2007-05-07

光芒-4-「シャカとは一体誰なのかⅠ」

 ボガスチョイの楔形文字の発見

 ここで少し古代アーリア人の社会について触れてみたいと思う。ただしインド古代史が歴史として体系的にまだ編纂されていないという前提はある。またそういう状況もブッダに対しての様々な憶測を生む事のひとつである事も考えられる。またリグ・ヴェーダ時代も含めて古代のアーリア人の習俗について語る事はブッダが取り巻かれていた社会を語る事にもなり、それは美化され伝承されているゴータマ=シッタルーダがどのような社会状況の下で生まれ、育ったのかを推測するのには重要だとも言えるだろう。
 古代カッパドキアで有名なトルコの一村落「ボガスチョイ*註1」で1906年から1922年にかけてヒッタイト王国の首都ハットゥサの発掘に当たっていたアッシリア学者ヴィンクラーとドイツ学術調査隊を率いていた考古学者プフシタインが古代ヒッタイト王国の公文書*註2を発見した。
 とりわけ、それらの文献のひとつにみえる、数詞と馬の調教に関する名詞が、サンスクリット語(古代インドの古典語)の単語にたいへん近いこと、またそれらの文献のひとつ、前一四世紀のなかごろにヒッタイト王とミタンニ王のあいだで結ばれた条約文のなかに、この同盟の守護神としてあげられた神々の名がインド最古の記録にある神名に一致することがわかり、学会におおきな衝動を与えた。それは前一七世紀ごろ北インドに侵入したインド・アーリア人のそれ以前の動きを知るうえに有力な手がかりをあたえるものだからである。
 ヒッタイト、ミタンニ*註3間の条約文にみえる守護神の名称のミトラ、ウルワナ、インダル、ナシャティアは『リグ・ヴェーダ』の讃歌中のミトラ、ヴァルナ、インドラ、ナーサトヤにそれぞれあたることは疑問の余地がない。

-古代インド 佐藤圭四郎 世界の歴史6-

 私は先程習俗と簡単に言ってしまったが何千年も経るうちにあるものは原形を留めることも無く、あるものは土着と混じり合い変容していくことは想像に難くない。逆に外部からの侵略によってその習俗自体が滅亡に近い仕打ちを受ける場合もあるだろう。現に我々日本人の習俗を考えると何処までが古来から伝えられたものであり、どれが外国から来ているものなのかは歴史書に頼るか遺跡の発掘によって客観的に分析したものに拠ってしかないだろう。それでも日本の場合の文字の使用は紀元後である。紀元前である民族や習俗を推察するにはその文化が相当習熟していて文字を持っていることが一番の早道である。だがしかしこの手がかりとなる先住民族が築き創り上げた「インダス文字」は未解読であることは先に述べた通りである。またこの文字は滅ぼされた側の文字でもある。
 インド最古の言語であるヴェーダ語とイラン最古の言語アヴェスタ語との間には単語や慣用句のみならず韻にいたるまで似た部分があり構文や語彙も共有する部分があると分かっている。つまり言い方を変えれば彼らはその昔共通の祖先を持っていたことになる。こうしたものを称してアーリア人とするなら彼らが元々区分け無く共同生活を営んでいたことになる。インド・イラン語族の居住していた地域はバルト・スラブ語族、フィン・ウグリア語族との言語や語彙の韻の近さによって南ロシアにいたのではないかといわれている。そしてある日それぞれの理由によって民族大移動を行ったものといえる。そしてそれぞれが行き着いたところでもって言語の変化が起きてきたと思えばいいだろう。即ちこれらのことは言語のみならず習俗をも含めて伝播していったと考えることに否定的見解を持つことは出来ないと思える。であればアーリア人として固有なものを完全に風化させず残していたものも多くあるに違いないと思われる。
 それでは氏族制を色濃く残していたインド・アーリア人の共同体を覗いてみよう。
*註1:首都アンカラの東約145キロ
*註2:ボガスチョイの碑文:約1万枚に及ぶ粘土板に楔形文字で書き表されていた。
*註3:ミタンニ人:アーリア人が分岐する前のまだ未分化な原初アーリア人紀元前一四世紀には既に小アジアにいて、東方への移動に入る態勢があった。

