措定する。このようなあたらしい対象物の部類に、私たちは虚構物の名を冠するのであるが、それは私たちがたった今考求したばかりの部類、版画や戯画、心的イマージュ、等の部類と並行して存在する部類のものを含んでいる。
結局イマージュとは、対象物の《類同的代理者》representant analogiqueとしての資格であらわれて、そのもの自体としてはあらわれない物的、或いは、心的な内容を通して、不在、或いは、非在の対象物を思念する《狙う》作用である、といい得るであろう。・・・・。
心的イマージュだけを切離して研究することは出来ないだろう。イマージュの世界と対象物の世界が別々に存在するわけではない。すべてての対象物は、外的知覚を通じてあらわれようと、内的感覚にあらわれようと、選ばれた照合の中心が奈辺にあるかにしたがって、現存的実在物として、或るいはイマージュとして、機能を果たし得る。二つの世界、想像界と現実界とは、同じ対象物で構成されている。ただこれらの対象物の類別と解釈とが変化するのだ。想像の世界をも現実の世界をも定義づけるものは、共に意識の態度である。

 サルトルはここで「心的イマージュ」という言葉を使い内的感覚を置き換えている。そして像(イマージュ)が《浮かぶ》とはそれぞれのケースの場合、どうであるのかに言及してゆく。肖像画、図式的絵図、舞台で唄う歌い手を眺める、炎の中の人間の顔を認める、眼球内光感にもとづいて構成される就寝時イマージュ、等々に論は進んでゆく。

■記号と肖像

1 記号の素材は意味される対象物に対して、全く何であろうとかまわない。《事務室》という文字、白い紙片の上の黒い線、と、単に物的であるのみならず、また社会的な意味をももつ複雑な対象物たる現実の《事務室》との間には如何なる関係もない。その因果関係の起こりは約束事である。ついでその関係は習慣によって強化される。文字が知覚されるや否や、意識のある一態度を動機づける習慣の力なくしては、《事務室》と云う言葉は決してその対象物を喚起するにはいたらぬことであろう。ところで物的心象とその対象物でとの間に存する関係は全く別だ。それらはお互いに似通っている。ところで似通っているとは一体どういうことであるのか。私たちがある肖像写真を眺める時、私たちのイマージュの素材とは、より単純な場合としてつい先刻私たちが話した、単なる線や色彩の錯綜ではない。それは、実は、準顔貌etc、をそなえた準人物、である。・・・。

 ここでの論究は私にとっては重要な触りになるかと思う。もとより論はこうでなくてはならないのではある。水も漏らさず進めるという事が必要なのである。しかし水は漏れていないものなのか?イマージュの構造にとっての「文字」は重要である。サルトルは「記号」として単純にこれから語っていくわけではない事は間違いないのであるが、文字イコール記号としての始まり方には若干抵抗を感じざるを得ない。論の設定からして仕方がないのかも知れないが、どうしても私は言語構造の認識にこだわりをもってしまう。今のところは巧く言えないのだが、『文字が知覚されるや否や、意識のある一態度を動機づける習慣の力なくしては、』という部分に於いての【習慣の力】という表現にも少し違和感がある。果たしてそれは【習慣の力】なのであろうか?と。また、『その因果関係の起こりは約束事である。』としているのだが、そうなのか?と。こんな事を言っているようでは先が思いやられるのだけども”蛇足”だな。さて、更に、さて、どうやらこのあたりがどうも自分を含めて怪しくなるが進めてみよう。
 サルトルはルーアンの美術館での巨大な絵画を例にとりながら人間に似せて作られた絵画を見ることの想像力の構造をピエールを使って以下のように言う。

絵画は対象物であることをやめて、イマージュの素材として機能を発揮する。ピエールを知覚しようとする願いは消え失せたわけではなく、それは像的総合の中に入ったのである。実をいえば、《類同代理物(アナロゴン)》としての機能を果たすものはこの願いであり、この願いを通して私の志向はピエールの上に向かう。私は心に独言をいう、-「成程、たしかに、ピエールはこんな風だ、彼はこの眉、この微笑をもっている。」かくて私が知覚する一切は、その場に居合わせない生きている存在、真物のピエール、を思念する(狙う)射影的な心的総合の中に入ってくる。

 ここまでは何ら違和感はないのだが、足踏みをさせる論究がこれから始まろうとする。

2 意味の世界では、文字は標桿に過ぎない。文字があらわれ、意味を眼醒めさせ、そしてこの意味はふたたび文字の上に立ちかえることはなく、意味は事物の上に赴き、文字を振り落としてしまう。これに反して、心的な基盤を有するイマージュの場合には、志向性は絶えずその肖像画的像の方へ立ちかえる。私たちはその肖像の前に身を置き、それを観察する。ピエールについての想像的意識は絶えずゆたかになる。新しい細部が絶えずその対象物に附加される。

 絵画については確かにそうである。しかし文字は単なる記号なのではないからして「意味の世界」として捨象されうるものなのかどうかではある。文字を読むことによる想像力の喚起についてはまだここに一言も書いていないようである。これからくねくねとするようなので先にサルトルの論を進めよう。サルトルの先にある論考の前にどうしてもやはりここは押さえておく必要が感じられるのでここで少々バックするとにする。
 では再び『記号と肖像』における論について戻り続けることにしよう。「事務室」という文字について振り返ることになるが、いかにも物的には紙の上に存在するインクである。そしてそれを読み取るには習慣的な力が働くとサルトルはのべている。しかし読み手はインクであるという物を逆に捨象していわば意味的な了解をする。敢えて言わせて貰えれば意味的な物を超越したところに於いて空間的了解性として時間的に意識にむかうものがあるのではないかという疑問が残る。習慣の力とはとりもなおさず歴史の累積性を辿らずして行き着くことが出来ないはずである。つまりこのサルトルの捉え方にはここでもって唯物的としか云えないものを感ずるのだ。面倒ではあるが、おそらくはもう一つ迂回しなければサルトルの論は成り立ちえないようにも思えるのだ。なるほどルーアンの美術館での巨大な絵画はあらゆる想像力に訴えかけてくる。「表現された」絵画としてである。では事務室と書いてある文字はいわゆる想像的意識に反映する像領域が絵画とは全く違い記号として捉えられているのか、と。文字は文字であることによって表現された言語空間を獲得しているはずだからだ。言葉を変えてみようか。サルトルは云う「私がフロレンスの美術館で、シャルル八世の肖像を眺めるとする。」から始まるところの論理には『シャルル八世」という肖像画から、つまり像的、きわめて像的に一種の画から来るイマージュの構造に焦点を当てているが文字から喚起される内的意識の表象には触れていない。言葉を記号として捉え習慣の力によって意味に辿り着くサルトルの論にとっては表現された言語であるところの側面を捨象しているのだ。こう私が言うのも意識の空間性に於いて事務室は記号とかたずけれないようにシャルル八世も文字的空間性があるからに他ならない。そして肖像画という意識に働きかける像的了解性に到る時間性というべきものがあるはずなのだ。表現された言語から像領域に到達するにはもう一つの準備が必要であろうと思われるのである。どうも本当にまどろっこしくなってきたようではある。やはり先に進むしかないようだ。私の説明不足もあるかも知れないので、サルトルの言う「記号」について誤解の無いようにもう少し立ち入ってみよう。なるほどサルトルは確かに記号である文字の認識についての時間性の辿り方は精緻ではある。記号を認識する構造については一部を除けば確かにサルトルの言う通りである。しかし、決して落としているとは言わないが、想像的意識の存在という原点に立ち返ったときに「内的言語」の仕組みをサルトルは現在の所、以下のようにしか進めない。もっとも、今のところ、で、ある。先が楽しみではあるが。

しかしまた、ここに、同じ性質のものだと思われる現象がある。私は、停車場の入口の真上に釘づけにされた張札の上に記された黒い太い線に近づく。するとこの黒い線は突然それに個有の諸次元、色、場所、をもつことを止める。それは今や《次長室》という文字を構成している。私は張札の上にこれらの文字を読み、今や異議を申し立てるためにはこの中に入らねばならないことを知る。私はその文字を理解し、《判読した》ということになる。しかしこのようないい方は絶対的に精確ではない。これらの黒い線をもとにして私がそれらの文字を創り出したのだといった方がよいであろう。これらの線はもはや私には用はない。私はもはやそれらの線を知覚しはしない。事実は、それらの線を通じて、他の対象物を思念する(狙う)意識の或る一態度をとったのである。その対象物とは、すなわち、私が其所に用事をもつ事務室である。それは線のところにはないが、しかしその記銘のおかげで、私は対象物を逸することがない。私はその対象物を位置づけ、それに関する識知を得る。私の志向が向けられる素材は、この志向によって変形させられて、私の現在の態度の渾然たる一部をなすにいたる。それは私の作用の素材であり、すなわち記号である。記号の場合にもイマージュの場合と同様に、私たちは、ある対象物を思念する《狙う》志向と、その志向が変形させる素材と、その場にない思念された《狙われた》対象物、とをもつ。

※内的言語langage interieur 心理学の用語としては内語ともいう。実際の発声運動は伴わないが、心の中でとなえる言葉。黙読の際等に体験される。多くの人は思考するときに内語を伴うが、この時、咽喉に緊張を感ずるというものもある。言語表象ともいわれる。さらに『記号と肖像』の内的言語に触れていく部分に進めよう。

ところが肖像的イマージュの場合には、問題がはるかに複雑になる。一方に於いて、ピエールはその肖像から千里も離れたところにいることもあり得る(もしそれが歴史的人物の肖像である場合には、その本人はおそらく死んでしまっていることであろう)。そして私たちが思念する(狙う)のはまさしくこの《私たちから千里も離れた対象物》なのである。ところが、他方、一切の物的性質は、其所、私たちの眼前にある。対象物は不在と措定されるが、その印象は現在のものである。そこには非合理的で説明するのに困難な心的総合が見られる。

 想像力は非在性inexistenceを措定するという現象は言葉を変えて何度も現れてくる。そしてこの事は我々が日常生活に於いて無意識に受け入れている現象でもある。しかし私たちはこのようにサルトルの論を考えてみると意識の未知領域の仕組みまでは理解しているとは言い難い。私なりにヘーゲルの「現象学」の緻密さを想起させたりしながらも、ここでまさしくなにかが解き明かされてくるのだという期待感を持ち始めてしまうのだ。言うまでもなく思惟という概念を考える上での知覚の現象とはなにか、である。そしてサルトルは既知の如く無神論者である。さて更に「記号と肖像」に進んでみよう。

・・・私はそれがシャルル八世、すなわち死んだ人の肖像であることを知っている。その死んだ人の肖像であるということの意味が私の現在の全ての態度に影響する。・・・つまり、一方では、久しい以前に塵となってしまっている、現実にあった唇の方へ向かい、そのことのみによって意味をもつ。しかし、また一方、その唇は私の感受性に直接働きかける、なぜならそれは絵というものの実物と見まがうばかりであり、画面の彩色された斑点は、額のように、また唇のように、目に映ずるからである。最後にこの二つの機能は融け合って、私たちは像的状態をもつことになり、すなわち、死んだシャルル八世が、そこに、つまり私たちの前に現存することになる。そのとき私たちが見るのはシャルル八世であり、絵画ではないのであるが、しかも一方、私たちは彼を其所にいないものとして措定している。私たちはただ《イマージュとしての》シャルル八世に、絵画の《仲介を通して》達するのみである。このように、意識が、想像的態度の裡に、肖像と本人との間に措定する関係はまさしく魔術的なものであることが判るだろう。

 知覚を超越した想像的意識へ、非存在を確かに見るという現象をここでサルトルは言っているのである。そして更に非存在の「存在」の意識の捉え方に進んでいく。

シャルル八世は同時に彼岸、過去の裡、にも、またこの世にもいる。この世では、多くの決定因(立体感、動性、時には色彩、etc)を欠いた、テンポの鈍った生命の状態で、且つ相対的なものとして。また、彼岸に於いては、絶対的なものとして。私たちは、非反省的意識の裡では、一人の画家がこの肖像画を描いたのだ、etcといったことは考えない。イマージュとそのモデルの間に措定された第一の絆は流出の絆である。元の本人が存在論的優位性を担う。しかしそれは化身して、天降ってイマージュにやどる。これこそ、己の絵像を前にした原始人の態度やある種の魔法(針で突いての蝋人形、狩猟の獲物が多いようにと壁に描かれた傷ついた野牛の像、)を説明するものである。

 どうやら絵画のもつイマージュの領域に入り込んできたようである。わくわくではないか。

私の現在の意識の中での絵の機能を発き出すものは反省的意識である。この反省的意識にとっては、ピエールと絵は二つのものに別れ、はっきり二つに分かれた対象物となる。しかし想像的意識態度にあっては、絵とは、ピエールが、私に対して不在のものとして現れるひとつの仕方に他ならない。このようにして絵は、ピエールその人はその場に存在しないとはいえ、やはりピエールその人をあたえる。

 つまり二つの差異の識別がおこなわれていることをいっている。

ところがこれに反して、記号はその対象物をあたえはしない。記号は空虚な志向によって記号として構成される。このことから、本来空虚なものである意味的意識が、その身を損なうことなく充足されることになる。私がピエールの姿を見ていて、そして誰かが「あれはピエールだよ」といったとする。すると私は、心的総合作用によってピエールという記号をピエールという知覚に結びつける。ところが像(イマージュ)の意識はそれなりに既に充足している。もしもピエールその人が姿を現せば、ピエールについてのイマージュの意識は失せる。

 ここは微妙な所になるかも知れない。ピエールという言葉の意味性に導かれて実物を見る(像として充足してしまっているという意か)という前提なのだが、平たく云えばイマージュの意識は実物を前にするとイマージュの意識が無くなるということである。では、絵や写真を除いた場合で、充足している像が無い段階で記号としてのピエールは空虚のままで意味するも像も描けないのかということにもなる。まだまだ先を読んでみないと不明ではあるがピエールという文字、すなわち記号は何を喚起するのか、要するにここパリにいて何故ベルリンにいるピエールを見ることが出来るのかというサルトルの言とまた繋がってくるのだと思う。少し先へ進んでみよう。

けれども、意識が写真の対象物をそのようなものとして措定するためには、それがただ存在するだけで充分なのだと考えてはならないだろう。対象物が存在するものとして措定されないような想像的意識の型や、また、対象物が非存在のものとして措定される別の型、があるということが判っている。このような異なった型の意識については、上に述べた記述をたいした変改も加えることなしにくりかえせば済むであろう。ただその場合意識の措定的性格が変わる。しかし措定の種々の型を区別するものは、志向の定立的性格であって、対象物の存在或いは非存在ではない、という事実は、強調されねばならない。たとえば、私はたしかにサントール(半獣人)を存在するものとして(但し不在のものとして)措定することは出来る。これに反して、新聞写真を眺める場合にも、その写真が《何一つ私に語りかけない》ことも当然あり得る。それはすなわち私がその写真を存在の措定を行うことなしに眺めている、ということである。その時私が見た写真の当人である人物達はたしかにその写真を通して到達せられたわけであるが、しかし存在としての措定を受けておらず、それは恰も、「騎士」と「死神」とデュラーの版画を通して到達されはするが、しかも私はそれを措定しない事情と同断である。

 こういった体験はよくあることである。何気なくテレビを見ている時もそうだといえる。或いは本を読んでいても引き込まれないような部分は読んでいるのではなく見ているだけ、という現象と同じだと思う。つまり印象にも残っていないということを指すのだと思われる。このことをサルトルは更に以下のように書いている。

・・・、何らの特有の志向性を享けていない。それらの人物たちは、知覚の岸辺、記号のそれ、更にイマージュのそれ、の間にただよっていて、その中の何れにも近寄ろうとはしない。

 そういうこと。そして「記号と肖像」は次の言葉で閉じられる。

これに反して、ある写真を前にして私たちが心に生じしめる、想像的意識はひとつの作用であり、この作用は己れ自身についての非定立的意識を自発性として包含している。その場合、いわば、私たちはその写真を活かしめて、それをイマージュたらしめるために生命を貸しあたえる意識をもつ。

 想像的意識は作用であり、思念であり志向性がないところに像は結ばれないということに他ならない。
続く
この稿は2004-08-11、2004-08-14、2004-08-19、2004-08-21、2004-08-30、2004-09-04、2004-09-05、2004-09-25、2004-11-16にはてなダイアリに於いて書かれたものを再編転載しました。

2007-12-21

イマージュの断片的メモ1

Jean-Paul SartreのL'IMAGINAIRE『想像力の問題-想像力の現象学的心理学-』に関する私的メモ1

 写真は前列がサルトル、カミュ、レリス。ジャック・ラカン、セシル・エリュアール、ピカソ、ボーヴォワール、他。



 前置き参照文(●印)として以下を最初に記しておいた。今後書き足される場合もあり得ると思うのだが・・・。とにかく前が見えないので試行錯誤をしていくと云うことについては理解していただきたい。そして残念ながら所詮興味の引かれることにしか自分の意志は向かわないということも最初にお断りしておきます。

●Jean-Paul Sartre1905→1980パリに生まれる。サルトルは現象学の志向性概念を脱自・無化の視点から解釈しながら、「無神論的実存主義者」として出発した。そして、フッサール、ハイデッガー、ヘーゲルの思想の影響下で対自と即自の相克を主題とする独自の現象学的存在論『存在と無』を公刊、・・・。
-【鷲田清一】-
●想像力は、一般に、「対象が現前していなくてもそれを直観的に表象しうる能力」と定義される。つまりそれは、感覚的に与えられていない事象(現に存在しないもの)を想い浮かべる能力を意味している。想像力はしたがって、伝統的に、一方では、実存している現実世界に対比される虚構の空想世界を定立していく創造的=制作的能力(「あたかも・・・・・・のように」という意識)として、他方では、(それはいつも現前から離脱していくのであるから)認識における誤謬の原因として、論じられることが多かった。これに対して現代の想像力論に特徴的なのは、想像的なものが、現実的なものに対置されるという仕方ではなく、むしろ、現実的なものの構成そのものを、さらには世界の出現そのものを媒介するものとして、主題化されるようになったということである。それはまず、世界の現れを〈解釈〉のプロセスとして捉える広い意味での現象学的=解釈学的な発想の中に見出される。対象は、あるいはその全体としての世界は、一般に、そのつど感覚的に現前している以上のものとして現れるのであり、その限りで対象的世界の存立は、そのつど現前を越えでて、それを何かとして捉えなおす想像的な意識の運動によって媒介されていると考えられる。・・・。
-【鷲田清一】-
●ジャン・ポール・サルトルには《想像力》の問題を扱った二冊の哲学的著書がある。《L'imagination》『想像力』及び《L'imaginaire》『想像上のもの』(すなわち本書であり、意訳して『想像力の問題』とした)がそれで前者は1936年、後者は1940年に出版されている。・・・。
-昭和29年12月7日ガリマール版翻訳者【平井啓之】-

 個人的なことに過ぎないが、『想像力の問題』という書物は様々な誘惑が潜んでいて興味深い1冊である。前置きはこのくらいにしてmemoを進めてみようと思う。

■イマージュの志向的構造

この著作は意識の《非現実化》する偉大な機能、すなわち《想像力》とそのノエマ的な相関者である想像界のことを記述するのを目的としている。
-第一部 確実な事象(からの序文)-

 ここでサルトルは意識の一部にあるというところの想像力がつき動かす想像界、つまりイマージュの意識、知覚的意識について論が進むことを宣言している。また「ノエマ」の概念については谷 徹が『表現と直接経験』において以下のように書いている。

ノエマは、現象学的還元をほぼ確立して以後のフッサールの主著である『イデーンⅠ』の中心概念の一つである。諸現出と一体的に捉えられたかぎりでの現出者のことである。
-表現と直接経験-谷 徹

 これについては別記において取り扱う必要があるかと思うのだが、基本的な概念として当時既にあるものとみなしてメモを進める。ちと、強引かも知れぬがいたらぬ点は追々追加していくしかないと思う。

