2007-05-04

光芒-1-「アーリア人の侵入」

インダス文明の発見

 インダス文明の痕跡は広範囲にわたっている。現に発掘された遺跡間の距離をとってもその範域が推測できるだろう。同一文化を持っていたハラッパー*註1とモヘンジョ・ダロとは約650キロ離れている。今ではそのほかに100以上の遺跡の存在が知られるようになり、その分布地域はインド西海岸沿いに南に広がり、東にタール砂漠を越えてガンジス川流域にまで及んでいるのではないかと言われている。1921年にインドの学者がハラッパーの遺跡を発見する。そのあと1922年にインド人考古学者*註2がモヘンジョ=ダロの遺跡を発見する。イギリス人の考古学者ジョン・マーシャル*註3は1925年からモヘンジョ=ダロ(「死者の丘」の意味)の大規模な発掘作業を開始した。これが通称言われるところのインダス文明の発見である。そして言いようが悪いが、そこからはインダス文明を築いた人間と破壊した人間がいたことが分かっている。そういう意味では特異な遺跡であると言わなければならない。モヘンジョ=ダロが何故に「死者の丘」という意を含めて名付けられたのかはその遺跡内にある屋内跡や街路跡におびただしい老若男女の遺骨が大量に散乱していた事から来ている。そしてそれぞれの遺骨には歴然とした武器による傷痕が刻まれていた。これは外敵による侵入があり大量虐殺があった事を物語っている。殺戮者はアーリア人であったのではないかといわれている。

大虐殺の痕跡といわれている写真(モヘンジョ=ダロ博物館)
*註1:ハラッパー遺跡:1921年パキスタン北東部,パンジャーブ地方サヒワルの西20kmのラヴィ川の左岸鉄道敷設工事の中で発見される。1922年インド考古局のサハニの最初の調査以来,ヴァッツによる大規模な発掘とイギリスのウィーラーの部分的確認調査が行われ城塞下には、西方のパルチスターン高原(イラン、パキスタンとの国境沿い、イラン高原の一部)の文化と関連をもつ先ハラッパー文化が確認されている。城塞は東西200m,南北400m。
*註2:インドの考古学者バネルジーが、パキスタンのシンド州ラールカーナのモヘン・ジョダロと呼ばれる荒れ果てた丘にある、二世紀頃に立てられたと思える仏塔(ストウーパ)を発掘していて象形文字の刻まれている印章を発見する
*註3:マーシャル・マッケー:インド考古学局長、発掘報告書「モヘンジョ・ダロとインダス文明」全三巻を発表し紀元前三千年を中心にし前後五百年にわたってインダス川流域に栄えていた事を実証した。

インダス文明 とアーリア人の侵入

 実はインダス文明(Indus Valley civilization)と呼ばれているものについてはまだよく分かっていない。またこの文明の中心者であるドラヴィダ人(Dravidian)は地中海周辺に起源を持ちメソポタミアのイラク高原から北部インドに紀元前3500年ほど前に移住して来ていることが判っている。文明としては紀元前2600年から紀元前1900年の間栄えたと言えるだろう。その文明の遺跡は現在以下に影を止めている。
ハラッパー、カーリバンガン(パンジャブ地方)
モヘンジョダロ(パキスタン南部、シンド地方)
ロータル、ドーラビーラ(北西インドのグジャラート)

 いずれも小さな都市国家ではなかったかと言われている。またこの文明は「文字」を持っていたことも最近判っている。象形文字であるインダス文字*註1は現在約400文字が発見されているが文字の解読は現在も進行形である。