 アーリア人の生活様式と習俗

 民族の興亡と言う言葉の響きは如何なるものを想像させるであろうか。13世紀初頭に大公国ロシア平原に忽然と現れたチンギス・ハンの孫バトゥが率いる圧倒的な騎馬民族の軍勢を思い浮かべるであろうか。道々ロシア人の死体の山を築きながら1240年にはキエフをも占領し、一挙にポーランドまで攻め入ったモンゴル軍の様な姿なのだろうか。確かに異民族の侵入とは従来の土地に先住していた民族との戦いを表す。では古代インドではどうなのであろうか。
 確かなことは、半遊牧民としてもっぱら比較的小さな集団を互いに構成し、まだ中央集権的政治体制を知らず、その上、しばしば内部の不和に苦しんでいたアーリア人が、少数者の集団で、この広大な地域を奧へ奧へと踏み行ったことである。そこには前人未踏の原生林が生い茂り、数多くの新奇な、しかも一部は甚だ危険極まりない動物や、言語・体躯・容貌・文化・生活方法を異にする人々、人間に似た動物、人間に似ない人々が棲生していた。海との接触、つまり”異国”の高い文明との直接交流はなかった(間接的な交渉の形跡はある)彼らは絶えず個と集団の保護に留意するよう強いられ、そのため、抗争・純血保持・非アーリア人との同化、身の回りのものを手当たり次第武器として他-人間、動物を問わず-と戦うなど、社会的・精神的に様々な問題を抱えながらも、次第に広がり、小開拓地、原野の只中に保塁を構築して定住した。肥沃な土壌、豊かな植物の生育が、避け難い窮乏への不安を比較的軽くした。この点、ギリシア人との事情は甚だ異なっていた。

-インド思想史 第1章ヴェーダ J・ゴンダ(鎧 淳訳)-

 ここでJ・ゴンダ*註1は同じアーリア人としてのギリシア人とを比較している。不毛で海に囲まれた環境、それ故、海をも挟んだ古代文明の島々に住む異民族との交流の末発展し続けたギリシア人との違いである。そしてまたこれは後世に於いてのモンゴル軍ではないことが分かるであろう。しかし、これはあくまで未分化状態であったアーリア人の紀元前千数百年前の姿であることを断っていかなければならない。
アーリア人の侵入
 パンジャーブに移住したアーリア人は、のちの時代に同じ経路を経てインドに侵入してきた異民族の多くが、初めから征服の意図をもった武装集団として、比較的短期間に集中的に移動したのとは異なっている。家族、家畜をともなった部族全体が、ちょうど大波がゆるく打ち寄せるように、かなり長期間に何回かにわたって移動したものである。
-古代インド 佐藤圭四郎 世界の歴史6-