■イマージュは一つの意識である

 私が椅子を知覚するとき、その椅子が私の知覚のうちにあるといえば馬鹿げていよう。私たちが採用した用語に従っていえば、私の知覚とは或る一つの意識であり、椅子とはこの意識の対象物である。今、私は目を閉じ、私がたった今知覚したばかりの椅子のイマージュを心の中に産み出す。その椅子はイマージュとして与えられた今も、それ迄よりも余計に意識のうちへ入り込むことは出来ぬであろう。椅子のイマージュは椅子ではないし、椅子ではあり得ない。実は、私が座っているこの藁椅子を私が知覚するにせよ想像するにせよ、それは常に意識の外にとどまっている。この二つの場合ともに、椅子は、そこ、空間のうち、この部屋の中に、机に面して、存在している。ところで、-とりわけそのことは、反省が私たちに教えることなのだが-私がこの椅子を知覚するにせよ想像するにせよ私の知覚の対象物と私のイマージュの対象物とは同じもの、すなわち、私がそれに腰をかけているこの椅子なのだ。ただ、意識はこの同じ椅子と二つの異なった仕方で関係するのである。二つの場合ともに意識は、椅子を具象的な個性と身体性をそなえた姿で思念する。ただ、知覚する場合には、椅子は意識によって《出逢われる》のに、想像する場合には、そのようなことはない。しかし、いずれにしても椅子は意識のうちにはない。イマージュとしてすら意識のうちにはないのだ。それは、突然意識のうちに貫入して、実在する椅子とは《本質外》の関係しかもたぬような、椅子の幻影の問題ではない。意識のある一つの型、すなわち実在する椅子と直接に関係をもつ総合的心的組織の問題であり、その心的組織の本質とは、まさに、甲なり乙なりの仕方で実在する椅子と関係をもつ点に存する。
 イマージュとはただしくは一体何ものであろうか。あきらかにそれは椅子ではない。一般に、イマージュの対象物はそれ自身のイマージュではない。それなら、イマ-ジュとは全体的な総合的組織、すなわち、意識である、というべきであろうか。しかし、その意識とは現存的且つ具体的なユヌ・ナチュールであり、それは、即自的、対自的に存在し、つねに媒介者なしに反省に身を委ね得るものなのだ。それで、イマージュという言葉は意識の対象物への関係のみを示すものであり、別の言い方でいえば、対象物が意識にあらわれるその仕方であり、あるいはまた、もしおのぞみなら、意識の対象物を自らあたえられるその仕方である。といってもよいであろう。実の所、心的イマージュという表現は混乱を招き易い。むしろ、《イマージュ-としての-ピエールの意識》とか《ピエール(についいて)の想像的意識》とかいった方がよいであろう。《イマージュ》なる言葉はそれ自身役立つ領域が広いので、私たちはそれを全然棄てて了うわけには行かない。しかし、一切のあいまいを避けるために、私たちはここで、イマージュとは関係に他ならぬことを想起しよう。私がピエールについてもつ想像的意識とはピエールのイマージュの意識ではない。ピエールは直接に到達せられるのであり、私の注意力はイマージュの上でなしに対象物の上に向けられる。

 大変長い引用になって申し訳ないのだが、出発点なので仕方がない。ここでイマージュ=像であり、ユヌ・ナチュール=一実体をさしています。独特の翻訳文なので難解さがつきまとうと思われるかも知れないが、意外と平易に理解すればよいのではないかと思う。意識の中の意識の存在の想定をここでしていると思えばよいだろう。ここで重要な言葉としては「想像的意識」という概念であろうと思われる。想像的意識-(視覚反映時における意識のもう一つの意識)については埴谷雄高の「意識」における眼球実験を捉えた小説も参考になるであろう。埴谷雄高については私の拙い過去記事「想像力の涯にみるもの」が参考になればさいわいである。とは言うものの読み進めば読み進むほど難解であることには違いがありません。ここでは取り上げることがないようにしますがいずれにしてもサルトルは『想像力の問題』を書き終え1942年『存在と無』を発表するわけですのでこの著作そのものが重要なモチーフになっているはずです。つまるところはハイデッガーのいうところの「世界内存在」(In-der- Welt-sein)と云う人間存在の規定に触れていくことにもなります。仏語でサルトルは世界内存在を〈etre dans le monde〉という表現で書いています。人間存在の基礎構造のありようがこの『想像力の問題』の行き着く先のはずであろうと思われるからです。
※写真はマルティン・ハイデッガー

●「ノエマ的」
ノエマとはもとギリシャ語のNoema。現象学において特殊な意味をもつ。即ち意識は作用の側面(ノエシス)と共に対象の側面をもつが、フッサールはこれはノエマ的内実(Noematischer Gehalt)またはノエマと呼ぶ。ノエマは具体的経験の中にあって核としての意味及び核の周囲に種々なる性格の層をもつ。ノエマは意識に内在的な要素であるが、実的ではなくてイデェール(ideel)である。ノエマはそれ自身の中に意味を蔵することによってそれ自身対象的である。ノエマは志向せられる超越体であり、ノエシス、又は意味賦与意識によって「先験的に構成せられたもの」である。意識の作用はこの志向される超越体であるノエマと、志向するノエシスの具体的な相関関係のうちに行われる。
-訳 註(平井啓之)-
●まず、マッハに戻ろう。マッハはマッハ的光景をパースペクテイヴ(遠近法)的に描き出した。遠近法においては、たとえば机は「平行四辺形」や「台形」に描かれる。しかし、私たちは、机を平行四辺形や台形だと見ているわけではなく、「長方形」だとみている。これをフッサールは以下のように論じる。私たちは、平行四辺形を「感覚」しているが、それを突破して、長方形を「知覚」している。あるいは、平行四辺形を「体験」しているが、それを突破して、その向こうに長方形を知覚・経験している。あるいはこう言ってもよいだろう。私たちは、「現出」の感覚・体験を突破して、その向こうに「現出者」を知覚・経験しているのである。
-谷 徹(現出者の知覚・経験と、現出の感覚・体験)-
●サルトルによれば、それは、かれ自身もこちらを見返して、この私を対象化しうる他の対自、他の意識主観たるところにあるのである。そこで、サルトルは他人を〈まなざし〉regardと定義する。たとえば、われわれは、自分が他人に見られている。まなざされていると気づいたとき、〈はずかしさ〉を感ずるが、このはずかしさの意識こそ他人の存在の明証なのであり、同時に自分が他人の意識の対象になっていることの意識、〈対他存在〉としての私の意識なのである。
-言語と社会(木田 元)-

※前提のための前提メモ
『意識はこの同じ椅子と二つの異なった仕方で関係するのである。』-イマージュは一つの意識である(既出)-
 メモ1において取り上げている意識の型の現象学的構造は『存在と無』にいたると対自としての自己意識であり即自としては自分以外の何ものかネアンとしての対象をかたちづくる”意識”として捉えられている。また、『世界内存在』をetre au mondeと呼びサルトルとは少し違った時点で捉えていたメルロ=ポンテイは物の感覚を知覚の次元つまり身体の運動によって開示されうるとし、身体を知覚能力の定位する場と設定し知覚能力と身体の間に取り交わされる関係の反省的意識に考察の目を向けた。1945年に発表した『知覚の現象学』においての身体から現出する形態化作用としての〈幻影肢〉の論究は興味深い物がある。またマッハ(Ernst Mach)が1886年に発表した『感覚の分析のために』をフッサールは根元的着想として止揚し乗り越えた。現象学を現象学たり得る学問に飛躍的に進めたことは知られている。マッハがいうところの「図」(自分の左目を通して見えた眼による世界イマージ)は全くの主観的イメージであるからから客観性がない、というところから、つまり「主観的」であるというイメージであるが故に見えていない世界イメージに変換されうるという「客観性」をもつ前提イマージと捉えれるということを示唆している。なかなか前に進むことが出来ないばかりか進んでは一歩後退気味な様な気がするのであるが、しぶとく潰していく作業に入るしかありません。少しはなにかがおぼろげになってきた様な気がする。ま、いくところまでいこうと思う。
※写真はエルンスト・マッハ

■想像的意識はその対象物をネアンとして措定する。

一切の意識は何ものかの意識である。非反省的意識は意識にとって異質の対象物を思念する(狙う)。たとえば、一本の樹木の想像的意識は、樹木、すなわち本来意識の外部にある一物体を思念する。意識は己れ自身をでて、己れを超越する。


私たちは想像的意識が己れ自身についての内在的で否定率的意識を有しているといいたい


イマージュとしての樹木の超越的意識は樹木を措定する。しかし、それは樹木をイマージュとして措定するのであり、つまり知覚的意識の仕方とは異なった仕方でそうするのである。


想像的意識の志向的対象物は、それが其の場に居合わさずそれで其の場にいないものとして措定されるか、或いはまたそれは存在せず従って非存在なものとして措定されるか、或いはまったく措定されないか、以上の何れかであるという特性を具えている。

 この辺のところはそんなに難解なことを述べているわけではないと思う。具体的な対象物のイマージュとしての捉え方の構造部分に言及しているのである。つまり、現出するイマージュはある種のネアンを内包しているということになる。意識が知覚の対象域を含めていながら純粋な意味での知覚作用と想像的意識と呼ぶものとの区別はされている。では『想像的意識はその対象物をネアンとして措定する』とは何か。この問題を更に進めてみよう。以下の引用によってもっとわかりやすくなってくると思う。

ピエールについての想像的意識を心の中に生じぜしめることは、過ぎ去った数々の瞬間を自らの裡に集める志向的総合をおこなうことであり、その志向的総合によって数多の出現を通じてのピエールの同一性が確かなものになり、或る一つの相の下に(横顔、四分の三身像、全身像、半裸像、・・・・・・etc)同一の対象物をもつことになる。この相は必ず直観的相である。現在の私の志向が思念する(狙う)ものは、身体性を備えたピエールであり、私がそれを眺め、聴き、触れ得る限りに於いて、見、聴き、且つ触れ得るあのピエールである。それは必然的に私の身体から或る距離をおいた身体であり、私に対して必然的に一つの位置を占めている身体である。ただ、問題は以下の点である。つまり、わたしは私が触れることも出来るあのピエール、そのピエールに、触れないことをも同時に措定している、ということだ。私の抱くピエールのイマージュとは、ピエールに触れずに、彼を見ないことの一つの在り方であり、彼のもつ、彼が斯く斯くの距りをおいて、斯く斯くの位置にいないための一つの仕方なのだ。

 どうやら核心に触れてきたように思う。イマージュが内包するネアンとは、すなわちサルトルが云うように「直感に不在のものとしてあたえられた、《不在的直感》的なのである」と云う言葉でいみじくも言及、付与されている。そしてこの論は更に想像的意識の非定立意識についての論究に入っていく。もうここまで来ればお分かりだと思うが、イマージュ(像)についての私たちの捉え方というものが単純に知覚作用、つまり身体的、肉体的感覚の行為に過ぎないのではなく、その向こうにあるものを対象とする”意識の作用”の存在が見えてきたと思う。この章に対する結論的な部分に最早触れ始めていることにもなる。しかしながらまだ入り口でしかないのは残念ではあるが先に進もう。まだまだここらあたりは難解な部分ではない、先には図、絵、色彩、記号、言語、演劇等々の空間の論理が待ち受けているはずだ。溜息をつくにはまだ早いのだ。

対象物についての想像的意識は、既に指摘したように、己れ自身についての非定立的意識を内包している。横截的transversaleとでもいい得るであろうこの意識は対象物をもっていない。それは何ものも措定せず、何ものについても教えることをせず、認識ではない。それは意識が己れ自身に向かって発した散漫な光であり、比喩を棄てていうなら、ここの意識につきものの名状し難い性質なのだ。知覚的意識は受身の形で現れる。これに反して、想像的意識は、想像的意識として、すなわちイマージュとしての対象物を生み出し且つ保っておく自発性として、己れ自身に対してあたえられる。それはいわば対象物が空無(ネアン)としてあたえられると云う事実の名状し難い別の面なのである。

 ここでサルトルは二度も「名状し難い」という言葉を使っている。比喩的な表現を使っていることから、つまりのところまだ、名状し難いからである。お楽しみはずっと後半になってでしか解き明かされることはないようだ。
続く
この稿は2004-08-06、2004-08-07、2004-08-09の三回にわたってはてなダイアリに於いて書かれたものを再編転載しました。

2007-12-01

想像力の涯にみるもの



■埴谷雄高と想像的意識

眼球の片端をぐいと指先で押してみると、ものの像がぐらりと揺れ動き、斜めへぐっと膨らみもりあがってくる。それは滑らかな球面を或る方向へぐいと捻ってみるだけの実験で、つまり些細な角度の変化をもたらすだけの操作に過ぎないが、眼球をさらに激しく揺り動かしつづけていると、不動に据えついたこの世界の存在が物珍らしく見えてきて、やがては精神の位置さえ変わってくる。
・・・・・・・・・・・
    やがてはその意識が意識できよう。
    もしそれと名づけられるほどの意識が宇宙にあるとして、
    このきらめく光の変容を瞬きもせずに眺めつづけているとして。
   -意識(抜粋)-

 あまりにも有名な観念小説である。娼婦の部屋でひたすら眼球実験をおこなう男。同時代、フランスにおいてJean-Paul Sartreが「想像力の問題」を世に問う。そして埴谷は前人未踏の宇宙へ向かう。やがてそれは「死霊」となって死す。彼の中でそれは完成したのであろうか。
『愚民的想像力』
※この稿は2004-06-19にはてなダイアリに於いて書かれたものを転載しました。
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2007-11-23

書けないとはなんだろう



 「書く」と言うことを考えてみると、なんと言っても自分自身のために「書く」ということが誰もが頭に浮かぶだろう。また姿も見えないものたちのために書く者もいる。これもひとつの方法だと思う。だが他者であるものたちの中に自分がいるということにどれだけの人が気づいて書いているだろうか。でもそういうこととかを含めて自分自身を真の意味で捉えているだろうかと考えてみることも必要だと思う。「書く」という営為が孤独であることについて異論を持つものではないが『書かない』ということも営為のひとつの形ではある。ではこの『書かない』には何が含まれているのだろうか。「書けない」、「休筆したい」も『書かない』に含まれている。でも「書けない」に甘んじている者はもう一度自分自身を見つめ直してほしい。「書けない」ということを語ることは「書く」ということを語ることにならないだろうか。絶望とか虚無の中からも力を与えられた言葉は飛び出してくるのだから。

※写真はLouis-Ferdinand Céline
渓谷0年: 「累積」を読むこと
※このエントリィははてなGにおいて2007-10-07に書かれたものを転載した。

2007-11-02

「虚業」余聞


 私は先日自分の過去について触れたが、そのあとの挫折した生活のなれの果てにたどり着いたのは屍累々の凄まじい世界だった。余談になるが先日ある方とチャットで話していたのだが「はてな極悪ブロガー」の頂点に立っているのは実は南無さんではないでしょうか、と茶化されるほどである。多分そうなのだろうと思う。もっとも過去現在も含めて差し障りのない程度にしかブログ「南無の日記」では書いてない。でも先日も約束したとおり少しづつここでは書いてゆくつもりである。きわめて私的には近いのだが創作上の秘密というものが語られれば一番いいと思っている。

 私が書いていた自伝的小説「虚業シリーズ」が書かれ始めたのは今調べてみると2004年のことであった。その中で「虚業5」と題されたものはgooブログ「南無の事件帳」において2004年9月14日のプロローグから始まり3回のintermissionを挟みながら19回に分けて連載され2004年10月11日にエピローグを書いて終わっている。つまりほぼ毎日のように書かれたのである。また私の初めての中編領域のものであった。のちにその「虚業5」は「虚業」と名を変え編集し直されてC-Uにおいて2005年3月にアップロードされた。その間Vシネマで映画化の話が進み2005年5月にクランクインし編集、音楽、アフレコなどが終わったのがその年の9月も半ばのことであった。東京の撮影プロダクションから関係者用のプロト版が私の手元にビデオ・テープとして送られてきた。ビデオテープということで画面も荒く音質もモコッとしたものでしかなかった。そしてその後エンターテーメント性が薄いゆえかどうかは知らないが日の目を見ることなく殆どお蔵入りになっていた。ようやく今年7月にセルとレンタルの決定がされたようである。GPミュージアムの案内を見ていると確かに7月25日リリースとなっていた。ということは来月頃にはGPミュージアムの当該サイトで予告編も流されてゆくと云うことになる。映画会社に損をさせたような気がしないでもないが、これもリアル南無のつまらなさで勘弁してもらいたいとも思っている。
 当時その「虚業」を書き終えて私はこんな事を書いていた。
ようやく「虚業の5」を終える事が出来ました。長い間御愛読ありがとう御座いました。
 「列伝シリーズ」のなかでも虚業の章は人の運命の儚さと共に欲と銭、善と悪を意識して書かれています。私から見れば欲望の虜となった人間に善も悪もないだろうに、とは思います。所詮は妄想の中で生み出される物でしか有りません。だがそうやって人間のドラマは繰り返されるのであり、やがて老いて朽ち果てる時にそれに気づくに過ぎません。
 今回の「虚業の5」は私の経験したいくつかの事件が重なり合って描かれています。それぞれを別個に書く事も可能ではあると思いましたが、本質的な根底部分は全て同じであれば、よりフィクションに近づいた方が読みやすいだろうと思うからです。
(中略)
 なお下記に不必要と思われ本文で捨象された事柄を短く書いておきます。「虚業の5」についての元々の原稿は本文の3倍近くあったのが実情です(笑)。如何に短く伝えられるものかが全てでした。ですが表現力のない私にとってはこれが目一杯でした。また暴力シーンと性描写についてはそのほとんどを割愛しました。

 当時の一種の疲労感と共に何かひとつのことをようやく書き終えたという気持ちを表していたのだろうと思う。そして初めて言うが、今書き続けている「黄泉の男」はたぶん一旦アップから下ろされ、大幅な編集が加えられ、より長編の物語として生まれ変わると思っている。現在のところまでは原稿用紙にするとおよそ230枚程度にはなっているが当初から500枚程度を考えて書かれ始めたものである。キャパシティの問題と捉え直すとブログ向きではなく、紙化を目論んだ方がよいと思っている。そしてそれが実現されるべく黙々と書いてゆくつもりだ。
※写真は撮影の合間の風景である。『虚業』は映画化にあたり「闇金の帝王」と映画題が与えられた。
記:はてなGの「愚民の唄」2007年05月02日より転載した。
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なぜ私は今も書いているのか

 私は私自身をよく知っているつもりだ。そしてまた私は今最低の気分になっている。また私は私自身のことをここコンポラGで誰かにわかって欲しいというつもりも今となれば無くなった。心の奥底にしまってきたものを今後少しづつここに書いてゆくつもりだ。またここで書くことについては古くさいと言われようが狂人と言われようがどのような批判も受けてゆくつもりである。そしてこういう言辞で皆さんが共にやることが出来ないと思うならば去ってゆけば良しと思うようになってきている。こんな事は久しぶりに起きた心の現象である。また言っておくが、もともと退会はボタンひとつクリックすれば出来ることである。しかしそれを誰にも求めはしない。ただ私が責任者である以上私がそれをクリックすることだけは出来ない。またシステム上も出来ないようになっているのでみんなは安心して欲しい。
 さて、では始めよう。
 ぼくたちは「呪海」-創刊号-を刊行に至らせるまで一年以上の徒労を要した。これには物理的、経済的な制約があげられるが、このことは何も「呪海」に限ったことではなく様々な同人誌が等しく背負っている問題でもある。にもかかわらず一年あまりの時間は徒労に過ごされた。
 これにはぼくらが元来もっているところの誠実さと無知とが原因となった。「呪海」は文学を志す者すべてに門戸を開くという唯一の原則をもっているということから、、誰かまわずとぼくたちは接し、そのあげくが文学ゴロにひっかきまわされるというぼくたちの頓馬振りを示したのであった。誠実さが泣きをみるということが痛いほど身にしみた体験であった。そしてぼくたちはこのような甘えを造りあげている文学者共の正体をも一瞬、この時見たのであった。ぼくたちは断じて彼らゴロツキ共を許すわけにはいかないだろう。
 今となってはもはやぼくたちはただひたすらに書くのみである。書くことでのみ書く根拠を得ることができるという情況をを受けとめることでぼくたちは自立した表現行為をうちたてているのだ。
 -「呪海」創刊号編集後記より1970年10月-