写真はインダス文字

 都市部の周辺で農耕や牧畜を行っていた「青銅器文明」でもあった。また当時のメソポタミア文明との商交易を行っていたことも判っている。その中でも特筆すべきことも最近明らかになってきている。商業活動に使った銅製分銅や秤から分銅のセットを軽い方から重い方へ並べて順番に秤量してゆくと、「二進数」を使っていたのではないか推測する指摘もある。二進数は今ではコンピューターで用いられ、その二進数を彼らがその商業活動に用いていたのでは、とある。また祭祀については「火の祭祀」を、埋葬は地面に穴を掘って遺体を埋葬する土坑墓を用い遺体は、頭を「北」にして仰向けに身体を伸ばした、いわゆる仰臥伸展葬が主体であった。足を曲げた形で遺体が葬られているものもあるが、その場合も頭は「北」に置かれた。先住民族としての「ムンダ人(オーストロアジア系)」はドラビダ人とともにインダス文明の担い手ではなかったといわれている。またムンダ人の「起源神話」は卵生型神話である。
 その後アーリア人(Aryan)の侵入に伴いドラヴィダ人はインドを南下し以下の地方で部族形成を行っていった。インド西部のオリッサ、ベンガル、インド中部のマディヤ・プラテーシュ、インド南部のデカン高原などである。
 アーリア人(Aryan)*註2の発祥については色々な説があるが手がかりは彼らの使った言語から推察したものが今のところ一番有力ではないかと思う。『ウィキペディア(Wikipedia)』によれば「インド・ヨーロッパ語族」としての範疇の民族を「アーリア人」としている。属する言語として、サンスクリット語、ペルシア語、トカラ語、ギリシア語、ラテン語、英語、バルト語、ロシア語、アルメニア語、アルバニア語などが挙げられる。つまり、ヨーロッパ北大西洋沿岸から現在の中国「新疆ウイグル自治区」に該当する地域までの広範な版図が入っている。またトカラ語のように滅びていった言語も多数有るようである。歴史学的にはカスピ海、黒海沿岸からコーカサス地域に居た遊牧民族が北上しバルト海沿岸へ、また西方へはギリシャや今のトルコがある小アジアへ、そして南下は今のイラン(イランとはアーリア人の国という意)、インドへ到達したようである。つまりは、中央アジアからヨーロッパ全域にわたっている。
 アナトリア高原で建国したアーリア人はヒッタイト王国を築き先住民族から鉄の精製を得た。「旧約聖書」ではヘテ人と呼ばれメソポタミアの古バビロニア帝国を滅ぼし、ラムセス2世の率いる古代エジプトと戦いその軍を破りシリアまで版図とした。
 またギリシャまで至った部族は「ミュケナイ文書」を、イランへ侵入したアーリア人はゾロアスター教の最高教典「アヴェスター」を、インドへ到達したアーリア人は「ヴェーダ聖典」を残したのである。民族という概念については宮崎市定氏の引用がわかりやすいかと思える。
民族なるものはけっして先天的にあたえられたものではない。いいかえれば血統によって自然に定まってしまうものではなく、もっと大きな歴史的環境によって定められるものである。民族の決定には、もちろん血脈が重要な要素となるが、その他には政治あるいは文化、文化の中にもとくに言語・宗教・風習などが大きな発言権をもっている。純粋な民族とは、医学的に均質な骨格体質をもっていることよりも、むしろ思想信念において統一された歴史的民族を意味する方が多い。
  -【民族と歴史】「アジア史概説」宮崎市定より引用-

*註1:インダス文字:この文字は、ほぼ同時代とされている前期エラム文字、初期シュメール文字、ミノア文字(ミュケナイ文字)、エジプト文字などと同じく象形文字である。インダス文字は象形であっても相当高度の標準化が行われて変化している為今も解読がされていない。文字は右から左に書かれているが、時には第二行目で左から右に進行している例もある。そのあたりがインダス文明の体系的な解明のネックとなっている。
*註2:インド文化の中心的役割を果たしているインド・アーリア人は古くは中央アジアに居住し牧畜を営んでいた民族のひとつであると考えられている。背が高く、色は白く、鼻は真っ直ぐに長く、容姿が整っていた。使われていた言語は現代ヨーロッパ諸民族の古語と同一系である。アーリアとは高貴なものと云う意味である。

 中央アジア平原にいたアーリア人(Aryan)の一団が北と南に分かれ移動を始めたことを先日述べたわけであるが、ここでは今から三千五百年前に最北インド(パンジャブ地方)に侵入を開始したアーリア人(Aryan)について述べていくことになるかと思う。
 アーリア人(Aryan)の民族移動と共に既文明であったインダス文明を築いていたドラヴィダ人(Dravidian)のあるものは戦いに敗れ隷属し、またあるものは圧迫によって移動を開始しほぼ全インドに散らばっていったことは容易に推測出来る。また少数であったムンダ人(オーストロアジア系)は中央山岳部(デカン高原)に追いやられていくことになった。パンジャブ地方を平定したアーリア人(Aryan)はさらに五百年をかけ東方に向かいガンジス川流域まで支配領域を押し広げる。そのような状況の中でアーリア人(Aryan)の文化(バラモン文化)が花開いていくのである。 アーリア人(Aryan)についての歴史の断片的な部分については彼らの聖典『リグ・ヴェーダ』によって知ることができる。またアーリア人(Aryan)の文化や祭祀についてはドラヴィダ人(Dravidian)の伝承しているものを含めても興味深い事柄が多い。
HYMN I. Agni.