 『リグ・ヴェーダ』に拠れば古代アーリア人には死者の霊魂を崇拝するという原始宗教の源基があったことが知られている。ここで言う死者とは自分の祖先達のことである。J・ゴンダの「インド思想史」には原初のアーリア人の考え方が綿密な論証と共に論じられている。では『リグ・ヴェーダ』からはどのように我々はアーリア人の姿が見えてくるのだろうか。祖先の霊魂を神として崇拝すると言うことは「家族神」を各家族が持つということに他ならない。これは別の意味で言えば違った家族では「神」が変わると言うことを示唆することになる。Aという家族にとっての「神」はBという家族にとっての「神」とはイコールにはならないと言うことになる。ただただ各々の神が居るわけである。先祖の霊が今生きている家族を加護しその祈願のために供物を捧げる。これは宗教としての原始の姿である。祖先を祭るという死者の崇拝は当然その血統の近親者のみの集まりである。供養の儀式も他家の者は参加できず、従ってその神は一家の成員の供物しか受け取ることをしない。つまり家族神である以上子孫の礼拝しか認めない神であったのである。そしてまた、祭儀が外部の者に見られると穢されたという認識もあった。つまりそれぞれが独自の祭事を行いその家に伝承された祈祷や呪文と讃歌を持っていて家長が神官として存在していたのである。古代アーリア人にとって竈の神(アヴェスタ)は同時に氏神(ペナテス)となり守護神(ラアレス)であり祖先の超人的な霊魂である。竈を象徴するゆえ祭壇には火が絶やされることはなくその一族の家長が取り仕切った。
 ではアーリア人の言うところの家長とはどちらであるのだろうか。アーリア人は父系制社会を営んでいたのである。先住民族であるドラヴィダ人が対称的な母系制社会であったといわれる事を考えれば興味深いところではある。リグ・ヴェーダ時代のアーリア人社会はこのような祭儀を頂点とした家父長制家族であり一夫一婦制を中心にした基盤を持っていた。つまり祭儀も神官である父から息子へ伝えられ竈を維持し祖先神に礼拝する権利も授けたのである。このことによってアーリア人の様々な習俗を窺うことが出来る。女子は子供を授かる役目にしか過ぎず娘が夫を選ぶ場合は家長である父がその権利を持ち、父が死んでいる場合は自分の男系兄弟の長子が権利を継承していった。このように女子は男子と違い祭儀についての処遇も違い、家族神とは父方のみを指し母方の祖先には供物も捧げられなかった。つまり女子が嫁ぐと言うことは自分の血族集団と別れると言うことを指し示していた。
血族集団
 リグ・ヴェーダ時代のアーリア人社会は、自分たちはもともと同じ祖先をもつ血縁団体であるという意識によって結合した集団を単位としていた。こうした集団のうち、最大の規模を持ったものが部族、つまりジャナであり、それはいくつかの氏族、ヴィシュに分かれ、、氏族はさらに多くの支族(結合家族、サブハー)に分かれている。そしてそれらの支族を構成する最小の単位が家族グリハである。
 このころの家族は現在のような単婚家族ではなくて、古代ローマの家族に見られるような、かなり大きな家族集団をなしていた。それは家長とその妻である主婦(グリハパトニ)、家長の未婚の兄弟姉妹、息子夫婦と孫、未婚の子女、さらに家族員に準ずる扱いを受けた奴隷で構成されていた。
(中略)
 このような三世代にわたる血族員を含む複合家族では、その家長が死ぬと、家族は分解し、世代を経るごとに、いくつかのの支族に分かれていくが、これらの新しい家族は互いに扶助しあえるように近くに住んだ。これらの親族集団である支族(サブハー)が定住した地縁的集団が、グラマー(村)である。そしてこのような村の住民たちの相互の連帯意識は、やはり共同の祖先にたいする祭儀によって、緊密に維持された。

-古代インド 佐藤圭四郎 世界の歴史6-

 しかし血族集団はこのようにしていずれは分化していく。つまりこれではまことに都合が悪いのである。「家族神」は家族神でしかなくそれを祭るのは家長(アーリア人の場合は父性である)であると言うことは分かるが、いわばアーリア人全体としての共有する観念がないということにもなる。ではその共有する観念とはなになのであろうか。祖先神を供養する時にそれらを統一した神の存在を我々は『リグ・ヴェーダ』に拠ってみることが出来る。竈の火を守り祖先神を敬う原始宗教がアーリア人の共同社会が広がりを見せる中で現れてくるのである。天界に逝った祖先の霊魂を支配している神の存在を見ることが出来るということである。アーリア人の世界を見守る超越者とは一体何なのであろうか。

*註1:J・ゴンダ(Jan Gonda)。1905年生まれ。1991年没。オランダ・ゴウダ市に生まれる。ウトレヒト大学に学び1929年『インド・ゲルマン語の語根の語義研究』で学位を受ける。1933年から1975年の45年間ウトレヒト大学の正教授。受け持った講座は言語学、印欧語比較文法、サンスクリット語、アヴェスタ語、インドネシア語の五講座である。第二次大戦後の『国際インド学会』において最高峰として指導的な役割を果たした。