 1969年に三人の男が同人誌の発刊を企てた。私は22才だった。詩を書く者がふたり、小説を目指す者がひとりであった。創刊号の編集後記は私が書いた。そして私はその後徐々に仕事の世界に埋没してゆき、私は他のメンバーも増えてきた頃の「5号」を最後に自分の才能の無さとそれに伴った書く意欲の喪失と共に深い敗北感に苛まれながら最低の人生を歩むこととなった。そして私の居ないあいだにも残りのメンバーで「呪海」は年一回というペースではあったが発刊され続けていき、私に送り続けられていた。1979年7月第10号が結果的には最終号となった。『結果的』という言葉を使ったのは編集を担当していた詩人御堂勝の自殺によって結果的に最終号となったのである。葬儀は先日もコンポラGのコメント欄で書いたように私が葬儀委員長であった。無論色々な関係から私の意志にかかわらず葬儀のとりまとめが出来る者が私しかいないと言うことが当時残った同人達によって決められたのである。そして彼の家族が列席も拒む最低の葬儀((結果的には私が懇願し夫人と娘を出席させることが出来た))を執り行った。今も悪夢のようにその時の模様が記憶の隅から消えることはない。また御堂勝は他の同人誌にも寄稿していてその関係者の方々も出席していた。そして葬儀後、遺稿集を出すという発言が大勢を占めそのことについて唯一後ろ向きであった私が弾劾されたのである。なぜ後ろ向きであったかという理由を私は死ぬまで書いたり言ったりすることはない。そして遺稿集は御堂勝が「あぽりあ」の同人も兼ねていたという関係で詩人坂井信夫達の手によって成された。その当時の詩人達の一部の動向は坂井信夫の「講演」などでも知ることが出来、御堂勝の「遺稿集」にも触れられているからみなさんも読んでみるのもいいだろう。御堂と私は詩を書く者と小説を書く者との違いがあったが喧嘩も絶えない兄弟のようでもあった。現に東京では半年近くも4畳半のボロアパートの一室で共に生活をしていた時期もある。そしてその当時、御堂からたくさんのことを私は学んでいた。一番学んだのは「言葉」であった。つまり言葉の重みであった。そして彼はその重たさゆえ自死を選んだのだと私は今も思っている。彼が死ぬ20日程前に電話がかかり私は何とか仕事の都合を片付けて東京へ深夜車を飛ばした。彼の言要のただならぬ気配で彼の住む板橋のマンションに向かったのである。だが在室であるに関わらず彼は私のためにドアを開けようとせず意味不明のことをドア越しに叫ぶだけであり私はドアの前で呆然と立ちつくすしか無く、翌日あきらめて北陸へ戻った。そして20日ほどしてから彼は首を括った。死に顔は決して美しくなく浅黒く醜くもあったが、だが私はそれが美しいと感じた。後で知ったことであったがその頃にはもう夫人や娘達は家を出て行ってしまっていて、御堂も一切の働きを止めたままであったということを知った。
 私はここで皆さんにこれらのことをわかって貰おうとは決して思いません。同人誌という古くさい言葉の意味と言葉の持つ重たさを知って欲しいだけなのだ。いかにも同人誌は古いとも言えるが意味もわからず皆さんに語られる事は今後一切拒否する。また、ここにいてさえ自分の書くことに意味を見つけられない者や、まやかしの言葉に奢る者はこのコンポラGからたった今去るべきである。どのみち、そのような者が書くものはその言以下でしかない。しかし書くことが唯一無二とまでは言わないが意味あるものと思う者は、うまいとか下手ということに関わらず今しばらく我々と一緒にやっていくべきである。それをCUが待っている。
 どうもコンポラGで書くという行為を勘違いして振る舞っている者もいるようだ。また「自由」とか非自由とかという言葉はどのような意味があるというのだ。id:akkyに聞くことがある。本質的な自由というものはどのようなものなのであろうか?自由が本質的に目指すところのものはいったい何なのであろうか。古い時代には、と言ってもフロイド的な時代のことだが自分の鎖は自分が作り出したところから鎖を見るという人間の潜在的な意識の有り様を分析して見せた。つまり鎖に縛られたと思うに至る己の幻想で鎖に縛られた人間を見せてくれたということになる。もしこれがきみの言う意味であればきみは類あるものとして凄く古い人種であるという証明になる。
 そうでないなら次に行こう。それから後の世は現象学を経て人間のもっと深い存在の有り様をサルトルは世界内存在として捉え、個人の自由は全的にも全ての人間が自由になることでしか果たせ得ないのではないかときわめてカント的に捉えた。ではこの自由のことなのか?
 違うのであれば更に言うがきみの自由とは何なのだ?どのような位相でここにその非自由さがあるというのだ。ではこちらからその位相に下がって言わせて貰うが自由とは「孤独」に決まっていることは小学生でさえ知っていることである。対他的関係の消滅する孤独というものこそ、その意味では自由であると言うことであって、ここにはいかなる拘束事項もない。孤独という自由が嫌であれば、いかなる自由が欲しいのだ。そしてまたきみが言うような孤独でない自由というものがあるのであろうか?そんなに非自由に書きたいのならば自らのブログへ戻り、いままで通り非自由な「メタブログ文章」を書けばよろしい。
 そして皆さんにもついでに言いたい、私にこれ以上何を言って貰いたいのだ。私が言いたいことはそれだけである。そしてCUの諸君、君たちはそこのところはよくわかっていると思う。そう思って私はフォーラムでぬーん氏が私にくれたメールの一部を公開したのだ。CU以外のコンポラGの皆さんのために抜粋だけ以下に転載しておく。
言葉の力とは何なのか。文学の使命とは何か。この古くさいテーマを今この時代に真剣に考えることが、いま僕らが直面している課題なのだと思っています。なぜならそれは少しも古くなく、いまもなお力を持つ問いであると僕は信じるからです。
  -ぬーん郵便より-

そしてまた、言葉は言葉によって復讐されるのだ。言葉の重たさとはそういうものであり、書くことに依ってしか視ることは出来ない。
おわりに御堂の「呪海」における最後の詩を以下に全文掲載する。
生殺し・・・・・・

攻めることもできず
守ることもできずに
きみはただじっとしているだけ・・・・・・
死ぬこともできず
殺すこともできずに
きみはただやっと生きてあるだけ・・・・・・
そして
きみはただとどまるだけ・・・・・・
そこにあるだけ

一本の線がつづいてある
それは
直線だったり
曲線だったりして
そこにあるそして
ここにいるきみの視角には入ることもなく
死角の方にきみをおいつめる死線
きみはそこで解放されることもなく・・・ ・・・

きみはよこたわる
よこたわることで仮の安息を得る
が きみの曲がりくねった列島は
四肢の隅々で
流れない時間の対流と
彎曲した空間の疲労を
いまここのマンションの入江に沈殿させる
生殺しの妄想と
歪曲されたきみの現実
ふみだす過程(プロセス)もなく・・・・・・

きみの階段はとぎれる そして
つかれた魚のように朝靄のなかを
浮遊する きみの歩行
一瞬 - バスを降りると
きみはそのままの姿勢で群衆の中にある
あきらかに光景は
夕刻時の立ち会い演説会であるというのに きみは
同致できない朝の空間を時代の方に引きずっている
いまここの時の段階(きざはし)に・・・・・・

攻めることも守ることもできず
きみがただみつめるだけの疲労
 - 関係はかんけい自体で
きみの昼と夜の活生が別たれている
いまここの彼岸
そして
小鳥たちの叫びの鋭(さき)の方で
匕首がはしる
生殺しの日々・・・・・・
きみの手の失業か

  -御堂勝(呪海10号1979年)-

記:はてなGの「愚民の唄」2007年04月28日より転載した

愚民的想像力


 人間はどうも逃れようもない幻想をもつように自らの手によって仕向けられている。そんな思いを抱きながら人生の晩年を迎えようとしている自分なのだが、べたにそうかと言えばそうでもないように思うのも人間である。意識の下降する状態に陥ってしまうひとつには抗いようもない死というものがあると云うことも挙げられるだろうし、たとえそれ自身が観念の中で自己完結させようとしても残滓みたいなものは残る。云うならばその残滓みたいなものからあらゆる人間の創造的な営為というものが生まれてくるのだろうと思う。たとえそれがなんの意味がなくとも当の本人にとっては意味も意義もあることに思えるわけだ。たぶん意味はあるのだろうが意義があるとは思えない。創造的思考に虜になった妄念は時間性の方に収斂され個を更に深化させ、そこからこぼれ落ちた雫みたいなものが空間性の方に投げ出される。その雫が幾つかの雫と交わり変容してゆくみたいなものとしてあるのだろう。現実界で妄想の虜になるのは人間が本来持っている自分自身の存在の不快から来るものであり、形なきものの有るかのごとき装われた擬態を見るからである。これは肉体を意識に拠ってしか受容できない人間の在り方から来ている。しかし、やがてそれをも意識されることない世界の存在に気づかされる時がくるのだ。もっともそれは不合理の思考の累積でしか到りつかない世界だ。「壮大なる無」は感覚界全てを取り去った世界である。つまり滓さえも存しない世界、無機でもなく有機でもなく意識の非存在の世界。観念をも消滅させる世界、一切合切が是全て無と云うべきもの、「もの」ではないもの。何ものをの意志さえない世界、幻化というべきものの完全なる世界、佛世界ではそれを捨象して涅槃と云う言葉を生み出した。しかしそれはある意味ではあらゆる整合性を超越したところにしか存在しない。宗教がもつ本来の所以である。その対極にはアフォリズムの果てに自我そのものを宇宙まで拡大して見せた埴谷雄高の「自同律の不快」という言葉。
やがてはその意識が意識できよう。
もしそれと名づけられるほどの意識が宇宙にあるとして。
このきらめく光の変容を瞬きもせずに眺めつづけているとして。
  「意識」-埴谷雄高『虚空』より-

 そんなことやあんなことを考えていた。くだらん、といえばクダラン妄想でしかないのだけど、そんな中でものを書いたりしている。
※写真は埴谷雄高。はにや ゆたか1910~1997。1910年に台湾の新竹に生まれる。戦後の形而上小説「死霊」(しれい)を書いた作家。
記:はてなGの「愚民の唄」2007年01月2日より転載した。
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2007-09-30

『言語にとって美とはなにかⅠ、Ⅱ』出版当時の愚民的考察



ついにじぶんのやってきたことは空しい作業だったかという覚醒は辛いものであった。それゆえ、わたしの主観のなかでは、じぶんの手でつくりあげてゆかねばならない文学の理論は、とうぜん思想上の重荷をも負わなければならないものであった。その時期が、わたしの文学上の最大の危機であり、わたしは少数の言語理論上の先達にたすけられながら、まるで手さぐりで幾重もたちふさがった壁をつきぬけるような悪戦をつづけた。そして本稿によって、わたしは思想上の貴任を果しながらその作業をおえることができたのである。
  -吉本隆明/初出「試行」(昭和36・10~40・6)-

 これは『言語にとって美とはなにか』の序に於いてのさわりの部分である。
 さて上記の『言語にとって美とはなにかⅠ、Ⅱ』は吉本隆明の膨大な著作集の中でも言語表現の構造にメスを入れた労作であり「大作」である事に異論が無いところである。また私達は国内にいまだ匹敵するような類する著作を持っていないことも事実である。吉本隆明はこの『言語にとって美とはなにか』を直接購読制を取った同人誌『試行』((1961年谷川雁、村上一郎、吉本隆明の三名によって創刊され、1997年12月20日第74号で終刊する))の創刊号から第14号までの間連載した。その論は非売品にも近い『試行』の直接購読性ゆえ一部の者だけしか読むことは出来ず、また後年その原稿に加筆訂正をくわえ勁草書房より公刊された「Ⅱのあとがき」にも書いているように『わたしは少数の読者をあてにしてこの稿をかきつづけた。』といっている。そしてそれは成されたわけであるが彼はこれを書き続けている中、沈黙の言葉でつぶやくのである。『勝利だよ、勝利だよ』と。そして公刊について以下のように述べている。
 いままでいくつかの著書を公刊しているので、つながりをもった小さな出版社もひとつふたつないではなかった。しかし本稿はみすみす出版社に損害をあたえるだけのような気がして、わたしのほうからはなじみの出版社に公刊をいいだせなかった。それでいいとおもったのである。最小限、「試行」の読者がよみさえすればわたしのほうはかくべつの異存はなかった。
  -「言語にとって美とはなにかⅡ」のあとがきより-

 これは暗に彼独自の言語構造論がその当時の日本的情況からみれば世界思想に迫ったという自負心の裏返しの心境の吐露であり、孤高であるがゆえの当時の彼の位相を表しているといえるだろう。愚民の目から見れば畏敬せざるを得ないくらいの実に恐ろしい男であったわけである。そしてやがて愚民代表として筑摩書房の編集者((現在は『ハイ・イメージ論』等20冊程度の吉本の著作を出版している。))が出版したいと思うから連載された「試行」を見せてもらえないかと訪ねて来るのである。そして後日、筑摩書房から出版する気が無い旨の連絡が来る。ま、いまでは「ちくま新書」、「ちくま学芸文庫」と銘打って構造主義だわ、ポストモダンだわとアドバルーンを揚げている愚民教養出版社であることを考えればもっともなことであった。また書かれたものの孤高ゆえの商業性を有していない著作でもあったともいえるかと思える。だがしかし、世は捨てたものではなかったのである。勁草書房から優れた編集者である阿部礼次氏がやってきたのである。そしてこの『言語にとって美とはなにか』が我々の目の前に現れたのであった。そして彼吉本隆明は勁草書房の阿部礼次氏へ尊敬と感謝の念をこめて当時を振り返り、こんなことを言っている。
わたしはこのときも、よくよんだうえで本気でよいとおもったならば出版するように求めたと思う。阿部氏はよほど非常識だったらしく、やがて本稿を出版することに決めたという返事があり、わたしのほうもそれではと快諾した。校正の過程でも、怠惰と加筆で散々な迷惑をかけたが不満らしいことは、わたしの耳にははいらなかった。阿部氏がいなかったら本稿は陽の目をみることはなかっただろう。未知のまえで手探りするといったあてどないわたしの作業の労苦よりも、阿部氏のような存在や、本稿を連載中のわたしの周辺の労苦の方が、この社会では本質的に重たいものにちがいない。わたしは本稿にたいして沈黙の言葉で『勝利だよ』とつぶやくささやかな解放感をもったが、阿部氏やわたしの周辺は本稿の公刊からはどんな解放感もあたえられないだろうからである。-1960年7月
  -「言語にとって美とはなにかⅡ」のあとがきより-

 さてわたしも愚民の一人として当時の勁草書房版を持っているのだが「奥付((本の構成内容の一つ。主に書籍名、著者名、発行者名(出版会社)、印刷所名、製本社名、ISBN、発行年月日、版数、定価、著作権表記などを記載したページ日本の書籍では最終ページにおかれる。))」を見ると興味の引かれることに目がいったのである。わたしが買ったのは昭和43年であることがわかるのであるが、このときの「Ⅱ」についての刷数(太字)に注意してもらいたい。
「言語にとって美とはなにかⅠ」の奥付
昭和40年5月20日第1刷発行
昭和43年3月15日第8刷発行
「言語にとって美とはなにかⅡ」の奥付
昭和40年10月5日第1刷発行
昭和43年8月15日第6刷発行
定価 750円

 つまりは「Ⅰ」ほど「Ⅱ」は売れてなかったという見方もできるが、大概の者は当時の流行で購入はしたが、頭の具合がおかしくてというかヴァカなため「Ⅱ」に進めなかったと見るべきであろう。40年前も今も知ったかぶり愚民と呼ばれる者達の「知」の位置は変わらないのではないかと思った次第である。
 そのほかぐぐって見ると結構あるものだ。なかには『積んでるうちに文庫版は「定本」といふのが出ちまひましたが、かまひません。』という積読と呼ばれるものがあることも知った。ニヤニヤしながら以下を読んでいた。なかなか必要に迫られない限り、「言美」は一筋縄でいくような書物ではないのだろうなと思った。
三浦つとむ「日本語はどういう言語か」(講談社学術文庫)の吉本隆明の「解説」を読むことで、やっと吉本隆明の主著「言語にとって美とはなにか Ⅰ Ⅱ」(角川文庫)を読む気になってきた。
「言語にとって美とはなにか」は、誰も最後まで読み通せない点でマルクス「資本論」と同様に有名だが、ご多分にもれず、学生時代から何度挑戦してもダメな本である。
「心的現象論序説」も読みたいのだが、同様に未読だ。
  「晴耕雨読 古本屋の読書日記」より

※その他の参照サイト:

「表出論の形成と複合論-嶋 喜一郎-」
「対話とモノローグ-弁証法のゆくえ-」
「終わりなき〈意識のさわり〉の営み-石村 実-」
「言葉が生まれるところは、どこか。-吉本隆明と糸井重里の対談-」・・・全5回
「言語にとって美とはなにか (冒頭部分)」
記:このエントリははてなGの「愚民の唄」2006年10月30日より転載した。

文学者の老いや自殺とか

 一晩で「追悼私記」読み終える予定だったはずが自分自身が夜まるでダメポ状態により今になってようやく読み終えた。文学者の老いとか病とか自殺とかが満載で、これほど興味深く読んだ文庫は最近なかったような気がする。恥ずかしい話だが「えっ、この人*註1は自殺だったのか」という驚きもあった。ついでに言うならば1999年9月に「文学界」に寄せた「江藤淳記」の最後に書いている吉本自体の老いについて触れていた部分が自分の気持ちを暗くさせてしまった。
眼と足腰がままならず*註2、線香をあげにゆくこともできなかった。この文章が一本の線香ほどに、江藤淳の自死を悼むことになっていたら幸いこれに過ぎることはない。
  -「江藤淳」最後の立ち姿のイメージより-

 その昔四谷の上智大学で行われた吉本隆明そのひとの講演を聞きにいったことがあった。電車に乗るお金もなく当時いた渋谷代々木上原から四谷まで歩いていくしかなかった。自分が畏敬してやまないその人は100人程度しか座れない教室の教壇に立っていて、その精悍な顔と鋭い眼光でもって他を圧するように見えた。吉本は当時40半ばの年齢であったはずである。だが喋りだすと決して巧いとはいえない訥々というか、近所にいそうなオッサンみたいな感じで恥ずかしそうに喋りだし、なんか自分の持っていたイメージを払拭して凄く親近感がもてたのを覚えている。だがそのときの内容はとても理解を超えていて全てが初めて聞くかのごとき世界であった。今考えればその頃もう既に「心的現象論」についての構想が既に始まっていたということになる。考えるだに恐ろしいことだと今も思っている。まさに日本人として前人未到の領域に彼はそのとき既に分け入っていたということになる。その場に居た人間のどれほどのものがそれを理解して聞いていたのかはわからないが、サルトルやフッサールをかじった程度の知識しか持っていない自分では到底理解を超えていたとするのは当然だった。そしてその「心的現象論」は彼が主宰していた直接購読制をもつ「試行」*註3の終刊号(1997年12月20日)まで連載されていることを知ってはいるが公刊で無いゆえに見ることも読むことも出来ない。ほぼ30年にわたってその論が書き続けられているということも驚愕に値するが全貌は推測することしか出来ない。彼は今83歳*註4になるのかと思うがたぶん陽の目を見るのは死後ではないかと思う。口述筆記なのだろうか。ある意味では埴谷雄高が死ぬまで書き続けたといわれる大作「死霊」を髣髴させる。凄まじいといえばそうに違いなのだけれども、なんか妙に寂しいことでもある。
※追記:吉本隆明と共に「現代批評」を創刊した奥野健男*註5が東芝出身の技術屋上がりだということを「追悼私記」を読むまで知らなかった。また当時奥野健男が高分子化学の製造技術に関して特許庁長官賞を受賞した。それに関して批評家平野謙の「推理癖」を平野謙への追悼文「平野さんの神々」において書いている。相当笑わせてくれる内容なのだが最後には笑えなくなってしまった。