1 I Laud Agni, the chosen Priest, God, minister of sacrifice,
The hotar, lavishest of wealth.
2 Worthy is Agni to be praised by living as by ancient seers.
He shall bring. hitherward the Gods.
3 Through Agni man obtaineth wealth, yea, plenty waxing day by day,
Most rich in heroes, glorious.
4 Agni, the perfect sacrifice which thou encompassest about
Verily goeth to the Gods.
5 May Agni, sapient-minded Priest, truthful, most gloriously great,
The God, come hither with the Gods.
6 Whatever blessing, Agni, thou wilt grant unto thy worshipper,
That, Angiras, is indeed thy truth.
7 To thee, dispeller of the night, O Agni, day by day with prayer
Bringing thee reverence, we come
8 Ruler of sacrifices, guard of Law eternal, radiant One,
Increasing in thine own abode.
9 Be to us easy of approach, even as a father to his son:
Agni, be with us for our weal.

-The Rig-Veda アグニ(火の神)-
(The Rig-Veda, Griffith, tr. (1896) This is a complete English translation of the Rig Veda by Griffith published in 1896)

 アーリア人(Aryan)の基本的な文化については我々には思い当たる節も多く、またドラヴィダ人(Dravidian)の埋葬習俗(死しての北枕等)もこの極東の国である日本の伝承的儀式に名残をみることが出来るようである。
 元来、アーリア人の宗教は自然現象の背後にひそむ威力を神格化して、これを賛美崇拝するところにあった。インドに入ったアーリア人はその地の大自然に接して刺激を受けると、さらに固有精神に対する信仰の度を高め、天地・火・水・風・太陽・雷電等を表徴した多数の神格を讃仰し、ソーマ草の液をしぼって神酒とし、供物を火中に投げて勝利と幸福を祈願するのを常とした。そして死後は天界に上がって諸神と歓楽を共にするのを理想とし、すぐれた韻律・修辞の技巧を使って讃歌を唱したのであった。

【リグ・ヴェーダ時代のアーリア人】-「アジア史概説」-宮崎市定より引用

 かれらは自然神と共にあり、御神酒があり、祈願には火を焚き、死すれば天界にいる諸神と楽しく過ごすことができたのである。この辺のところは『大乗仏典』を視野に入れると重要な概念ではないかと思える。また、ヴェーダについては下記の概要を参照して欲しい。

 ヴェーダとしては4種類ある。
1. リグ・ヴェーダ - ホートリ祭官に所属。神々の讃歌。
2. サーマ・ヴェーダ - ウドガートリ祭官に所属。
3. ヤジュル・ヴェーダ - アドヴァリウ祭官に所属。黒ヤジュル・ヴェーダ、白ヤジュル・ヴェーダの2種類がある。
4. アタルヴァ・ヴェーダ - ブラフマン祭官に所属。他の三つに比べて成立が新しい。後になってヴェーダとして加えられた。