 天空の神々

 アーリア人が緩やかに時としては激しく戦闘を繰り返しながらインド亜大陸に侵入した後のことは意外とよく知られていることではあるがアーリア人のインドへの民族大移動前に成り立っていたはずの広汎な意味での共同体精神、つまりシャカがアーリア文化の中で受け継いできている宗教観や習俗についてさらに論を押し進めてみよう。
 J・ゴンダがいみじくも言ったように侵入前のアーリア人は中央集権的な政治体制を持たなかった。佐藤圭四郎もそのあたりのことを『血族集団』を単位とした緩やかな共同体としてのアーリア人の様子を書いている。民族的に同種でありながら彼らは「国家」としての意識を持たなかったといえば一番わかりやすいと言える。彼らが同種である認識は宗教という共同性でもって他民族と識別されたということになる。遊牧民であるがゆえに国家としての共同幻想*註1に到る前の状態であったと言いかえてもよい。
  自然崇拝の遊牧民-第二章 アーリア人の侵入-

 ともかく、原始アーリア人(=原始インド-ヨーロッパ人)が牛・馬・犬など家畜の群れをひきつれて、一つの草原から他の草原へと移動して、遊牧の生活を送っていたことは確かである。なぜそのように断定できるかというと、インド-ヨーロッパ諸民族を通じて家畜の名は類似したものが多いが、農産物の名は各民族によって異なっているからである。

(中略)

 インド-ヨーロッパ諸民族にとって、「神」とは輝くものという意味であった(deva,daeva,theos,deus,tivar,diewas,dla)。そうして天を最高の神と見なしていた。インドにおける天の神ディヤウス(Dyaus)はギリシアのゼウスに相当する。天そのものに「われわれの父なる神よ」と呼びかけていた。(Dyaus pitah=Zeu pater=Juppiter)。ゼウス神もジュピテル神も、ともに天空を支配する神である。「天なる父」という信仰はこの時代に由来する。

       -「古代インド」中村 元-

 ここでいう「この時代」とは紀元前2000年前後だと思われるが、後の時代に生まれた我々としては色々と示唆に富む事柄が多い。特にゼウスの語源の中にdeva=デーバが在ることは後世の仏典等を考えると意味深とさえ映ってくる。ここで言えることは神々の存在がこの頃既にあって、当初の神々は自然神の中から生まれ出で「天空」に在った、と言うことになろうかと思う。インドに侵入したインド・アーリア人が以前イラン・アーリア人と区別することなく同種として共同体的生活をしていた時期頃が「この時代」を指すのかというと、たぶん、もっと古い時期ではないかと思われる。
 インド=イラン・アーリア人が祖先神を敬い、その宗教的儀式が当初「竈」という火を介して行われることを以前書いたかと思うが家庭内で行う祖先崇拝の儀礼はとりもなおさず供物を通しての天界の神々への崇拝に通じた儀式であった。そしてその儀式が共有された観念としての宗教的儀式でもあった。そして今も行われているヴェーダの祭儀は火を前にして行われている。日本人が身近なものとして捉えることになると密教の『護摩祈祷』とほぼ同じに映るに違いないと思う。
 ではアーリア人のいう「天界の神々」の空間と時間的な位置関係はどういう位置なのかということについて更に考えてみよう。中村 元はその神々の在る位相について『天則』という概念を示している。
インド-ヨーロッパ語系民族初の哲学的観念
 この聖火を崇拝する儀礼が、やがてヴェーダの宗教を通して発展し、ヒンドゥ教を通じて、真言密教にとり入れられ、日本に伝わる。すなわち、日本の真言密教の寺院で護摩を焚くのはこの聖火礼拝の儀礼を受けているのである。護摩は、サンスクリットのhomaの音写であって、神聖な火に供物を投ずる献供をいう。ただ、仏教にはいると、動物を犠牲に供することは廃止され、酒も用いられなくなった。それだけのちがいである。
 また、インド-イラン人のあいだでは、すでに宇宙全体に関する原始的な哲学的自覚が成立していたらしい。宇宙は神々とは独立に、それ自身で存在し、神々はその宇宙に内在する。宇宙は一定の秩序、すなわち天則によって維持されていると考えた。この天則の観念は、インド-ヨーロッパ民族が形成した最初の哲学的観念であろう。

       -「古代インド」中村 元-

 自律した宇宙に神々が内在しているということになる。

*1註:吉本隆明『共同幻想論』等を参照。
-この稿続く-
光芒-序-「意識の欠片」から読む-