註1:文学者ではないが対馬忠行が自殺だったことは知らなかった。1979年4月11日播磨灘で投身、同年8月11日に死体が浮上。思想家、ソ連論に収斂される業績は大きい。「トロッキー選集」の翻訳者でもある。「追悼私記-対馬忠行-駈けぬけた悲劇」の稿参照。
註2:糖尿病、白内障の手術、腸がんの切除手術など多くの病気を抱え、ほとんど歩けず見えない生活。満身創痍。
註3:「試行」全74冊の目次-「吉本隆明全著作(試行)」
註4:2005年11月の読売オンラインに吉本隆明の近況と共に執筆方法が載っていた。また、『共同幻想論』の仏訳がCD化されていることも知った。L'Illusion commune『共同幻想論』フランス語訳。「「肉フライ」 吉本隆明さん」-読売新聞-に於いても好々爺ぶりがみてとれる。視力が衰え、文字を拡大してモニターに映しながら、執筆や読書を行う。とあった。『「●ルーカスWを使う著名人●」』氏の初のCM出演なのか?微笑ましい。
註5:大正15年、(1926年)7月25日東京生まれ。昭和27年東京工業大学理学部化学科大学在学中、文芸部雑誌に「大岡山文学」に書いた「太宰治論」によって一躍注目を浴び本格的評論活動に入る。昭和28年同大学卒業後(株)東芝へ入社。昭和29年「現代評論」を服部達らと、昭和33年「現代批評」とを吉本隆明らと創刊。旺盛な批評活動を行う。昭和34年大河内技術賞、昭和38年科学技術庁長官奨励賞、昭和39年特許丁長官賞受賞。トランジスターラジオの開発に貢献した。参照先「奥野健男 ★プロフィール★」には若かりし頃の文学者達の写真が載っていて貴重だ。この中の写真で生きているのは吉本ただ独りとなっている。
記:このエントリははてなGの「愚民の唄」2006年11月09日より転載した。
追悼私記 (ちくま文庫)
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2007-08-10

幻夢の果て-Edgar Allan Poe-

第Ⅰ章-古典の意義-
 さて、われわれは現代の世界に存在してその世界というものに規定されている。その世界といういわば人間の意識の存在そのものは一種の累積された歴史を土壌とした中に立たされている。つまりその世界に於いてひとつひとつのコギトはいるというように見える。そして更に言えばそれなるコギトのファンデーションとも言えるところに時代の下部に共有されているかのように無意識の領域がある。われわれの意識は好むと好まざるに関わらずその中から形の上では出ることはできないようにも思える。19世紀の思考は19世紀の観念世界のシステムというべきものの上にあるというのは間違いではない。だが一方で言葉は書かれたときからその時代の表現となり、創造された作品はその時代を現す思想となり、想像力によって表現されたものは時代を架橋するものとしてある。だからそれを見ると言うことは19世紀を孤として切り取ることではなく、その探索から得れるものは原始からの言語の累積史を包括したものであり、その時代のエピステーメーを超えて21世紀の現代にフィードバックさせるものになるはずである。
 私にとってのポオは『大鴉』や『海中の都市』を書いた詩人であり、『アッシャー家の崩壊』や『大渦にのまれて』を書いた小説家である。ポオの凡そ波及させた渦はアメリカ本国よりもヨーロッパ、そしてその影響下にあった日本の文学者達に様々な影響を与えたとみていいだろう。また、名前そのものをとった江戸川乱歩は『探偵作家としてのエドガー・ポー』のなかで探偵小説史をなぞらえながら謎とそれを解きうる推理という視点でチェスタートンやドイルなどと比較しながらポオの書いたトリック仕立てについても言及している。無論ここでは探偵小説やミステリィについて論じるものではなく、それはそれで有りであるとは思うのだけれども、どちらかと言えばポオ自身の表現者としての立ち位置から、おそらくゴシック・ロマンとか象徴主義的表現みたいな方向に論が進んでいくものと思われる。また、その昔ポオに接した時の私の意識の奧襞に茫洋として残っていたものに触れてゆくということにもなるかと思う。
 私がポオを読んだのは初めは中学生の高学年の頃だったと思っている。無論、学校の図書館にあった『モルグ街』とか『黄金虫』とかで一種の推理小説の分野にあるものだった。またこの類は意外と早く日本語に翻訳され、そう言う意味では小学校や中学校の図書館に於いて閲覧できうる態勢にあったと思われる。ちなみにポオの翻訳史的なものというか翻訳の年次を橋田久康の『ポオ文献』に拠ってみれば饗庭篁村訳の『西洋会談・黒猫』が明治20年11月、同年12月『ルーモルグの人殺し』ともっとも古い翻訳として挙げてあった。参考までの明治の文人達の訳はというと岩野泡鳴が明治42年「訳注近世英文学」で『大鴉』を、森鴎外が明治43年に「文芸倶楽部」において『うずしお』を訳している。大正になると生田春月、佐藤春夫、西条八十、辻潤などの名前が見え、昭和初期から戦前までに入ると正宗白鳥、江戸川乱歩、佐々木直次郎、日夏耿之介※2、谷崎精二等の名前がある。戦後については中野好夫、福永武彦、吉田健一、阿部知二、丸谷才一となっていて既知の文学者及び英文学者の名前が連なっている。もっとも現代というものを想定すればもっと新しい訳や評論等が出ているのだろうと思える。以上のことを鑑みても日本におけるエドガー・アラン・ポオの位置というものはあるのだということが判るだろう。
 私は先程少年期に於いて学校の図書館でポオに出会ったということを書いたが、そういう年代の頃の出会いというものは結構最後まで残るものだと思うところはある。今回のエントリを書くにあたって我々の先達者の書いたものも少々読み直すことになったが、とりわけ埴谷雄高※3がポオについて書いたものに惹かれるものがあった。少年期のもつ想像力に縁取られた感性にとってポオはどう見えていたのかと言うところに正しくポオがもちうる表現の世界があると言うことが分かる。埴谷はそれを「蝋燭の時期」と名づけている。

その頃、私は私の家のすぐ真裏にあたる一軒の小さな家にひとりで寝起きしていて、何時友達が訪れてきてもいいように、夜中、玄関の鍵をあけておくといった極めて自由な生活をしていたが、真夜中すぎに、どちらかといえば不良がかった友達がやってくると、何時も電燈をつけずに対座した私達のあいだに一本の蝋燭を立てて、その黄色い小さな焔の揺らめきにつれて互いの顔のなかの口元や眼のまわりにできるおおきな陰翳が日頃その相手に思いもかけぬような不思議な物質的凹所を示して無気味に揺れ動くさまを深く味わいあったものである。この下方の角度から蝋燭の光を照らしたときそこに隈取られる陰翳の異様な印象の奧に、敢えていってみれば、人間の暗部に蹲っている原始の邪悪や根だやしがたい暗い頑迷を覗いているような気持ちに私達はなったのであった。
 -「ポオについて」埴谷雄高(ポオ全集月報1963年)-

 今で云うならば真っ暗にした部屋で懐中電灯を下から照らす遊びにも似ている。少年期のこの体験をして埴谷の言うところの「闇への偏奇」だけで表すことの出来ない所以をポオの『ユリイカ』の中でみていて、一種の宇宙論である『ユリイカ』が彼をして「不可能性の文学」と名づけるにふさわしいとこの論の帰着するところで書いている。
 また芥川龍之介のポオに関する講演草稿、つまりメモ的なものなのであるがポオについて的確なところのことを書いていてこれも興味の惹かれるところである。『短編作家としてポオ』と題されたDaniel Defoe※4の作風とポオの作風を比較したこの講演メモは「事実らしく書いてあること」と言う項目を設けていることからポオのファンタジックな部分が内面的に掘り下げることによってリアリティをもっているのかを考証している。またポオが如何にボードレールに対して大きな影響を与えたのかも言及している貴重なメモでもある。

予ハPハ ardent aspiration と cold intellect との特殊なる mixture なりと云へり。彼が近代の大陸殊に仏蘭西に反響多かりしはこの点にありと信ず。近代の仏蘭西文学をつくれるものは二人の American なりと云ふ。且又 Poe の傑作は Baudelaire なりと云ふ。Baudelaire 全集の8中3は Poe の翻訳なり。Bを動かしたるものは何ぞや。予はこの理性と情熱との奇怪なる結合なりと思ふ。
 -「短編作家としてポオ」芥川龍之介(1921年講演草稿より抜粋)-

 日本人作家としてみるところのフランスの象徴派に与えたポオの大きさを強調していて興味深いものがある。

第Ⅱ章-ポオの幼年期及び青年期までの形成-
 エドガー・アラン・ポオEdgar Allan Poeは1809年1月19日旅役者の子としてマサチューセッツ州ボストンの町に生まれた、と阿部保はポー詩集のはしがきで簡単に書いているが「女優エリザ・ポーと俳優デービッド・ポーの息子として生まれた」とするウイキペディアの方が少しましである。ポオについては1930年(昭和5年)に日夏耿之介の「ポオ伝覚書」においてポオその人の出自について触れているがよく読むとこれもどうやらボードレール※5の「エドガー・ポー、その生涯と作品」から引用しているのではないかという節が見える。いずれにしても、であれば、いっそのことボードレールの書いたポーの出自の部分※6を読めば済むと言うことになるのではないかと思う。

 ポオの一家はバルチモアの名門の一つであった。その母方の祖父※7は独立戦争の際に主計総監をつとめたことがありラファイエット※8に高く評価され、またその友詛を得ていた。ラファイエットは合衆国への最後の旅のさいに、将軍の未亡人に逢って故人が彼のためにつくしてくれた数々の奉仕に対する感謝の気持ちを証したいとのぞんだ。曾祖父は英海軍の将官マック・プライドの娘と結婚した※9のであるが、これは英国の一流の名門と姻戚関係にあった。エドガーの父親であり将軍の息子であるデーヴィッド・ポオは有名な美貌の持主であった英国の一女優エリザベス・アーノルドに夢中になった。そして彼女とともに駈落ちをし結婚した。妻と自分との運命をいっそうふかくからまり合わせるために、彼はみずからも俳優となり、合衆国の主だった都市で、妻とともにさまざまな芝居小屋の舞台に上がった。
 -「エドガー・ポー、その生涯と作品」シャルル・ピエール・ボードレール(平井啓之訳)-
 (Poe, Edgar Allan - Sa vie et ses oeuvres)

 このように駈落ち同然だった両親の間の二番目の子としてポオは1809年1月19日ボストンに生まれた。そして1811年ポオが三歳の時にその母親は旅先であるリッチモンドで亡くなり、不幸なことに父はその先立つこと二週間前に死んでしまっていたのである。妹ロザリー(1810?-1874)は当地の婦人へ、兄ウイリアム(1807-1831)はボルチモア在住の祖父に引き取られた。ポー自身は当地の煙草輸出商のジョン・アランの養子となり、エドガー・アラン・ポオと名付けられたが正式には入籍されていなかったと言われている。1815年(六歳)7月にアラン夫妻と渡英しロンドン近郊のストーク・ニューイングトンにある私立のマナー・ハウス・スクールに在学し五年間滞在する。1820年(11歳)8月にアラン夫妻とともに帰米し学校に通いながら、詩作を始める。1826年(17歳)二月、シャーロッツヴィルにあるヴァージニア大学に入学、秀才で濫読型。博打に手を染め多額の借金を作り養父に連れ戻される。1827年(18歳)偽名で合衆国陸軍に志願入隊する。このあたりまでが感性的なものが育っていったポオの幼少期から青年期までと見ればいいだろう。つまりある意味では肉親の手で育てられなかった不幸を背負ったと見ていいのだろうと思う。
 ポオがヴァージニア大学に入学し博打等に手を染め養父に連れ戻されたあと、養父から逃れるようにして軍に志願したことを述べたが、そのことについて若干の背景状況を説明しておきたい。一般的な年譜等にはポオの養父たるジョン・アランは裕福であったと簡単に述べられている事が多い。これらの典拠はこれからも何度も取りあげていくボードレールの『エドガー・ポー、その生涯と作品』によるところから来ているとみられる。現にボードレールはポオが養父に引き取られるいきさつの部分で以下のように書いている。

その都市の富裕な商人であったアラン氏が天性の魅力にみちた態度にめぐまれたこの可愛い不幸な子に夢中になり、それに彼には子供がなかったので、養子にした。それで子供はそれ以来エドガー・アラン・ポオと呼ばれるようになった。こうして彼は何の不自由もなく、また性格にも誇りたかい気強さというものをあたえる恒産への当然の期待のうちに育てられた。
(中略)
彼は1822年に(イギリスから)リッチモンドにかえり、、当時最良の教師たちの指導のもとで、アメリカでの勉強を続けた。
 -「エドガー・ポー、その生涯と作品」ボードレール(平井啓之訳)-

 訳者である平井啓之は訳註のなかでこの部分にやんわりと訂正の註釈を入れている。ポオを引き取った当時の養父ジョン・アランは必ずしも裕福でなかったと云うこと、後の1825年頃に大金持ちの伯父の遺産を相続して町有数の財産家になったこと、ポオの愛くるしさに夢中になったのはアランの妻フランシス・バレンタインであることなどである。ボードレールが上記書で様々な誤謬を犯すのは本論『第Ⅳ章』でも書いているようにボードレールが参考底本としている『故エドガー・ポオ全集』の編集者であるルーファス・グリズウオールドの「メムア」を鵜呑みにしているところがあるからである。ヴァージニア大学を放蕩と博打のあげく、さも放校のように書かれてしまうのもグリズウオールドの作為にみちた中傷であり、もしかすると編集者たる権限で「全集」をスキャンダラスな話題の中で売り込もうとする策略を見落とすからだとも云える。平井啓之はその訳註の中で以下のように書いていてその方に説得力があると思うが自然である。

ポオが放校された原因をポオ自身の不行跡とすることは事実と反し、同大学の記録文書の中にはポオに対する戒告その他の形跡が全く見あたらない。彼が大学を去った原因はむしろ養父アランの無理解によって送金が断たれたことによる、とするのが今日の定説である。
 -平井啓之の訳註より-

 はっきり言えば養父アランはケチで文学等には全く理解のない人であったことは間違いが無く、夢を追うようなポオの性格自体が気に入らなかったことは大凡のちのちのポオ研究家達によってもよく言われている部分である。ポオの詩の優れた翻訳者であり詩人である加島祥造※10 は「ポー詩集」の解説で養父アランとポオとの軋轢のことを相当辛辣に書いている。

養父アランはスコットランド系の人であった。一般にスコットランド人はケチで知られている。養父はポーに一定額の費用(110ドル)しか与えなかったが、当時の大学は裕福な家の師弟ばかり集まったから、見栄からも多額の費用が必要だ。ポーはたちまち借金をこしらえてしまい、それを埋めようとカードの賭博をやってさらに大きな穴をあけてしまう。
 -「ポー詩集」加島祥造の解説より引用-

 結果としてポオの抱えた博打の穴はどうにもならなくなり借金から逃走するために軍に入ったと云うところが真相に近いようである。余談であるがアラン夫人であるフランシスからはポオは過分に愛されていて大学生活の仕送りの補完をそれとなくして貰っていたと云うことも伝えられている。守銭奴の妻は天使であったと云うことである。しかし、その夫人も1829年2月28日に亡くなりついにポオは唯一の庇護者も失ってしまうことになるのだ。これは正しくポオが若くして貧苦に苦しむ第一歩が始まったということに他ならない。ポオがヴァージニア大学での学業の継続を養父アランによって絶たれた後、養父との関係はポオの哀願によっても修復されることはなかった。また債権者から追われる身であったポオにとって取るべき道は偽名エドガー・A・ペリーを名乗り合衆国陸軍の一兵卒として逃げ込むしかなかったのである。ポオの1827年18歳の時から翌年1829年特務曹長で除隊するまでの間で特筆すべき事項は、幸運にも入隊直前に出版を引き受けてくれる印刷業者と出会い1929年に「匿名」で処女詩集を出せたことである。佐伯彰一は創元社版ポオ全集に寄せての「解説」でボストンのインデペンデント要塞のなかで新兵教育を受けている最中に詩集が出来上がったとしているので橋田久康との年譜との比較で大凡二年のズレが出ている。また橋田久康の「ポー年譜」にはこの処女詩集を『タマレーンその他』Tamerlane and Other Poemsとしか書いてないので1927年から1929年までに書いた詩の全てが入っているのかどうかは分からない。ちなみに、1927年作と呼ばれているものは「タマレーン(チムール大帝)」Tamerlane※11から「あのみずうみ、――に」The lake:To――までの10編、1929年作は「ソネット――科学によせる」Sonnet――To Scienceから「妖精の国」Fairy-Landの7編である。また借金まみれで軍に逃げたポオが『詩集』を出すなどは普通考えれないことであるからして、これにも死の直前だった心優しい養母フランシス夫人の援助の影が見え隠れする。ポオは1829年(20歳)の時、陸軍を一旦除隊するが今度はウエストポイントの陸軍士官学校への入学申請を出す。これもまだ借金から逃げようと思っているからではないかと推測できる。そして許可を待つ間ポオは実父方の叔母でボルチモア在住のマライヤ・クレム夫人を頼り夫人の家に逗留するのである。これについてはポオ自身が幼くして死に別れた実母の面影を慕って夫人を頼ったとボードレールは書いているが重要なことはそこに於いて夫人の娘でありポオの従妹であり後に14歳でポオの幼妻となった当時6歳、7歳頃のヴァージニアと出会っていることであろうと思う。またこの年12月に詩集『アル・アーラーフ、タマレーンほか小詩篇数編』Al Aaraaf,Tamerlane,and Minor Poemsを出版する。1831年(22歳)詩作を続けるために故意に士官学校の規律を乱し退学となり、本格的な詩作活動に向き合うこととなる。また士官学校を放校後ポオはニューヨークに赴き、第三詩集『ポオ詩集』※12の準備に取りかかり、そのあとまたもやクレム夫人の家に身を寄せることになった。ヴァージニアは八歳。ポオとマライヤ・クレム夫人についてはボードレールが一種の哀れみと感動を踏まえながら熱い思いで語っていることが印象的である。またそれはボードレールをして感動させるかのように己と幾重にも重なるかのごとき愛に溢れた讃辞となっている。ポオと共に苦労と不幸を背負ったこの婦人についてボードレールは忍びないものもあったのだろうと思う。以下のボードレールからの引用は長いクレム夫人への讃辞の締めくくりの部分である。

この婦人は、私には、偉大でありまた老婦人というより以上のものであったように見える。とりかえしのつかぬ打撃をうけていながら、彼女は自分にとってすべてであった故人の評判のことしかかんがえず、また彼女を満足させるためには彼が天才であったというだけでは事たりず、彼が忠実で愛情にみちた男であったことが世に知られねばならなかったのである。至高の天からの一すじの光によって点ぜられたかがり火であり暖炉であるこの母親は、献身とかヒロイズムとか、そしてすべて義務以上の物事についてはあまりにも無関心であるわが民族に、手本として与えられたものであったことはあきらかである。
 -「エドガー・ポー、その生涯と作品」シャルル・ピエール・ボードレール(平井啓之訳)-

 ガストン・バシュラール※13が幼くして実母を亡くしたポオをいみじくも「母に対する愛着と死の妄執の二重の徴を刻印した天才」と呼んだわけも今後本格的な作家活動をしてゆくポオの軌跡の中でおいおい明らかになってゆくであろう。

第Ⅲ章-ポオの年譜とその書簡-
 ポオの生涯に於いて書かれた詩は全部で63編といわれていて、創元推理文庫の『ポオ詩と詩論』の中に福永武彦と入沢康夫の手によって翻訳されている。その翻訳の中身については別途その「文庫」を読んでいただければいいかと思う。そのほか原詩であるオリジナル・テクストについては『The Work of Edgar Allan Poe』でその殆どを読むことが出来るので一度原文を味わって貰うのも良いかと思う。また1831年以降(軍からの退役以降)のポオの年譜については『POE MUSEUM』を参照し、抜粋したものを以下に記したので参考にして欲しい。このサイトを読めばおわかりのようにポオの年譜と対応するように右サイドに通常史における特筆すべき事項も記してあるのでその時代性というものも頭に入れておけばそれなりの手助けにもなるだろうと思う。たとえばAbraham Lincoln※19や英国の詩人Alfred Tennyson※20と時代を同じくして生まれていることなど興味深い史実も分かるだろう。