 また、各ヴェーダは4つの部分から構成される。
1. 本集(サンヒター) - 中心的な部分で、マントラ(讃歌、歌詞、祭詞、呪詞)により構成される。
2. ブラーフマナ (祭儀書) 紀元前800年頃を中心に成立。散文形式で書かれている。祭式の手順や神学的意味を説明。
3. アーラニヤカ (森林書) 人里離れた森林で語られる秘技。祭式の説明と哲学的な説明。内容としてブラーフマナとウパニシャッドの中間的な位置。
4. ウパニシャッド (奥義書) (ヴェーダーンタとも呼ばれるが、これは「ヴェーダの最後」の意味) 哲学的な部分。インド哲学の源流でもある。紀元前500年頃を中心に成立。一つのヴェーダに複数のウパニシャッドが含まれ、それぞれに名前が付いている。他にヴェーダに含まれていないウパニシャッドも存在する。通常、ヴェーダと呼んだ場合、4つのヴェーダの内、特に本集(サンヒター)をさす場合が多い。古代のリシ(聖人)達によって神から受け取られたと言われ、シュルティ(天啓聖典)と呼ばる。ヴェーダは口伝でのみ伝承されて来た。文字が使用されるようになっても文字にすることを避けられ、師から弟子へと伝えられた。後になって文字に記されたが、実際には、文字に記されたのはごく一部とされる。ヴェーダにおけるサンスクリットは後の時代に書かれたものとは異なる点が多くあり、言語学的にも重要である。聖典には他にリシ達によって作られたスムリティ(古伝書)がありヴェーダとは区別される。スムリティには、マハーバーラタやラーマーヤナ、マヌ法典などがある。

-【ヴェーダ】ウィキペディア(Wikipedia)
※その他の参照サイト:HINDUWEBSITEの『リグ・ヴェーダ-The Rig-Veda(英訳)-』
※ヴェーダ(Veda)の意は元来「知識」という義である。とくに「宗教的知識」を意味する。

 リグ・ヴェーダ時代のアーリア人(Aryan)の軍隊は歩兵と戦車隊から成り立っていて、きわめて勇猛果敢であったとされている。また同族間においても戦争を行った形跡もあるが同族の自覚は極めて高かったと推測されている。『リグ・ヴェーダ』によれば先住原住民からの反撃を団結協力して排除し各地に砦のようなものをつくり戦った。
これらの先住民は色黒く鼻低く宗教を異にする醜族として描写され、あるいは悪魔として取り扱われている。その大部分は現今南インドに繁栄するドラヴィダ人と同系統に属するものと思われるが、さらに『リグ・ヴェーダ』の言語を考究すれば、そのほかにも現今中部インドに残存するムンダ人の祖先にあたるものなどが含まれていたのであろう。
【リグ・ヴェーダ時代のアーリア人】-「アジア史概説」-宮崎市定

 このようにしてアーリア人(Aryan)は先住民族を駆逐し、又は隷属し色々な都市国家を造りあげていき、また都市国家同士の闘争を経ながらガンジス川流域にまで覇権を構築していったのである。