【退役以降のポオの年譜】
1831
Expelled from West Point in February
Lives in Baltimore with aunt, Maria Clemm, and her daughter, Virginia
Poems: Second Edition contains “To Helen”
1833
“MS. Found in a Bottle” (short story) wins literary prize; is published in Baltimore Saturday Visitor,
19 October
1834
John Allan dies, 27 March
1835
“Hans Pfaal” (first modern science fiction story) published in Richmond’s Southern Literary Messenger, March issue
Moves to Richmond in mid-summer to join Messenger editorial staff
Courts cousin, Virginia Clemm
Brings Virginia and her mother to Richmond
1836
Marries Virginia Clemm (age 13) in Richmond, 16 May
Increases Messenger circulation
1837
Resigns from Messenger
Moves to New York, January
1838
Moves to Philadelphia
The Narrative of Arthur Gordon Pym (novel)
1839
Becomes assistant editor of Burton’s Gentleman’s Magazine in June
The Conchologist’s First Book
(scientific textbook)
1840
Tales of the Grotesque and Arabesque (2 vols.) includes “The Fall of the House of Usher”
Quarrels with editor of Burton’s, leaves in May
1841
Becomes editor of Graham’s Magazine in February
“Murders in the Rue Morgue”
(first modern detective story)
1842
Publishes stories:
“The Pit and the Pendulum”
“The Masque of the Red Death”
“The Mystery of Marie Roget”
Interviews Charles Dickens in March
1843
Publishes stories:
“The Tell-Tale Heart”
“The Gold Bug”
“The Black Cat”
Publishes critical essay:
“The Rationale of Verse”
1844
Moves to New York City
Lectures on “The Poets and Poetry of America”
“The Balloon Hoax” (satirical story)
1845
Publishes “The Raven” in the New York Evening Mirror, 29 January
Publishes Tales in July
Publishes The Raven and Other Poems in November
1846
Moves to Fordham, New York
“The Cask of Amontillado” (story)
“The Philosophy of Composition” (critical essay)
several Poe stories translated, critically acclaimed in France
1847
Virginia Clemm Poe dies, 30 January
Poe falls ill
Completes “Ulalume” (poem)
1848
Eureka (philosophical essay)
Reads “The Poetic Principle” (critical essay) to audience of 1,800
Writes “The Bells” (poem)
1849
In Richmond to lecture and see friends in mid-summer
Engaged to widow Sarah Elmira (Royster) Shelton, former fiancee
Leaves Richmond for New York, 27 September
Found delirious in Baltimore, 3 October
Dies, 7 October
Poems appear posthumously:
“The Bells”
“Annabel Lee”
“El Dorado”
 -参照SITE

ポオの書簡など(坂本和男訳より)
 また、ポオの手紙というべきものも個人的な抜粋ではあるが転載した。
「ポオ書簡」の抜粋

【ジョン・ニール宛-1829年ボルチモアにて-】
 私は若くて-まだ二十歳にもなっていませんが-すべて美を深く礼賛する者が詩人であるなら、まさに詩人です。そしてごく普通の意味での詩人になりたいと思っているのです。私の想像に浮かぶ観念の半分でも表現できるなら、この世のすべてをなげうってもいいのです。

 希望と若さに満ちているポオを見ることが出来るが、詩人の人生はそんなに甘くはなかった。自ら詩を書くと共に雑誌を発刊する情熱は実を結ぶとは言えず芸術の切り売りをするしかなかったのである。やがて生活のために妻ヴァージニア(トップ肖像写真)と共に1844年ポオが35歳の時にニューヨークに転居する。

【エバート・A・ダイキング宛-1846年-】
拝啓
”特殊な事情”がありますので、三月一日までに小説集をもう一冊出版していただきたいと切望しております。そのようにお取り計らい願うわけにに参りませんでしょうか。今度お送りする小説集の著作権料として、総額で五十ドルほどワイリイさんからいただければ有難いのですが。  

 ある意味ではポオの人生は貧乏との戦いであった。 

【ヴァージニア・ポオ宛-1846年6月12日-】
 いとしい人、愛するヴァージニア、今夜ぼくがおまえのそばにおれないわけは、母さんが説明してくれるだろう。インタビューの約束があるのだけど、それはぼくのために、愛するおまえのために、また母さんのためにも、何か相当に役立つものと信じている。希望にあふれ、元気を出して、もう少しの間辛抱しておくれ-この前ひどくがっくりした時、もしおまえがいてくれなかったらぼくの勇気はくじけてしまっていただろう。この気に入らない、不満足な、骨折り甲斐のない人生と戦うために、愛するかわいい妻、おまえだけがぼくの最も大きな唯一の励ましなのだ。明日の午後にはおまえのそばに行けるだろうから、会うまで心安らかにしておくれ。おまえの最後の言葉と熱烈なお祈りとを、ぼくは愛情をこめて胸にきざんでおくつもりだ。
 よく眠れますように、また、深い愛を捧げるとぼくと一緒に安らかな夏の日々が過ごせますように。

 この翌年1847年1月30日、病床の妻ヴァージニア死去。

【マライヤ・クレム夫人宛-1949年9月18日-】
(前略)
ぼくはノーフォークで講演しましたが、マジソンハウスの勘定を払ってあとに二ドルと少し残りました。聴衆は相当程度の高い人たちでしたが、ノーフォークは小さな町ですし、同じ晩に二つ催しがあったのです。来週月曜にまたここで講演しますが、大勢聞きに来るだろうと期待しています。火曜日にはラウド夫人の詩を見てあげるためにフィラデルフィアへ出かけて-多分木曜日にはニューヨークへ発てるでしょう。
(中略)
ぼくはまだあなたにただの一ドルだって送ってあげれません-でも元気でいてください-ぼくたちの苦労もほとんどもうお終いになるでしょう。
(後略)

 以上の抜粋はポオの置かれた生活や背景を窺うことが出来るものを取り上げた。この年10月3日にボルチモアの路上で意識不明となって倒れているポオが発見され、10月7日永眠する。まさしく貧乏底なしの生活は「お終い」になったのである。

第Ⅳ章-アメリカのマガジン・ジャーナリズム-
 さて、「ポオは、たとえ狂人だったとしても、紳士だった」とはAllen Tate※14が書いたJ・W・クラッチの言葉である。
 ポオは1849年10月7日バルチモアで大統領選挙投票のさなか酒場の前にて意識不明で倒れているのを発見され変死を遂げる。その翌年1850年ニューヨークの出版社レッドフィールド社から『故エドガー・ポオ全集』が刊行される。ボードレールもこの全集を底本としてポオの翻訳に努めたことはよく知られているところでもある。ボードレールが書いた『エドガー・ポー、その生涯と作品』(Poe, Edgar Allan - Sa vie et ses oeuvres)は彼自身がテクストを何度か書き直し、加筆しながら今日に伝わっていることはその仏版翻訳者の平井啓之のあとがきや訳註を読めばわかる。また、ボードレールがポオに抱いていた決意は並々の思いではなく、ポオがフランス象徴主義サンボリスムに与えた影響は大きく、やがてそれは『悪の華』に結実化されてゆくことにもなった。そのあたりのことを平井啓之はその『エドガー・ポー、その生涯と作品』のあとがきで述べている。

ボードレールの文学的生涯にとって、ポオとのかかわり合いはふかくかつながい因縁をもっていた。彼が1847年にイザベル・ムーニエ女史※15の訳業によってはじめて「黒猫」を読み、その翌年「催眠術下の啓示」を訳出して以来、1865年死に先立つ二年前に『異様でまじめな物語』によって、ポオの訳業に終止符をうつまでの17年間は、ほとんどボードレールの文学生活の大部分であったと言い得るであろうし、しかもその間ポオはボードレールの関心の外に去ったことは、ほとんど一日もなかったのではないだろうか。
(中略)
ボードレールはポオのほとんど全著作をフランス語に移し入れることによって、リラダンやマラルメをこえてはるかにヴァレリーにおよぶフランス象徴主義の詩的世界を支配する原理を、自国の文壇に同舟することを得たのである。

 では、なぜボードレールはポオを紹介するにあたって『エドガー・ポー、その生涯と作品』を何度も書き直さなければならなかったかと云うことになるのだが、このことについてはポオの描いた作品とは別の視点も無視することは出来ないとおもえる。フランス人たるボードレールにとっては英文テクストを通してしかポオの作品や人となりを想像するしかなく誤謬や誤訳が伴うと云うこともあったからであり、そういうことは、とかく文学の世界にはありがちではあるが、米国本国に於いてポオの死後再編纂された『故エドガー・ポオ全集』に基づくしかなかったのである。ところがこの全集の編集者であるルーファス・グリズウオールドRufus W.Griswold自体の書いたものが様々な誤解やスキャンダルを招いていくことにもなったのである。とりわけボードレールは初稿に新たなページを付け加えざるを得なくなり、ついにはグリズウオールドのことを独善的吸血鬼とまでに罵倒している。またこれには理由があった。ポオと同時代の文壇ジャーナリスト※16であったグリズウオールドはポオが編集責任者としていたグラハム・マガジン社(Graham's Magazine)の後を継いだ編集者であり、ポオが死の直前に自分の文学作品の管理一切を任せた男でもあった。ところがこの男グリズウオールドはポオの死の二日後に「ニューヨーク・トリビューン紙」※17にルドヴィックという匿名を使ってポオの人格、性格を毀損する文を載せたのである。

エドガー・アラン・ポオが一昨日死んだ・・・だが彼の死をいたむ人はほとんどないであろう。なぜなら彼には読者はあったが、友人はなきにひとしかったから・・・。-1849年10月9日号-

 実に驚くばかりであるが、ポオが死の直前自分の伝記的な部分に対する執筆依頼をしている、やはり同時代の文壇ジャーナリストであるN・P・Willis N・P・ウイリスは10月20日の「ホーム・ジャーナル」誌上にルドヴィック文章の不当を正す意味での反論を載せた。またグラハム・マガジンの社主ジョージ・グラハム氏もグラハム・マガジン誌上に「ポオの擁護」と題する文を掲載しルドヴィック文章を悪質で嘘であるという論陣を張った。しかしグリズウオールドはこれで矛を収めるような男ではなかった。グリズウオールドは1850年に出版された『故エドガー・ポオ全集』の冒頭に「伝記(メムア)」Memoir of the Authorを執筆しより一層の人格非難(無論作品非難ではないところがミソ)を倍増したかのように掲載したのであった。またこの個人的な誹謗の原因はいまだに分かっていない。もっともアレン・テイトは「Our Cousin, Mr. Poe」のなかでJ・W・クラッチJoseph Wood Krutch※18がポオのインポ説を述べていることに触れているので、それよかいいのかも知れない。いずれにしてもポオにはそれなりの強烈な個性が光っていたということであろう。

第Ⅴ章-Ravenと呼ばれる大鴉とはなにか-
 日本の漢字では「鴉」もしくは「烏」と書く。生物学的な分類に拠れば嘴太鴉(はしぶとがらす学名:Corvus macrorhynchos)、嘴細鴉(はしぼそがらす学名:Corvus corone)と呼ばれているものが我々からするとカラス(以下カラスと書く)と呼ばれる代表格であり、本土以外の対馬や南西諸島などに、より小型の亜種が三種認められている。ウイキペディアではやはりポオとカラスの関係に立ち入っているのに興味が持たれる。

日本語でいう「鴉」は、普通は留鳥のハシブトガラスとハシボソガラスの二種をさす。 渡り鳥で冬飛来する鴉は、北海道にワタリガラス、西日本にミヤマガラスである。迷鳥を含めると、7種が記録されている。日常語ではこれら全身が黒い鴉を通常は区別することはない。なおハシボソガラスの分布はユーラシアに広く生息するが、ハシブトガラスの分布は東アジアと南アジアに限られる。ヨーロッパでは、ハシボソガラス、ワタリガラス(raven)、ミヤマガラス(rook)が一般的である。英語ではこのように、crow, raven, rook は日常語レベルで別の鳥とみなしていることが特徴である。文化的にもそれぞれが違うイメージを付与されている。英語のそれらを和訳する際(特に文学作品)には、ハシボソガラス等を指す crow と区別して、raven を「大ガラス」と訳すことがある。エドガー・アラン・ポーの詩「大鴉」はその一例である。ただし、近年ではraven を「ワタリガラス」と訳したり、そのまま音読で記す場合も多い。
 -東西の鴉(ウイキ)-

 これによるとほかに渡り鳥的な種もいることが分かる。さらにウイキペディアによれば日本名渡鴉ワタリガラスはハシブトガラスよりも一回り大きくユーラシア大陸全域、北米大陸に渡って広く分布し、日本では北海道地域※21に見られる。学名:Corvus corax英語名ではCommon Ravenもしくは単にRavenともいう。またそのほか英語の「レイヴン」には、「黒い髪の色」の意味がある。日本語の「烏の濡れ羽色」と同じ。ギリシア神話では太陽神アポロンに仕え色は白く言葉も話す事が出来る非常に賢いカラスだったがアポロンの怒りに触れて炎に焼かれ黒く焦げ、声も潰れたとある。また北欧神話ではオーディン(戦争と死を司る神)の斥侯として、フギン(=思考)とムニン(=記憶)の二匹のワタリガラスが登場、イギリスでは※22チャールズ2世の勅令で、最低6羽のワタリガラスがロンドン塔で飼育されており、「ロンドン塔からワタリガラスがいなくなるとイギリスは滅びる」というジンクスがある。2006年には鳥インフルエンザから保護するためにロンドン塔から一時避難させられた。ビーフィーター(Beefeater)の中には、ワタリガラスの世話をする「レイヴンマスター」という役職があるということである。勿論日本に於いて、古事記によるところの八咫烏(やたがらす、やたのからす)と呼称されているカラス※23は居る。
 またついでながらウイキには以下のようなカラスについてのイメージについて書いてあるのだがカラスと黒猫を同列に置いて書くなど、もしかするとポオの作品イメージから来る影響も考えられないでもないだろう。

黒い姿から、『カラスが鳴くと人が死ぬ』、『カラスが集まる場所では死人が出る』等と言われ、不吉であると信じる人もあるが、カラスの実際の羽色は、「烏の濡羽色(からすのぬればいろ)」という表現もある通り、深みのあるつややかな濃紫色である(「烏の濡羽色」は、黒く青みのあるつややかな色の名前で、特に女性の美しい黒髪の形容に使われる事が多い。烏羽(からすば)色、烏羽とも)。ファンタジー小説やゲームでは、黒猫などと並んで魔法使いの使い魔とされる事が多い。賢さと不吉なイメージからであろう。
 -イメージ(ウイキペディアより)-

 このようにしてカラスは人間にとって何ものかである意味が持たされていることが理解できるだろう。また、更にカラスについての役割をキリスト者の世界という限定で見ればなにも不吉というものばかりでもなく、旧約の「創世記」(ノアの洪水:旧約聖書「創世記」8章6-7)に於いての大洪水から40日後の世界の偵察の任務を帯びたカラスについて描き『さらに四十日たったとき、ノアはさきにつくっておいた箱船の窓を開いて洪水後初めて鴉を放した。すると鴉は出ていって、水が地上からひあがるまで、あちらこちらと飛びまわっていた。』とあり、足の裏を休ませるところが無く、すぐ戻ってきた鳩との区別がある。その7日後再び放たれた鳩は口にオリーブの若葉をくわえて戻って来る、さらにその7日後に放たれた鳩は彼の元には戻ってこなかった。水が地上から引いたと言うことである。もっとも、この時最初から戻ってこなかったカラスの行動に対する解釈は体力抜群以外別段不審なものはないと思うのだけれども、これも自分なりの解釈にしか過ぎず、ノアを裏切って戻らなかったとする、もっぱら不服従の象徴であるとする説もあるようだ。King James Versionによるとこの部分は以下のようにしか書いてない。

And he sent forth a raven, which went forth to and fro, until the waters were dried up from off the earth. -Genesis 8。

 ここのどこを読み解けば不服従disobedienceとなるのかは分からない。このあたりについては別途「鴉の不服従」を参考にして貰えればいいだろう。また「列王記」(エリヤ:旧約聖書「列王記Ⅰ」第17章4-6)に於いては予言者エリヤに神から遣わされたカラスが登場してくる。異教神を祭るイスラエル王国のアハブ王とその妃イザベルの対立者としてのエリヤは神の命を受けてイスラエル王国の首都サマリヤに行き王と妃の前で『イスラエルの神の名によって伝える。今後二、三年、イスラエルに雨が一滴も降らない。私が雨が降ると告げる時まで』と偶像崇拝による彼らへの神の罰を宣言して立ち去る。その後、王の追っ手から隠れるため神に導かれてヨルダン川の支流ケリテ川に潜む。その時エリヤに朝、夕、パンや肉を運びエリヤを飢餓から守ったのは神が遣わされた数羽のカラスであった。神がカラスに命じたと書かれている。King James Versionでは以下のように書いてある。

I have commanded the ravens to feed thee there. -1 Kings, chapter 17

 このようにカラス※24にも役割は与えられている。だが、いつの間にかカラスは古代に於いての神の使いを越え近代にはその立場が逆転し不吉なものとしてのイメージを以て語られることになってゆく。ではここで位相を少し変えてみた場合のカラスはどのように見られているのかと言うことになればそれなりの愚民世界に立ち入ることになってゆくかと思う。またそれは一種の神秘と幻想に覆われている、まさに侮蔑すべき民衆の持つべき畏れの世界と重ね合うことにもなる。ではその言うところのオカルトっぽい世界ではどう書かれているのかを見てみることにする。

「鴉のノアへの不服従」
The raven, too, is traditionally portentous, and is sometimes called the Devil’s Bird. Its plumage is said to have been changed from white to black because of its disobedience in not returning when Noah set it free to find dry land after the Great Flood.
渡り鴉は伝統的に凶兆を表し、時々悪魔の使いの鳥と呼ばれていました。 ノアの(箱船における)大洪水の後に水の引けた陸地を見つけるためにノアが鴉を放つが、命令に背き戻らないので羽根を白から黒に変えられたと言われています。-南無訳-
 -http://www.hauntedamericatours.com/occult/BESTIARY/-

 旧約聖書「創世記」におけるノアとカラスについての解釈をこのように「裏切りdisobedience」と述べていて、これについての根拠の有るか無しかは別としてもアメリカ国民の全てとは言えないところの部分でこのような解釈が成されていると思えばいいだろう。また、カラスそのものについても以下のようにも述べている。

「鴉と死のイメージ」
The raven’s ability to find nourishment among the corpses of the dead was viewed as something supernatural in itself and forever linked it with the process of death and rebirth. The raven is the emblem of the etheric or supernatural self and ravens are considered inimical supernatural beings in their ability to resist possession by demonic entities, earning them a unique distinction among the so-called “servants of the Devil.”
カラスには人間の死体を食い物にして、それを死と再生というものに繋いでゆく超自然的な能力が見られます。カラスは超自然的な精気を表す象徴であり、魔力を持った(人間にとって)非友好的な存在であり、まさに悪魔の使いとしても特別な能力を発揮する存在だといえる。-南無訳-

 まさに、「旧約聖書」で見られるような人間に役に立つ生き物ではなく、要するに不吉さのシンボルでもあり生きている人間に対して決して愛らしくないばかりではなく非友好的な悪魔の使いだと見る向きが多いと言うことである。日本に於いても怪談映画やホラー映画等で意味の有りそうな墓地ではどういうわけか墓石の上や近辺の木々の枝でカラスが止まって啼くというシーンがないわけではない。つまりのところカラスには超自然で且つ邪悪な特殊能力があるというわけだと思えばいいだろう。

第Ⅵ章-『構成の原理』というレトリック-
 『ポォは異常ではあるが精神病ではない。それは一種の神経症である。』これは精神分析学からポオを研究したことでも知られているフロイト学派であるマリー・ボナパルトMarie Bonaparte※25の言葉といわれている。だが、「精神分析的文学批評」についてはここでの任ではないことも言いたい。また、それと同時に我々は19世紀に数多く書かれた詩人の人生とそれを描いた伝記というものにも注意深く距離を置かなければならない。確かに自伝的エピソードや記述はその詩人のメタフォリカルな部分を表象していて、とかく分析をしたくなるものである。しかし、こと文学史的な、といえばいいのか、詩的表現の問題に考察を進めれば、今やろうとしていることは間違いなく古典の再評価に臨もうとしていることでもある。だが、その前に、つまりのところ、一種のパラダイム・シフトを経て現在的批評というものもあるということを忘れてはならない。それが後世における我々の立場でもあるだろう。ポオは小説や詩の他に詩論というべきものも書いている。『構成の原理』※26The Philosophy of Composition(1846年)がその代表的な詩論である。またこの『構成の原理』はポオの代表的な詩篇である『大鴉』The Ravenを例にとり自らがその詩篇の分析を行っていることでもよく知られているところである。その意味では読む者の興味が一層注がれる内容となっている。以下先人達のポオ分析等を手がかりにして『構成の原理』と『大鴉』についての関係に言及してみたい。『大鴉』は1845年、『構成の原理』は1846年に発表されていて、これが相互の年代関係であるということをまず考慮の範囲に入れておかなければならないと思う。つまり、『大鴉』の1年後に『構成の原理』が書かれているということになる。そしてそれは多分、想像するにはきわめて挑戦的な言辞に覆われていて、当時の人々を惑わせるに十分な内容となっている。まず彼はチャールズ・ディケンズ※27がゴドウィン※28の書いた『ケイレブ・ウィリアムズ』の構成的手法が既に結末が出来ていて、それから始まりを思いめぐらしたという説を取り上げて、ポオはプロットというものは書き始める前に既に出来ているのが当然であるとして、ポオにとっての構成の手法を述べ始めてゆく。多分普通に行われているだろうストーリーの組み立て方、たとえば、物語の大綱を作りあとは描写や対話、自註で埋めようとする手法の中に読み手に与える肝心の「効果」というものが考えられていないと主張し、独創的な効果こそが作品の命であるべきだというのである。そして創作の秘密というべきものの公開をどの作家も行っていないという点を挙げ、彼はこの秘密というべきものを『大鴉』を例にとって展開しようとする。

 ぼくはときどき思うのだが、どんな作家でもいい、自分の作品のうちどれか一つが完成するまでに辿った過程を逐一詳述する気になれば(というのは、それができれば)、たいへん興味深い雑誌論文が書かれるはずである。そうした論述がなぜ公刊されないのか、ぼくには何とも言えないが、恐らくは作家の虚栄心が他のどんな理由にもましてそのことと関係しているのであろう。たいていの作家、殊に詩人は、自分が一種の美しい狂気というか、忘我的直観で創作したと思われたがるものだし、また舞台裏、つまり、手は込んでいるが未だ定着していない生の思想とか、最後の瞬間まで補足しがたい真の目的とか、無数の片鱗は覗かせても全容を顕すまでには熟していない観念とか、手に負えないことに絶望して放棄してしまった熟しきった想像とか、最新の取捨、苦しい推敲、要するに車輪と歯車、場面転換の仕掛け、段梯子と奈落、雄鳥の羽毛、紅と付け黒子といった、九十九パーセントは文学的俳優の小道具であるものを、読者に覗き見されることに怖気をふるうものである。
 他方ぼくだって、結末に至るまでの過程をもう一遍辿ることができるということが、どんな作家にでも当て嵌まるわけではないことぐらい承知している。総じて連想は雑然と浮かんでくるものであって、同じく雑然と追っているうちに忘れてしまうものだ。
  -『構成の原理』篠田一士訳-

 一見、既存作家に対して嘲笑的にさえ思える始まりとも言えなくはないが、当時の時代的位相を考えると、ことの内容はともかく充分革命的でもあるアジテートだといわざるを得ないだろう。また当時アメリカで文学を志す者達にとってもこの論は受け入れられたのではないかと思える。それが19世紀の時代性というものの他、ポオがこの時おかれている職における立場も考慮に入れなければならないだろう。『故エドガー・ポオ全集』の編集者であるルーファス・グリズウオールドのスキャンダラスなアメリカ独特の宣伝的手法を思い出せばよい。売れなければ値打ちがないのであるという資本の論理というものを無視することは出来ないという現実である。悲しいことではあるが、なにも21世紀においてさえいわれているところのものが今に始まったわけではないのである。ここでは今、書かざるを得ない立場、というものもあるということだと思えばいいだろう。そして更に冷水をかけるようなことにもなるのだが、20世紀に至ると、よりシニカルで尚かつ愛情に溢れるW・H・オーデン※29の以下のような辛らつな言葉を思い起こすべきである。

 たとえポーがその批評家としての才を充分に発揮することができなかったとしても、それはもっぱらポーの不運のせいであって、彼自身のせいではない。彼の優れた批評の多くが広く読まれないのは、それがまったく読む気が起こらないような作品の書評のなかに埋もれているからである。彼がときおりオズグッド夫人のような二流詩人を過大に評価したり、イングリッシュ氏のような内容のない人物を排斥するのに時間とエネルギーを浪費したとしても、それは生来どんなに固い食物でも消化する胃袋を備えた批評家が周囲の事情のために文学的おかゆを当てがわれる破目になったことの必然的結果であった。第一級の批評家には第一級の重要性をおびた批評上の課題が必要なのであるが、彼はそれに恵まれなかったのである。ボードレールに与えられた主題-ドラクロワ、コンスタンチン・ギュイ、ワグナー-のことを考え、それからポーが書評のために当てがわれた本のことを思ってみるがいい。
『英国のメフィストフェレスたち、またはある総理大臣の告白』
『キリスト教徒の花屋』
『女性の高貴なおこない』
『テキサス史』
『ある悲運な紳士の生涯における浮き沈み』
『四季についての聖なる哲理』
『フランスにおける現存する著名人物素描』
『人生についての自由な鉛筆による一筆書き』
『アリス・デイ-韻文によるロマンス』
『ワコンダ-人生の達人』
『故ルクレシア・マリア・デイヴィドソンの詩的遺稿』
  -W・H・オーデン(八木敏雄訳)-

 強烈なアイロニーといわざるを得ない。21世紀である今日の日本における文壇ジャーナリズムの世界を揶揄するわけでもないが19世紀に於いてやさえ、まさしくポオのおかれた国内での当時の位相を示している。アメリカは遥かヨーロッパに知的位相として及ばざるとしてとるのか『構成の原理』における創造の普遍性にすくい取られるものを見るのかである。まず我々は『第Ⅲ章-ポオの年譜とその書簡-』においての「ポオの書簡」から読み取れるポオの生活の窮状を思い出さなくてはいけない。無論我々はその普遍たるべきものの姿をこの『構成の原理』で見ていかなければならないということになる。さらにW・H・オーデンはポオの評論についての特質として当時の知を擬装する愚民世界を意識せざざるを得なかったことも述べている。

ポーがあらゆる長い詩を原則として攻撃せざるをえなかったのは、『失楽園』や『批評に関するエッセッイ』に対しては不当のそしりを免れないが、偉い詩人になるためには長い詩を書き、詩を通じて教訓を垂れねばならぬとする詩人や一般大衆の先入観をゆるがすためであった。
  -W・H・オーデン(八木敏雄訳)-

 ここに於いて我々はその時代にポツンとして置かれたポオの姿を見るのである。いつの世もあるようにそこに尖った者の孤独な影を見ることになってゆく。
 ポオは『大鴉』を発表して1年後『構成の原理』で以下のように力説するのであり、花田清輝の指摘のようにこれが『構成の原理』で言いたいことを或る意味では簡潔に述べているとも言えよう。

その構成の一点たりとも偶然や直感には帰せられないこと、すなわちこの作品が一歩一歩進行し、数学の問題のような正確さと厳密な結果をもって完成されたものであることを明らかにしたいと思う。
  -『構成の原理』篠田一士訳-

 そして花田清輝は『構成の原理』においてのポオのこの言を取りあげ明快に以下のように言っている。また考えようによっては『構成の原理』に対して誰もが最初に抱くことであるとも言える。W・H・オーデンも指摘していたように従来の詩人、文化人、及び取り巻く大衆の先入観をゆるがすためにも意図的に書かれていると言う印象である。だがそれはあくまで我々が最初に感じる印象でしかない。

周知のように、この論文のなかで、ポーは、かれの有名な詩『大鴉』がいささかも偶然や直感に依頼するところなく、砂糖をいれ、塩をいれ、とろ火で煮たて、やがて一皿の見事な料理ができあがるように、「数学の問題の正確さと厳密な因果関係をもって、一歩一歩、その完成にむかって進行していった」次第を物語る。かって私は、正直なところ、こういうポーの言葉を、すこしも真面目に受けとろうとはしなかった。私の読みとったものは、大衆の鼻をつかんで引きまわしてやろうという不敵なポーの面魂であり、たちまち霊感をふりまわす凡庸な詩人への皮肉であり、さらにまたかくも特異なテーマを、かくも無造作な調子で表現することによって、かえって強烈な印象を読者の心に喚起しようとする、この論文の「構成」の巧みさであった。
 -「ポー終末観」花田清輝 1941年-

 しかしW・H・オーデンもいっていたポオのその他の批評のことも考えればポオにとってサロン界が収入の道のひとつであったことも考慮の内に入れておかなければならないだろう。つまりへっぽこ詩人達の批評を書くことによって生計の糧のひとつになっているという当時のポオの文化人としての姿が見えるはずでもあるのだ。だが、それらのことを横に置いても、『構成の原理』はポオにとって言いたいことが言えた批評のはずである。しかし、21世紀の今の我々にとってその書かれた内容を自ら持ちうる観念と照応させ、なおかつ、その意識でもってただ遡行し古典的なものを断じていいものでもない。まず『構成の原理』を読んでいて我々が素直に感ずるのはその一種古典的な論理と、それにも関わらず当時のポオの持っている情熱である。今まで誰もがその当時取りあげなかった詩作領域への形式と表現への言及なのである。そしてまたそれにいたる彼自身の誇りと既成概念に対するアンチテーゼというべきものも見ることが出来る。つまり旧態依然の状態への彼の目一杯の主張であるとまずは読みとるべきだと思っている。

以上の考察と、大衆の好み以上でも批評家の好み以下でもないと考えられる興奮の程度とを思い合わせてみたとき、ぼくは自分が構想した詩作品に適当と思われる長さを即座に考えついた。即ち百行の長さだった。実際には百八行(『大鴉』の詩行数)ある。
  -『構成の原理』篠田一士訳-

 まず彼は文学作品というものの長さについて触れ小説、散文と違い詩作品には効果を考えると自ずから長さの限界があり、「短さ」が効果の強さに正比例するはずなのだという論を展開する。つまり詩の外見的な「形式」について触れているのであり、読み手が受けうる詩的イメージに美を感ずるには適度の長さというものがあるというわけである。それは決して長いものではなく限界というものがあって然るべきだというのである。そして次に詩的言語と言うべきか、言葉が創り上げてゆく美の領域の根底には美表現へのトーン(調子)というべきものがあって、それが最高潮に達していれば人を最高の美に酔いしれさせることが出来るという論調に進んでゆく。ポオはその調子(トーン)のことを「悲哀の調子」ということによってその調子が奏でるものこそが表現美を形作れるのであり読者に感動を呼び起こすことが出来るとして『大鴉』において重用されている技法上のリフレィンやその使い方にヴァリエーションを持たせ絶えず新たな効果を与える手法、そして言語の持つ音韻のことに迫ってゆくのである。
 『構成の原理』におけるポオの手法なりを検証する前にその論の対象となっている『大鴉』についての簡単な輪郭を述べておきたい。ポオはまず『大鴉』の詩を書くにあったって大まかな構成を作ったと言っている。その詩の実際のプロットの展開とは以下のようなものである。
 恋人と死に別れた男がその面影を断ちがたく自分の部屋にいた。深夜その恋人への思いを忘れるために古い書物を読んでいたがついまどろみかけているところに何か部屋の戸を叩く音がする。戸を開けてみてもそこには誰か居るわけでもなく外には暗闇しか広がっていなかった。もしかしたらその音は死んだ恋人のではとその名を呼ぶが答えもなく、やがて一層強く戸は叩かれ、よろい戸を開けると羽音を響かせながら壁の胸像の上に下り立ったのは一羽の堂々とした大鴉であった。そして男はその大鴉に問う。大鴉は次々と問う男に対して"Nevermore"と答えを繰り返してゆく。男は大鴉に最後には去りゆくように哀願するがその男の言葉を無視するかのように胸像に止まったまま"Nevermore"と答え、その大鴉の瞳の前で逃れることも出来ず釘付けになったままの男の姿で終わっている。まさしく「愛の傷心のテーマ」※30がそこには綴られている。
 『大鴉』の詩の中で繰り返される"nothing more"に始まり"Nevermore"という言葉で繋いでゆく手法こそが『構成の原理』でポオが言うところの技法上の変化を持たせるための韻を踏んだリフレィンの言葉でもある。とりあえず"nothing more"のあと"Nevermore"もしくは"nevermore"としての使われ方として以下その大鴉がアテナイのパラス胸像の上に止まってからの詩句の中の六行を引用する。また引用した訳※31としては福永訳と松村訳を取りあげてみた。また、本論の筋から離れた余談でしかないが、"Nevermore"の訳としては前後の詩句関係から松村達雄が採った「またと告げじ」、「またと去らじ」、「またとあらじ」、「またと忘れじ」という訳し方から、阿部保の「またとない」、福永武彦の「最早ない」や安藤邦男の「もはやない」、noon75の「ありえない」と統一してしまう訳があり、必殺技としては加島祥造のとった"Nevermore"もしくは"nevermore"と原文のままとしたものがあるということを付け加えておこう。

Then this ebony bird beguiling my sad fancy into smiling,
By the grave and stern decorum of the countenance it wore.
"Though thy crest be shorn and shaven, thou," I said, "art sure no craven,
Ghastly grim and ancient raven wandering from the Nightly shore-
Tell me what thy lordly name is on the Night's Plutonian shore!"
Quoth the Raven, "Nevermore."
     -extracts from The Raven-


その時黒檀のこの鳥は、重々しくいかめしげな表情を
その顔に浮かべて、私の沈んだ気分を微笑へといざなった。
『お前のとさかは剃ったように短いが』私は言った。『お前は臆病者の、
薄気味悪い、夜の岸からさ迷い出た古えの鴉ではない-
語れ、夜の領する冥府の岸にお前の王侯の名を何と言うのか!』
     鴉は答えた、『最早ない』
     -福永武彦訳-


やがてこの漆黒の鳥のつんとすました物々しい顔つきに、
沈んだ気分もついに解きほぐされて微笑と変わり、わたしはつぶやいた。
「鶏冠こそ短く削ぎ取られてはいるものの、よもやお前は
夜の岸辺からさ迷い出た、臆病者の、うす気味悪いそのかみの鴉ではあるまい-
夜が統べる黄泉の国の岸辺にあって、王者たるお前の名は何というのか」
鴉は答えて、「またと告げじ」
     -松村達雄訳-

 ポオがこの『大鴉』の詩※32を構成するにあたり考えたことは韻を踏み尚かつリフレィン出来る各連の結句とはどのような言葉なのかということであった。まず長くのばせて悲哀の調も兼ねる言葉を考えに入れたと言っていて、長く引き延ばせることが可能な子音のrと響きよく感じられる母音のoが結びつかせることを考えたと言っている。そして真っ先に浮かんだ言葉が《Nevermore》であったのである。そしてその言葉を何度も用いる口実として人間と違い理性を持たない生物としての鴉を選んだとも述べている。鸚鵡を選ばずに鴉を選んだのはテーマである憂鬱に屈折している恋人を失った男の心象を表すのには鸚鵡ではどうしようもなく、不吉だと思われる鴉を選んだとも付け加えている。そして言葉の持つ意味的な喩にヴァリエーションを持たせるために以下のような構成の仕方をしたといっているのであり、わたし流の解釈としては言葉の持つ意味性を鴉に向かう意識の対位置的な問いによってその意味性を超えて喩的な像領域の変化を目指したということを言っているのだと思う。つまり空間性としての意味喩と時間性を帯びた自己の思想的な暗喩の意味を含めていると言うこととして解釈すればいいのではないかということである。

そこでぼくは、死んだ愛人を嘆いている男と、絶えず、《Nevermore》という言葉を繰り返している鴉との二つの観念を結びつける必要に迫られた。反復される言葉の使い方を、それが出てくるたびに変化させようという意図を懐いた上で、両者を結びつけなければならなかったのである。ところがそうした結びつけ方で納得できるものといえば、鴉が男の問いに答えてその言葉を使うところを想像する以外にない。こうしてぼくが依拠した効果、すなわち使い方の変化による効果に、機会が与えられたことを即座に了解した。男が最初に発する問い、つまり鴉が《Nevermore》と答えるはずの最初の問いは平凡なものにしておいて、第二の問いではその平凡さを少なくし、第三の問いでは更に少なくするといういうようにしてゆけば、男も、その言葉自体の憂鬱な性質や、その度重なる反復によって、またこの鳥が噂に聞いた不吉な鳥であることを思いあわせて、将来迷信に無頓着だったのが、ついには迷信の擒となって、狂ったように全然異質の問い、その答は情熱的に彼の内心に秘められているような問いを発するようになる-
  -『構成の原理』篠田一士訳-

 さらにポオは考えれる限りの悲歌と絶望をこめての問い、つまりクライマックスとして《Nevermore》に向かう最後の問いを連としたものは最初に既に出来上がっていたとも言うのである。まさにこの言い様はポオ以前の先達者達の詩表現の秘密を自らの詩に当てはめて分析して見せたような言いぶりにも聞こえる。またそれは当時に於いてはこの『構成の原理』がもっともらしく聞こえたことも推測するに可能でもあるようにも思われる。だが、よくよく考えてみると一体そのような論理で最初から最後まで詩が表現できるものなのかということには疑問を提示せざるを得ない。そもそも詩に対して小説のような「構成立て」をして韻を踏みながら表現できるものなのだろうか、という疑問である。さらに現代人である私はガストン・バシュラールの次の言葉※33を思い起こすのである。『他のあらゆる形而上学的経験が、果てもない前置きをもって準備されるのに対して、詩は前提、原則、方法、証明といったものを一切拒否する-「詩的瞬間と形而上学的瞬間」』と。
 ポオは『構成の原理』を書いた意図について自分の創作方法の秘密を明かすのだともいっている。

 ぼく自身はといえば、いま言ったような嫌悪は感じないし、いつだって自作の進行過程を回顧するのはたやすいいことだと思っている。それに分解とか再構成とかいった必須ともいうべきことに対する関心は、分析を受ける作品に対して実際に懐いている、或いは懐いていると思っている関心とは全然別個なものだから、ぼくが自作の一つをとって、その創作方法を明かしても、礼に悖るとは思えない。
  -『構成の原理』篠田一士訳-

 だがしかし、ポオは同じくこの『構成の原理』において書いているところのものに表現者としての本性もしっかり書いていることも思い出さなくてはいけない。現に彼は『他方ぼくだって、結末に至るまでの過程をもう一遍辿ることができるということが、どんな作家にでも当て嵌まるわけではないことぐらい承知している。総じて連想は雑然と浮かんでくるものであって、同じく雑然と追っているうちに忘れてしまうものだ。-構成の原理-』と書いていて、つまりポオもその中に含まれうるということも示唆していると言えるだろう。そうであれば、この論じたいが前半部分の論理と中半部分の論理に矛盾を含んでいることにもなるし、ある意味ではこの『構成の原理』自体がもっているものは1年後という後日に書かれた『大鴉』への一遍の分析にしか過ぎないことにもなる。それも作者自身がその作品の批判というものを排除した上で批評しているのである。つまりそれは厳密な上での「批評」ではないのも明らかであり悪くいえば「解説書」にしか過ぎない。無論それはそれで含みうる論の中に詩作に対しての「矛盾」を捨象しても価値あることは認めなければならない。だが詩作品は作者の観念の代理物ではない。ポオにとっての大作(だと彼自身は思っているはずである)である『大鴉』を少しでも認知されることも望んでいたはずである。またそれが世間がポオをもっと認知してくれるはずだという、いわば一種の確信犯的な思惑によって書かれたと思わざるを得ない。それを愚かであると言うべき言葉を今日の我々は持つことは出来ないし、そこには今も文学の世界に於いて問われている問題をあまりにも多く含んでいるからである。つまり決して古くない問題をポオ自身が我々に伝えているからだともいえる。そういった意味で言うならば『構成の原理』には読むべきものはあるということになるだろう。実際のところこの『構成の原理』は当時ポオが意図したように読まれたのであろうかと考えを巡らせてみると、多分彼の思惑と大きく離れたところにしかアメリカ文学界みたいなものがなかったのであり、もはや世間は次の時代にまさに入ろうとしていたとも言えるだろう。当時はそれを裏付けるかのようにポオの作品全体は世間では怪奇に満ちて謎めいた大衆作家として二、三編程度が読まれる程度であり、広くアメリカで文学的に認知されうることもなく、やがて朽ち果てた十字架のように忘れ去られてゆく。これはある意味ではアメリカがヨーロッパよりいち早く近代資本主義から現代資本主義の台頭の中で目覚めてゆくという大きな歴史の必然の中で一人の作家が蹂躙されてゆく姿を我々に見せているといえる。一つの近代が終わる時の末期の姿をヨーロッパに先駆けてポオが見せてくれるのであり、それゆえその詩群も普遍性を纏っているのだ。つまり悲しいことにポオが認知されうるまでには相当の年月を待つしかなかったのである。W・H・オーデンがいう次の言葉はポオの置かれた立場をいみじくも代弁していると思っている。つまり20世紀の中頃になってようやくポオの評価がされはじめたということでもある。

まず最初に、彼の墓は二十六年間も墓標さえ建てられずに放置され-それがついに建てられることになったときには、その建立式に出席した唯一のアメリカ作家はホイットマンだけであったが、彼は今日では二、三の学者の一生の仕事の対象になる危険性にさらされている。学者は、むろん、たいへん有用である。というのは、彼らの献身的な仕事によってはじめて、ポーはあらゆる作家が望むような読者にめぐり合えるかもしれないからである。
  -W・H・オーデン(八木敏雄訳)-

 さて、我々は再度、詩表現における韻律の問題に立ちかえらなければならない。ポオの他の詩たとえば『アナベル・リィAnnabel Lee』※34もその女の名前が読みやすい韻を響かせており、詩表現として優れているかを別として誰でもが口ずさみ易いものとなっておりアメリカに於いてもポピュラーな詩である。そしていずれの女も死んでしまったことに対しての男の追慕であることも共通している。また『大鴉』で詠まれている死んだ恋人の名はレノーアLenoreとなっており名前そのものがポオがいうような「子音のrと母音のo」でもあり、別詩である『レノーアLenore』※35とも同じくしている。それを考慮に入れると暗示的でもありポオが如何に音韻を意識していたかも分かるだろう。だがしかし、一方でそのリフレィンに伴う韻律についてW・H・オーデンは英語という言語圏を同じくする詩人として以下のように述べていることを書きとめておきたい。

だが問いと答えは別にしても、語の筋が自然に流れなければ、詩の効果が損なわれる危険はまだあり、ポーは英詩ではめったに用いない女性韻※36を多用する韻律法を採用したものの、これが筋の流れに対抗し、ときには詩に悪効果をもたらすことになった。

Not the least obeisance made he; not a minute stopped or stayed he;
But, with mien of lord or lady, perched above my chamber door,
(鴉は会釈ひとつするでなし、ひとときもとどまらず、とまらず、
貴人か貴婦人かの物腰で、私の部屋の戸のうえにとまった)

ここで"stopped or stayed he"とか"lord or lady"とかのように同意語を反復する必然性は語り手にも、その場の情況にもなく、ただ韻律の必要からそうなったに過ぎない。
  -W・H・オーデン(八木敏雄訳)-

 また同様に「ユーラルーム-バラードUlalume-A Ballad」※37についてもポオが母音にこだわったばかりにその音色の犠牲になって詩全体のもつ意味が判然としなくなったと手厳しく批判している。
 わたしは詩表現の持ちうる像領域を空間性に流れてゆく意味喩と深く時間化度を増してゆく暗喩というものによって成り立っているという言い方をした。大方の近代詩はそのように成り立っているからである。『大鴉』においては恋人を亡くした学者が風格のある鴉の出現によった学者の心象の変化を描いている。そして更にいうならばポオのいうように彼が拘りを持った言葉であるところのリフレィンによる"Nevermore"とは連句の中でどのような姿を見せるのだろうかと言うことにもなると思う。つまり"Nevermore"の意味性の変容がどのように為されたのかという表現の本質的な部分に触れなければならない。11連句にまたがる中で繰り返される"Nevermore"は無論ポオに言わせれば構成され意図されたものであり、誰が何といおうとも音韻を最適に配置したということになる。さらにもうひとつはわたしにとっては詩が持ちうる喩の力学に於いてどのように深みを帯びて像領域を彼がいう通りに果たしているのだろうかということになる。つまり言葉が"Nevermore"という同じ言葉なのに描く像領域がどのように変わるのかということになる。つまりポオのいうように劇的なまでに美しい詩になっているのかということでもある。そしてついでながら全てに於いて『構成の原理』の通りに詩は出来上がっていたのかということにもなるのだ。だがしかし詩表現は直観による垂直時間の馳せ上がりである。極めて言語表現における時間化度が濃密になったところに表現美が現れると言い換えれる。つまり『構成の原理』に基づくようにして詩は書かれないと言うことにもなるのだ。

第Ⅶ章-The Raven『大鴉』という詩篇は何を意味するのか-
 下記に『大鴉』の全原文を載せ、"nothing more"から"Nevermore"を結びとする「全連」を分けて、つまり長くはなるが『大鴉』を「連」毎の松村達雄訳と共に掲載した。そして『大鴉』そのものについて語る前に、ポオは詩人であるが小説家でもあった。当たり前のことではあるが言っておきたい。

         The Raven[First published in 1845]


Once upon a midnight dreary, while I pondered weak and weary,
Over many a quaint and curious volume of forgotten lore,
While I nodded, nearly napping, suddenly there came a tapping,
As of some one gently rapping, rapping at my chamber door.
`'Tis some visitor,' I muttered, `tapping at my chamber door -
Only this, and nothing more.'
あるわびしい真夜中のこと、心はいたく倦み疲れて、
遠き世の学問をつたえる奇書の数々をひもといていた-
こくりこくり思わずまどろみかけたとき、だしぬけにこつこつ戸をたたく音、
だれやらがそっと静かにわが部屋の戸をたたいている。
わたしはつぶやいた、「だれか人が来て、部屋の戸をたたいているようだ-
なに、ほかでもない、ただそれだけのこと」


Ah, distinctly I remember it was in the bleak December,
And each separate dying ember wrought its ghost upon the floor.
Eagerly I wished the morrow; - vainly I had sought to borrow
From my books surcease of sorrow - sorrow for the lost Lenore -
For the rare and radiant maiden whom the angels named Lenore -
Nameless here for evermore.
ああ、忘れもせぬ風すさぶ12月、
暖炉の火がつぎつぎと燃えつきるごとに、床には怪しい影がゆらめく。
ひたすらに待たれるは朝の訪れ-
わが嘆き-亡きレノアを懐うわが嘆き、忘れんとして空しくも書物をひもとく-
いま天使たちがレノアと呼ぶ、たぐい稀れな、光り輝くごとき乙女-
とこ永久にうつせみの世にその名はなく。


And the silken sad uncertain rustling of each purple curtain
Thrilled me - filled me with fantastic terrors never felt before;
So that now, to still the beating of my heart, I stood repeating
`'Tis some visitor entreating entrance at my chamber door -
Some late visitor entreating entrance at my chamber door; -
This it is, and nothing more,'
真紅のカーテンのあやしくも悲しげな絹ずれの音は、
わが心をさわがせ-わが胸をためしも知らぬ奇怪なる恐怖の数々でみたす。
そこでわが胸さわぎを静めんものと、わたしはたたずんだまままた繰り返す。
「だれかがやって来て、部屋の戸をあけてくれとたたいている-
なに、ほかでもない、ただそれだけのこと」


Presently my soul grew stronger; hesitating then no longer,
`Sir,' said I, `or Madam, truly your forgiveness I implore;
But the fact is I was napping, and so gently you came rapping,
And so faintly you came tapping, tapping at my chamber door,
That I scarce was sure I heard you' - here I opened wide the door; -
Darkness there, and nothing more.
やがてもっと大胆になり、今はためらうこともなく、わたしは声をかける、
「どなたですか、いあや、御婦人かも存じませんが、どうも失礼申しました、
じつはうとうとしておりまして、それにほんとにそっと来てたたかれたものですから、
ほんとにそっと来て、部屋の戸をたたかれたものですから、
どうも音がしたのやら、しなかったのやら」-そういってわたしはからりと戸を開けた-
そとは真くらやみ、ただそれだけのこと。


Deep into that darkness peering, long I stood there wondering, fearing,
Doubting, dreaming dreams no mortal ever dared to dream before
But the silence was unbroken, and the darkness gave no token,
And the only word there spoken was the whispered word, `Lenore!'
This I whispered, and an echo murmured back the word, `Lenore!'
Merely this and nothing more.
くらやみの奥をのぞき込み、怪しみつつ怖れつついつまでもたたずんでいた、
いぶかりながら、且つ、何人もいまだ知らぬ夢を夢みながら。
だが、沈黙は破れず、静寂は何の手答えも示さない、
そこでわたしがささやいたのはただ一言、「レノア!」
そうささやくと、こだまは同じ言葉を返して、「レノア!」
ほかでもない、ただそれだけのこと。


Back into the chamber turning, all my soul within me burning,
Soon again I heard a tapping somewhat louder than before.
`Surely,' said I, `surely that is something at my window lattice;
Let me see then, what thereat is, and this mystery explore -
Let my heart be still a moment and this mystery explore; -
'Tis the wind and nothing more!'
燃ゆる思いにあふれて、部屋の中へと取って返せば、
やがてまたきこえたのは前よりはやや強く戸をたたく音。
わたしはつぶやいた、「たしかに、たしかに窓格子のところに何かがいるにちがいない。
さて何がいるのかたしかめて、この謎をはっきりさせよう-
しばし心を静めて、この謎を確かめよう-
なに、風のせいだ、ただそれだけのこと!」


Open here I flung the shutter, when, with many a flirt and flutter,
In there stepped a stately raven※38 of the saintly days of yore.
Not the least obeisance made he; not a minute stopped or stayed he;
But, with mien of lord or lady, perched above my chamber door -
Perched upon a bust of Pallas※39 just above my chamber door -
Perched, and sat, and nothing more.
よろい戸をからりと開ければ、ひとしきり羽ばたきながら、
下り立ったのは、神さびしそのかみの威風堂々たる鴉。
頭一つ下げるでもなく、一刻もじっとはしていない。
さながら王侯か貴女のごとき面持ちで、わが部屋の戸の上へと止まった-
部屋の戸の真うえ、パラスの像の上につと止まって-
止まったままじっとしている、ただそれだけのこと。


Then this ebony bird beguiling my sad fancy into smiling,
By the grave and stern decorum of the countenance it wore,
`Though thy crest be shorn and shaven, thou,' I said, `art sure no craven.
Ghastly grim and ancient raven wandering from the nightly shore -
Tell me what thy lordly name is on the Night's Plutonian shore!'
Quoth the raven, `Nevermore.'
やがてこの漆黒の鳥のつんとすました物々しい顔つきに、
沈んだ気分もついに解きほぐされて微笑と変わり、わたしはつぶやいた。
「鶏冠こそ短く削ぎ取られてはいるものの、よもやお前は
夜の岸辺からさ迷い出た、臆病者の、うす気味悪いそのかみの鴉ではあるまい-
夜が統べる黄泉の国の岸辺にあって、王者たるお前の名は何というのか」
鴉は答えて、「またと告げじ」


Much I marvelled this ungainly fowl to hear discourse so plainly,
Though its answer little meaning - little relevancy bore;
For we cannot help agreeing that no living human being
Ever yet was blessed with seeing bird above his chamber door -
Bird or beast above the sculptured bust above his chamber door,
With such name as `Nevermore.'
この見苦しい鳥がかくも明瞭に語るのを耳にして、わたしはただただ驚嘆した、
その答には意味もなく-的はずれとは思いながらも。
たれしも思わないだろうか、いかなる者もいまだかって、
その部屋の戸の上に、戸の上なる彫像に、かかる鳥を-
鳥かはた獣か、かかるものを眺めたためしもないことを、
「またと告げじ」と、かかる名で呼ばれるものを。


But the raven, sitting lonely on the placid bust, spoke only,
That one word, as if his soul in that one word he did outpour.
Nothing further then he uttered - not a feather then he fluttered -
Till I scarcely more than muttered `Other friends have flown before -
On the morrow will he leave me, as my hopes have flown before.'
Then the bird said, `Nevermore.'
だが、鴉は静かな像にひとり止まって、
さながら魂すべてをそこにこめたかのようにそのひと言をいうばかり。
あとは何ひとつ語らず-羽根一枚すら動かしもしない、
ついにささやくようにしてわたしは、「お前はほかの仲間もすでに飛び去った-
明日ともなれば、数々の希望がわたしを見捨てたように、
お前もまたわたしのもとを飛び去るのであろう」
鴉は答えて「またと去らじ」


Startled at the stillness broken by reply so aptly spoken,
`Doubtless,' said I, `what it utters is its only stock and store,
Caught from some unhappy master whom unmerciful disaster
Followed fast and followed faster till his songs one burden bore -
Till the dirges of his hope that melancholy burden bore
Of "Never-Nevermore."
このうまい答えが沈黙を破ってきこえたのに驚いて、
私は思った。「たしかにこのひと言は、だれか不幸な飼主から、
習いおぼえたただ一つのきまり文句、
つれない不運につけ廻され追いまわされ、
飼主の唄にきまって出てくるのはこのただ一つの繰り返し-
その希望を葬う挽歌はまたしても悲しげなこの繰り返し、
『ゆめ、ふたたび-またとあらじ』」


But the raven still beguiling all my sad soul into smiling,
Straight I wheeled a cushioned seat in front of bird and bust and door;
Then, upon the velvet sinking, I betook myself to linking
Fancy unto fancy, thinking what this ominous bird of yore -
What this grim, ungainly, gaunt, and ominous bird of yore
Meant in croaking `Nevermore.'
だが、鴉はなおもわが悲しい思いを微笑みへと誘い、
わたしは褥おいた椅子をくるりとまわして、鳥と彫像と戸に面と向かった。
ふかぶかとびろうどの褥に身をうずめて、次から次へと空想をはせ、
いったい、そのかみのこの不吉な鳥は、とわたしは考えだす-
いったい、そのかみの、やせさらばえた、見苦しく、すさまじい不吉な鳥は、
どんなつもりで啼いているのか、「またとあらじ」と。


This I sat engaged in guessing, but no syllable expressing
To the fowl whose fiery eyes now burned into my bosom's core;
This and more I sat divining, with my head at ease reclining
On the cushion's velvet violet lining that the lamp-light gloated o'er,
But whose velvet violet lining with the lamp-light gloating o'er,
She shall press, ah, Nevermore!
わたしは鳥のこころに思いを致しながら坐していたが、ひと言も問いかけはしなかった、
火と燃えるその眼はわが胸の奥をも灼いた。
ともしびの光浴びるびろうどの褥に
やすらかにわが頭をもたらせて、わたしはあれこれと推しはかった、
しかし、ともしびの光浴びるそのびろうどの褥に
かのひとの身をよせるときは、ああ、またとあらじ。


Then, methought, the air grew denser, perfumed from an unseen censer
Swung by angels whose faint foot-falls tinkled on the tufted floor.
`Wretch,' I cried, `thy God hath lent thee - by these angels he has sent thee
Respite - respite and nepenthe from thy memories of Lenore!
Quaff, oh quaff this kind nepenthe, and forget this lost Lenore!'
Quoth the raven, `Nevermore.'
やわらかな毛氈の床、足音もかろく歩む天使たちの手に揺れる
見えざる香炉から香は流れ、部屋の空気も濃くなったかと思えるばかり。
わたしは叫んだ、「哀れなるものよ、神はなんじに-この天使たちの手によって神はなんじに
休息を-レノアの思い出を消す休息と忘れ薬を贈りたもうた。
飲め、この心の傷を癒す忘れ薬を飲みほして、今は亡きレノアを忘れよ!」
鴉は答えて、「またと忘れじ!」


`Prophet!' said I, `thing of evil! - prophet still, if bird or devil!
Whether tempter sent, or whether tempest tossed thee here ashore,
Desolate yet all undaunted, on this desert land enchanted
On this home by horror haunted - tell me truly, I implore -
Is there - is there balm in Gilead? - tell me - tell me, I implore!'
Quoth the raven, `Nevermore.'
わたしはいった、この予言者め!災いなる者!-鳥か、はた悪魔か、ともあれ、この予言者め!
サタンがよこしたか、あらしが吹き送ったか、お前をこの岸に、
すさまじい、されどおめず臆せぬお前を、この魅せられた荒涼の地に、
「恐怖」に憑かれたこの家に、-お願いだから教えてもらいたい-
そもそも-そもそもギリアドには痛みを癒す香油はあるのか-
どうか-どうかそれを教えてもらいたい!
そのとき鴉はいった、「またとあらじ」


`Prophet!' said I, `thing of evil! - prophet still, if bird or devil!
By that Heaven that bends above us - by that God we both adore -
Tell this soul with sorrow laden if, within the distant Aidenn,※40
It shall clasp a sainted maiden whom the angels named Lenore -
Clasp a rare and radiant maiden, whom the angels named Lenore?'
Quoth the raven, `Nevermore.'
わたしはいった、「この予言者め!災いなる者!-鳥か悪魔か、ともあれこの予言者め!
頭上に弧を描くこの天にかけて-われらが共にあがめたっとぶ神にかけて-
悲しみにひしがれたこの魂に告げよ、はるかなるエデンの園で、
天使たちがレノアと呼ぶ天国の乙女をわたしが抱くときがあるだろうか-
天使たちがレノアと呼ぶ、世にも稀な輝くばかりの乙女をだくときがあるだろうか」
鴉は答えて、「またとあらじ」


`Be that word our sign of parting, bird or fiend!' I shrieked upstarting -
`Get thee back into the tempest and the Night's Plutonian shore!
Leave no black plume as a token of that lie thy soul hath spoken!
Leave my loneliness unbroken! - quit the bust above my door!
Take thy beak from out my heart, and take thy form from off my door!'
Quoth the raven, `Nevermore.'
「鳥か、はたまた悪魔か、その言葉をわれわれの別れの挨拶としよう!」と、
わたしは立ち上がりながら叫んだ-
「さあ、あらしの中へ、夜の統べる黄泉の国の岸辺へと帰れ!
お前が口にした嘘言のしるしのその黒い羽根を、一枚なりともあとに残すな!
わたしをこのままそっと一人きりにして-戸の上の胸像から立ち去れ!
わが胸からお前の嘴を抜き去り、お前の姿をわが戸の上からかき消せ!」
鴉答えて、「またと去らじ」


And the raven, never flitting, still is sitting, still is sitting
On the pallid bust of Pallas just above my chamber door;
And his eyes have all the seeming of a demon's that is dreaming,
And the lamp-light o'er him streaming throws his shadow on the floor;
And my soul from out that shadow that lies floating on the floor
Shall be lifted - Nevermore!
かくて鴉は飛ぼうともせず、なおも止まったままでいる、そのままじっと止まっている、
わが部屋の戸の真うえ、蒼ざめたパラスの像に。
その眼はさながらに夢みる悪魔の眼、
ともしびの光は鴉にそそぎ、その影を床の上に落とす。
床に落ちたその影からわが魂が離れ去ることは、
離れ去ることは-またとあらじ!

  -松村達雄訳-

 読んだ感じはいかがであろうか。韻も原文を見ればだいたいのところもつかめるだろう。意味としての表層は訳文から少しは読み取れるだろうし訳文を飛ばして一挙に原文を読み込むこともいいだろう。ポオの規定にかかわらず詩としては随分長く感じられたのではないかと思う。いかにもポオの中では長文詩でもあることもわかる。そしてそれは読むという視覚からと、それが言語を異なることにすることから一旦時間的な了解作業を経ているからだとも云えるだろう。もっともそのことを除いたとしてもこの詩は様々なものを持っている。おそらくは朗読詩として聴覚を通して了解したならば音を媒介させることになり違う姿も見せると言うこともいえる。わたしはこの詩を読んでいるときに最初に思ったのは散文世界を感じさせたと言うことであった。いかにも全体的に物語的な要素を深く漂わせているといってもいいだろう。なぜにそう感じさせたのかは1から始まり7までにある結び言葉"nothing more"などを用いて作った「連」に空間性に拡張されてゆく表現を多く使っているからである。ドアをたたく音とか部屋の物とかがそれをさらに押し広げてゆく。そしてまた学者の悲嘆がなぜかも指し示し、またその死者への思いに耽っているのが真夜中の部屋という密室的空間の設定であることも示すための「連」でもある。恋人を失ったこの学者の心象を暖炉の燃える炎の影が床で揺らぐという隠喩で表し次の連の喩ではそれが真紅のカーテンにとって代わられる。そしてポオらしくというか、段階をひとつひとつ上げながら不安を煽り、それはもはや戦きとよべるまでの気持ちの昂ぶりを示し、その戸を開けようとする衝動にまで高めてゆく。またそれは死者であり、恋人であったレノアに対する激しい追慕の念であり孤独に浸っていた密室であるはずの部屋の主人たる学者は誰かが戸をたたく音のために何度か体を移動さえする。いうならば"nothing more"の意味性をそれぞれの当該連の隠喩によって意味を変えさせ、つまりここでの男(学者)の表象である聴覚や視覚をそれを顕す言語表現によって言葉の持つ像領域そのものを変換させているということになる。『"nothing more"=ただそれだけのこと』の指し示す内容に変化を持たせているということになる。ポオが1から6までの「連」の間で行っていることのひとつにレノアという佳人の死を織り込んでいることであり、彼女が死して再び男(学者)の元にやって来るのではないかという思慕の念と共に全く相反する恐れも描いている。そしてこのような一種の「死美人」※41はポオが様々な作品で取り上げているのでその作品の説明をすることをしないが、この『大鴉』においても死者が生者として甦るのではなく、死者のままやって来るということを暗示していて夢幻的な暗闇の美を最初の連で創りあげているということにもなるだろう。そしてまたこの得体の知れない"visitor"が戸をたたくという決して姿を現さない登場の仕方をし、連を重ねるごとに、その決して像を結べぬ気配を伴う領域に恐怖という意匠を感じさせながら進行してゆく。そしてその先には悲劇を通り越した「絶望」というものが待っていたとわれわれは読み解かなければならないだろう。エンディングまでに進む様々の喩の裏に隠れていて結び句に至る"Nevermore"とはまさしく「絶望」という言葉の象徴なのであり、それゆえにこの『大鴉』は詩たらしめているのだと思う。文語的に装った『大鴉』も「悲劇」にはヒロインが必要であるという構成立てになっていて、ポオの得意とする「美女の死物語」の雰囲気を漂わせているといえよう。たとえ恋人が死者になっていても追慕の念の消えない男の被虐的心理を詩として詠おうとしているのである。愛と死という当時の大衆文化※42でもてはやされそうなテーマであるともいえる。またそのことは表現に劇的な意味をもたせるためには既成言語帯に依存するしかなく、また旧時代からの韻律にこだわることによって従来の古典的表現法を踏襲するしかなかったともいえる。またそうでなければ先立つイギリス「文芸」※43に慣れさせられていた一般大衆が読むと言うこともなかったのではないかと思われる。
 アメリカの19世紀の時代は当然といえ18世紀を引きずっていたのであり、独立戦争後イギリス文化の影響からようやく脱却しようとしている時代でもあった。そしてアメリカ産業資本主義の急激な発展※44は機械システムの導入をあらゆる業の中に組み入れ、それと共に物流システムも発展してゆくことになった。出版業もこの例外になることは出来ずに「読み物雑誌」を量産化し国内全域に販路を見いだしてゆくという時代も迎えていた。急激な雑誌文化の伸長は読者層を増やすと言うことがあっても知的層を増やすこととイコールとはならないことも現実として残った。新たに出現してきた大衆と呼ばれる人達の意識の位相は無学に近いままであったのである。雑誌出版社の編集者という立場にいたポオもまさにそういう時代の真っ只中にいて大衆文化と純粋芸術のはざまにいたということである。
『ポオの年譜や書簡』を思い起こして欲しいのだが『大鴉』がニューヨーク・イブニング・ミラー誌によって世に出たのは1845年のことであり『構成の原理“The Philosophy of Composition”』が書かれた1846年にニューヨークへ引っ越ししている。14才の従妹Virginia Clemmと結婚したのは1836年であり1847年にはヴァージニアが亡くなっている。「死美人」のイメージが彼の作品の中になぜ執拗に描かれたのかを最小限書いておきたいと思う。そしてそれが『大鴉』の位置関係とポオの書いた言葉の持ちうる解読にも繋がるものだとも思っている。
 ヴァージニアと結婚して数年の間その母を含めた三人の生活は貧乏であったが愛に満ちた生活であったと想像するに難くない。だが1842年に愛妻ヴァージニアが喀血し5年後には死が待っていたと云う状況にあった。その通り『構成の原理』を書いた翌年にヴァージニアは帰らぬ人となりその二年後1849年ポー自身も絶望の果てに死んでいる。死という影がその生活過程に於いても具体的なものを伴ってポーの脳裏から離れなかったと言うことである。詩篇『大鴉』は大衆文化の狭間に於いてのいわば二律背反とも言うべきポオの芸術主義と生活過程においてのふたつの挫折というポオが持ちえていただろう予感、そういった背景すべてを象徴しているのである。『大鴉』の中で鴉自身が登場してきてからの学者※45との問答を読めばそれがすべて象徴的に暗示されているという解読が出来るのである。そう、その通り、学者の期待感を秘めたどのような問いにも鴉は「絶望」という答えを投げ返してくるではないか。いかにも、「愛と死」という大衆受けするテーマの他にポオはあらゆる事象に対しての「絶望」という言葉を無意識に於いてそこに挿入したのである。そしてその絶望は『大鴉』を書いた四年後1849年に道端で倒れた彼の死※46をもって具現化して40年にわたる人生の幕を閉じる。

第Ⅷ章-ポオとその現代的意義-
 さてどうやら私の中ではこの論も終わりを告げた。詩篇『大鴉』を通して独立戦争後に急激に発展し始めたアメリカ社会における文学というものの一端でもこの小論によって窺うことが出来れば、これに叶うことはないと思っている。また、ポオ以外の同時代であるナサニエル・ホーソンやヘンリー・ワーズワース・ロングフェローをはじめとする作家や詩人にも触れたかったがそれは私の任でもなく文学者や評論家たちがすでに解き明かしている分野でもある。また『大鴉』のみならずエドガー・アラン・ポオその人についても山ほどの書物や資料も出ている。そういった意味でも私の論は先人達の駆け入った道標があり、それを参照させて貰ったと言うことは幸運でもあった。先人達の遺産に感謝したいと思う。また、ポーの様々な軌跡を資料を辿っていた中で文学と社会という一種の二律背反したものをあらためて実感させて貰ったことは大きな収穫であった。言ってみれば過去に於いて教条主義的にまで語られたものにいったん距離を置いて文学というものを見つ直すことが出来たということである。またそれは資本主義が高度に発展してゆこうとする社会の中で文学の価値というものの「値うち」を知ったと言うことでもあるかと思う。そのアメリカ産業資本主義の中で弄ばれてゆくポオの姿は今日の私達にとっても人ごとで片づけられないものをわれわれに教えているのではないかということでもあり売れるものが必ずしも値うちがあるということでないことを現代人であるわれわれが知ることが出来たということでもあった。いわば即物的に値うちがつけられる物の中に芸術はあるものではないという姿をポオの持っていた理想の中に見たような気がするからであった。また大衆の姿というものにポオがいつも悩まされていたと言うことも膨大な資料の中で知ることが出来たということもついでに書きとめておきたい。いわゆる愚民化が高度に発展した社会が現代であることも踏まえポオが死して一世紀半後も同じ問いに我々が立たされているのだと言うことでもあった。
 また才人であったポオを考えるにあたり私は次の吉本隆明の言葉を思い出していた。

 かれは、ある真が表現されるためには、仮構を媒介にする方法しかないと考えているか、あるいはすべての真は直接性によってなりたつとかんがえているか、どちらかである。あるいは、かれはじぶんを直接愛憎しているか、できるだけじぶんから遠ざかった姿での、じぶんを愛憎しているかのどちらかである。また、かれはじぶんがある直接のふんいきとして存在していると信じているか、他からみられたときだけじぶんが、真のじぶんとして存在するとかんがえているか、どちらかである。資質としてかんがえれば、詩的な資質も散文的な資質も存在している。
  -「言語にとって美とはなにか 第Ⅱ巻 Ⅴ章 構成論」(吉本隆明)-

 これからするといったいポオという才人は詩人であるのか小説家であるのかということになるが、今の私には両方であるとしてしか答えることが出来ない。
 終わりにあたってこの論を書くきっかけを作り、尚かつ若さで溢れた「The Raven」の試訳を提供してくれたnoon75氏に感謝したい。彼から受けた様々な叱咤激励を決して忘れるものではない。またこの小論については他人の指摘を待つまでもなく中途半端で終わった観も否定しないし、それも充分に自覚していることである。またポオの詩篇という限定の中で論じられていったものでもある。とはいえ、それが成功したかどうかは自信があるわけでもなく、それもこれも筆力のおよばないことであると思っていただいて御容赦願いたいところである。
  -この稿終了-

記:この稿ははてなダイアリにおいて「スタイルとはなにか 9」と名付けられ、平成19年3月4日から書き始められ同年5月22日まで十二回にわたって連載という形で書かれた。そしてこの論は再度編集されここに転載されたものである。



※2エドガー・アラン・ポオの幻想的な名篇The Ravenをギュスターヴ・ドレの挿画26葉を加えた幻想的な一冊にした。日夏耿之介の名訳といわれている。
※3埴谷 雄高はにや ゆたか、男性、1909年12月19日 - 1997年2月19日は、小説家、評論家。本名は、般若 豊はんにゃ ゆたか。日本が生んだ観念小説「死霊」の作者。平野謙、本多秋五らと「近代文学」を創刊した。
※4ダニエル・デフォーDaniel Defoe1660年 ? 1731年4月21日:ロビンソン・クルーソーを書いている。
※5シャルル・ピエール・ボードレールCharles Pierre Baudelaire:1821年4月9日 - 1867年8月31日はフランスの批評家、詩人。詩篇としては『悪の華』(Les fleurs du mal)、『パリの憂鬱』(Petits poemes en prose, Spleen de Paris)などがあり、そのほか美術、音楽、文学批評に優れたものを残している。
※6ところがこのポオーの出自については当時色々な問題が多く、ボードレールがテクストとして参考にしたルーファス・グリズウオールドなる編集者の手になる1850年出版の『故エドガー・アラン・ポオ全集』の中に於いてもポオーの出生やその後についての誤謬が多いと言われている。また、ポオーとグリズウオールドとの関係についても、Graham's Magazine編集者の前任者、後任者という関係だけではなく不明な点も多い。またポー自身が都合上グリズウオールドに経歴年を偽らざるを得ないこともあった。
※7明らかに父方の祖父の誤り
※8ラファイエットについてはウイキペディアを参照のこと。
※9これはジョン・ポオのことであるが、彼の妻となったのはジェームス・マック・プライドの娘ではなく、姉妹であると今日判明している。
※10加島 祥造かじましょうぞう. 1923. 東京生まれ 早稲田大学・英文科卒業 カリフォルニア州クレアモント大学・大学院留学 信州大学、横浜国立大学、青山学院女子短期大学で英 文学を教えた後、現在信州伊那谷に住む。「荒地」に参加する。英米文学者、詩人、画家. 老子の「タオ」を日本語で出版。
※11入沢康夫訳では原題でも使われているタマレーンがチムール大帝の別称であるところから詩題をチムール大帝としている。
※12この詩集は既発表のものも含め11篇で序には最初の詩篇と書かれる。-橋田久康「ポオ年譜」-より。これは第一詩集が借金持ちの身分を隠すために匿名であったからだとすると、当初担いだその借金についてはこの頃解決していたのかも知れない。
※13ガストン・バシュラールGaston Bashelard:1884-1962年。フランスの哲学者。ソルボンヌ大学教授。科学史、科学哲学専攻。『大地と休息の夢想』La Terre et les reveries du repos、『空間の詩学』La Poetique de l'espaceなどの著書がある。
※14アレン・テート(1899-1979):アメリカ南部の詩人、批評家。20世紀前半アメリカ南部で興った文学運動、いわゆる「新批評」の論客。「南部軍の死者に捧げるオード」、「地中海」などの詩がある。「わが従兄ポオ氏」Our Cousin, Mr. Poeを書いている。
※15イザベル・ムーニエIsabelle Meunier参照
※161830年代から1840年代は「雑誌の黄金時代」と呼ばれ50年には四、五千種にものぼったといわれている。
※17ニューヨーク・トリビューン:1841年には、ホレス・グリーリーが「ニューヨーク・トリビューン」紙を創刊し、同紙はまもなく国内で最も大きな影響力を持つ新聞となった。
※18J・W・クラッチ:Krutch, Joseph Wood (krooch) , 1893?1970,著作としては「Edgar Allan Poe: A Study in Genius (1926)」などがある。 American author, editor, and teacher, b. Knoxville, Tenn., grad. Univ. of Tennessee, 1915, Ph.D. Columbia, 1923. He was on the editorial staff of the Nation (1924?52), and held a professorship at Columbia (1937?53).参照元:Free Encyclopedia Articles at Questia.com Online Library
※19エイブラハム・リンカーン:1809年2月12日 - 1865年4月15日は、第16代アメリカ合衆国大統領。初の共和党所属大統領。彼の大統領就任はアメリカ合衆国を二分し、南北戦争に結びついた。アメリカ合衆国とアメリカ連合国の戦いであるAmerican Civil War, 1861年-1865年は文字通りの「総力戦」だった。
※20アルフレッド・テニソン1809年 - 1892年、イギリスの桂冠詩人。『Poems by Alfred Tennyson』、『イノック・アーデン Enoch Arden』等がある。
※21後日ではあるが三上先生の『ワタリガラスcommon ravenに出会っていた!』によると北海道にやはり生息しているようだ。写真が載っている。
※22イギリスに於いては、アーサー王が魔法をかけられてワタリガラス(大ガラス)に姿を変えられたと伝えられる。この事から、ワタリガラスを傷付ける事は、アーサー王(さらには英国王室)に対する反逆とも言われ、不吉な事を招くとされている。
※23神武東征の折、創造神である高御産巣日神タカミムスビから神武天皇に遣わされ熊野から大和への道案内をしたとされるカラス
※24カラス:Franz Kafka,フランツ・カフカ(1883年7月3日 - 1924年6月3日)のカフカつまりkavkaをチェコ語でカラスを指すということを『カフカ短編集』の翻訳者である池内紀がその「あとがき」で述べている。フランツの父であるヘルマン・カフカはユダヤ系の小間物商人であった。またその商店の商標にカラスを図案としたとあり、ヘルマン自身がカラスに対して恥じ入っていないという事を意味している。
※25マリー・ボナパルトMarie Bonaparteフロイト理論を早くからフランス語に翻訳した。フロイトの最後までを看取った女性としても特別な存在であり、その生涯はカトリーヌ・ドヌーヴ主演によって2004年にテレビ作品化されていて、80歳(フロイト)の男性と50歳(プリンセス・マリー)の女性のラブ・ストーリーとして描かれている。著書としては『クロノス・エロス・タナトス―時間・愛・死』Chronos,Eros,Thanatosなどがある。
※26『構成の原理』篠田一士訳、The Philosophy of Composition「構成の哲学」と訳されている場合もある。この論では『構成の原理』とし、The Ravenを『大鴉』とした。『構成の原理』の英語原文についてはPhilosophy_of_Compositionを参照して欲しい。
※27チャールズ・ディケンズCharles John Huffam Dickens, 1812年2月7日 - 1870年6月9日は、イギリスのヴィクトリア朝を代表する小説家。自伝的要素が強い『デイヴィッド・コパフィールド』をはじめ『二都物語』、『大いなる遺産』などの作品がある。
※28ウィリアム・ゴドウィンWilliam Godwin, 1756年3月3日-1836年4月7日。イギリスの無政府主義者、ジャーナリスト。小説『ケイレブ・ウィリアムズ Things as they are,or theadventures of Caleb Williams,1794年』と論文集『探求者』(1797年)、回想『メアリー・ウルストンクラーフトの思い出』などがある。
※29ウィスタン・ヒュー・オーデンWystan Hugh Auden, 1907年2月21日 - 1973年9月29日詩人。英国ヨークに生まれる。1946年にアメリカ国籍を取得。
※30加島祥造がThe Ravenを訳したあとがきでそう名づけている。
※31The Ravenの日本語訳として私が参照している訳者は以下の六人である。阿部保松村達雄福永武彦加島祥造安藤邦男noon75の六氏の訳文を参照させて貰っている。そしてあえてもうひとり付け加えれば自分と言うことになる。ただしへっぽこ翻訳しかできないので除外した。
※32「大鴉」の全文と音声朗読については「書架」を参照して欲しい。クリック
※33トップ写真はガストン・バシュラール。以下は『夢見る権利』より引用
※34Annabel Lee:1849年
※35Lenore:1831年
※36feminine rthme:二音節または三音節の押韻で、アクセントのある音節のあとで弱い一(二)音節で終わっているもの。例としてはmotion,notion/fortunate,importunateとかがある。
※37Ulalume-A Ballad:1847年
※38ravenの語源自体は擬音語。アーリア系言語の語源では鴉の鳴き声に近いといわれている
※39パラスはアテネの守護神であり学者の部屋に飾るにふさわしいとされるが、それ以外にも発音したときの響きにも注目して選ばれたといわれている。
※40Edenのことであるがポオはこう綴った。これも音韻からそうしたのではないかと思われる。
※41ポオが死美人にこだわり、また『大鴉』の中でも学者が願う天国においても抱きしめたいとするレノアなる美女への想いの裏には彼が幼年時代から青年期までの間の二人の女性の死のイメージの影があったといわれている。つまり幼くして死別した母親とそれに代わった養母アラン夫人の死であった。最も重要なモチーフとなっているのはポオの病弱な幼妻、ヴァージニアである。
※42ポオは雑誌編集者としても優れた才能を発揮していて大衆が好む物を知っていた。当時のアメリカにおける産業資本主義の発展は今までの農本主義的な中で生きてきた大衆像を変えてしまった社会を迎えていたのである。つまり大衆文化が芽生え初め新たな読者層が出現してきたのである。しかし所詮は大衆文化でしか無く奇をてらった物が人気を集めていた。
※43独立戦争後、著作権フリー状態であったアメリカ出版文化は一斉にイギリス文芸、総じて詩や小説など一切の文化の無秩序かつ大量生産的出版に走った。それは逆に生粋のアメリカの詩人や小説家に出版の機会も奪ったという情況も示している。
※44アメリカは農業社会から工場生産を主体とする産業資本主義社会に変貌を遂げつつあった。そして機械技術の発展は人間をその労働の軽減化を図るものとされ、拠って人間の平等をもたらすとする信条とデモクラシーが結びついた時代でもあり機械文明礼讃が始まったと言える。そして1848年のカリフォルニアでの金の発見がその拍車をかけることにもなった。-参照:「ポーと雑誌文学」(野口啓子)彩流社版-
※45いかにもポオ自身の分身である
※46ヴァージニアを失ってからのポオは完全に生きる気力を無くしていてアルコール漬け同様であったといわれている。またそれが彼の奇言癖を増長しほとんどの友人といわれる者や庇護者と呼べる者達も遠ざかり、孤独の内に死んだ。