「ミュケナイ文書」とは何か

 ここで一端先程書いた「ミュケナイ文書」について簡単に述べておく。「ミュケナイ文書」についてのわかりやすい引用リンクが現在のところ少ないが以下の参照サイトはある。
ナルキッソス(NavrkissoV)「バルバロイ!」より-
 またこれと別に個人のサイトとしては今は消滅しているがキャッシュで追うことも可能である。非常に簡易且つ面白く書かれているので引用文として載せた。ただし個人の範疇で書かれたものとしての「前提」が必要かと思う。それを了解して引用を読んで頂ければよいかと思う。また今となれば引用元も辿ることが出来なくなっていることをお断りしておく。
12月28日 古代文字の解読その2 線文字B
 ヒエログリフほど話題に上ることはなくても、それ以上に困難な作業を克服したのが、線文字Bの解読である。その発見の舞台となったのは、ギリシアはクレタ島、迷宮神話で有名な島だ。1900年3月31日、イギリスの考古学者アーサー・エヴァンスは、この地で一枚の粘土板を発見した。さらに粘土板の詰まった木箱や貯蔵庫までも見つかった。このとき見つかった粘土板は、三つのグループに分けられる。第一のグループは紀元前2000年から1600年ころのもので、表意文字らしき絵のようなものが記されていた。第二のグループは紀元前1750年ころから1450年ころのもので、簡単な線文字が刻まれていた。これを線文字Aと言う。線文字Aはいまだに解読されていない。第三のグループが1450年から1375年までのもので、これが線文字Bと呼ばれる文字である。粘土板の多くはこの線文字Bで記されていた。はじめ、線文字Bについてわかったことはごくわずかだった。余白が右側にあることから左から右へ進む文字であること。文字の種類が九十種類あり、音節文字であることが推測できること。(表音文字の場合文字の種類は20~40で収まり、表意文字の場合は文字の種類はいくらでも増える。音節文字はその中間で50~100種類になる。音節文字である日本語もこの中に収まっている)。
 エヴァンスの考えでは、この文字は非ギリシア語を記した文字であり、かつてクレタ島で使われていた言語(ミノア語)であった。そして研究チームから線文字Bをギリシア語を表記したものであると主張するものを追い出していった。しかし実際問題としては、線文字Bに関しては何もわかっていなかった。そしてエヴァンスは1941年にこの世を去る。
 エヴァンスの残した課題に取り組み、目覚ましい結果を挙げたのは、古典学者アリス・コーバーである。彼女は線文字Bが語幹と語尾から成り立っていることに気づいた。線文字Bで記されていた言葉は屈折語であることが彼女によって判明した。しかしそれですべてが解決したわけではなく、謎の三番目の記号が浮かび上がってくる。単語を構成する記号の集まりの中で三つ目に位置する記号(つまり単語の三文字目)が語尾とも語幹ともつかない振る舞いをしていたのである。これをコーバーは「つなぎ音節」であろうと推測する。つなぎ音節とは母音が語尾の一部になり子音は語幹の一部になるような音節のことである。線文字Bの他、アッカド語などにつなぎ音節があることが知られている。さらに彼女はつなぎ音節からヒントを得て、同じ語幹に連なるつなぎ音節記号は子音を共有すること、また同じ語尾を持つ単語同士に用いられたつなぎ音節は同じ母音を持つことを導き出した。そしてそれらをリスト化していった途中の1950年、肺ガンで他界した。
 線文字B解読への次なる挑戦者は建築家、マイケル・ヴェントリスだ。7歳でヒエログリフに関する本を読み、14歳でエヴァンズの講義を聴講していた彼は十八歳の時、線文字Bに関する論文を「アメリカン・ジャーナル・オブ・アーケオロジー」に掲載されている。ヴェントリスはコーバーの研究結果をふまえ、語幹とつなぎ音節を共有する単語を探し、母音だけの音を表す記号(日本語ならあいうえお)を見つけ出す。二年を費やした後、ついにヴェントリスはいくつかの記号の音価を特定することに成功した。ヒントになったのは母音から始まる街の名前、アムニソスだった。その読み方を他の単語に代入し、推測を繰り返していくことで、彼は音価を特定できる文字を増やしていった。これはさらに、コーバーのつなぎ音節の研究から、同じ母音、子音を持つとされる記号の音価も推測できるようになったことを示している。その結果、大変なことが判明したのである。それはエヴァンズの作り出した通説に反して、書かれているのがギリシア語であるということだった。エヴァンズの講演を聴いて以来、通説を信じていたヴェントリスにとってこの衝撃はいかばかりだっただろう。しかし調べれば調べるほど、線文字Bがギリシア語を記している証拠ばかりが募っていく。こうした主張をヴェントリスはBBCラジオで述べる機会があった。そのリスナーの一人に大戦中暗号解読者として働き、戦後はギリシア語の講師をしていたジョン・チャドウィックがいた。彼はヴェントリスの論を批判するため、ヴェントリスの著作を読んでみた。そしてヴェントリスの協力者になった。
 チャドウィックは、ヴェントリスに足りないものを持っていた。古代ギリシア語の知識である。チャドウィックは言語の発展に見られる三つの形(発音の変化、文法の変化、語彙の変化)を考慮しつつ3500年前のギリシア語へとさかのぼった。1953年、ふたりは線文字Bに対する研究を「ミュケナイ文書のギリシア語方言説を支持する証拠」という論文にまとめ、「ジャーナル・オブ・ヘレニック・スタディーズ」に発表する。この論文は世界に衝撃を与えた。この年行われたヴェントリスの線文字Bに対する公開講演を「ギリシア考古学のエベレスト」と言われたほどだ。ヴェントリスはその後、チャドウィックと共同で「ミュケナイのギリシア語による文書」という本の出版を計画する。しかし本が印刷される数週間前の1956年9月6日、車の衝突事故によって他界した。
 ヴェントリスのパートナー、チャドウィックはその後、線文字Bの解読を著した。
以上引用

  -光芒-2-「アーリア人のインド支配」に続く-
  -光芒-序-「意識の欠片」
※このエントリははてなダイアリ(2005-11-05)から転載されました。

0 件のコメント: