2009-10-04

マージナル・ソルジャーを超えてゆくもの-2


芸術のもっとも基礎的な手法は、対象たる事物をそのイメージに代えることである。イメージであって、概念では決してない。
   -エマニュエル・レヴィナス1948年)-

 さて論を小説『セックスなんてくそくらえ』に再び戻すこととしよう。当該小説はネット上に於いてもまたそれ以外の理由に於いても現在未公開である。故にその概要を以下に簡単に述べて於くことにする。

小説の構成的な流れ:
 妻のマリコに「クレジットカードの支払いもできない金銭感覚のない男」と見限られ、実家に帰られてしまったマサオ(28歳)は、妻に生活費も送らずにその金で女を買いあさるようになる。都内のテレクラ、ピンサロ、ヘルス、ソープで金を使い果たしたマサオは、某掲示板の出会い系板で出会って何度かセックスをした女トモコと一緒に、セックスを商売にして何か始められないかと考える。ついにマサオはアダルトサイトのホームページを自宅のPCサーバーで立ち上げる。題名は「トモコの激ナマ・セックス日記」。トモコは小さいころ受けた性的虐待の影響か、露出狂の気があり、マサオはトモコを説き伏せて顔を隠した写真をホームページにアップロードすることにする。仕事は毎日6時に帰宅するようにして、セックス日記サイトの運営に専念する。マサオはトモコとセックスしながら、その様子を撮影して「トモコの激ナマ・セックス日記」に動画とともに掲載する。トモコの文章はすべてマサオが考えて書いたものだが、意外な人気を獲得し、固定ファンがたくさん来るようになる。やがてマサオのサイトを有料化し、有料会員限定でトモコのオナニーショーを生放送する計画を立てると、トモコのファンが数多く登録し、マサオはこれで相当稼げるとほくそえむが・・・。(以下略)
  -添附ドキュメントを参照し抜粋-

 これから書くことについては未公開小説について書くことになるので、私以外のものがこのエントリを読むことについてなんら想定出来るイメージというものが持てない事を承知している。しかし根底的な領域に於いては「叙情文芸-夏季・秋季号」に掲載された『重力の街』や『太平洋イルカクルーズ』と通底していることも確かである。そういった意味でも一度は通過すべきと思っているので以下簡略に述べていこう。
 六ヶ月前から妻と別居している主人公であるマサオはどこにでもいる一介の派遣社員のひとりとして描かれている。この場合のどこにでも居るという言い様には生活過程における躓きや生への困難性に遭遇するかも知れないという意味も含めて私は言っている。当然ながら小説的な物語をとりあえず仮構するにあたり主人公のバックグラウンドというものも重要な要素のひとつである。それは世界の中にいる主人公をも規定し拘束しうるということにもなり小説の持つ技法手順のひとつでもあるからである。そういう意味では実験的手法を使おうと意識したものはなくオーソドックスな手法を踏まえて物語は展開されてゆく。
 妻と別居したあとマサオが初めて女を買う場面は充分に現代風俗の断片風景を見せていて、これから起こりうるだろうトモコとの出会いの伏線となっている。ここに於いての風俗に群がる男達や女達の風景は寒々としていて主人公マサオの孤独さをよりよく際だたせているといえるだろう。つまり周りの無人格とも言える人々を描くことによって真の生というものに亀裂が入った世界に置かれたマサオの存在を表象している。また中盤に描かれてくるネットワークを介して存在する無名の人々の存在もマサオの置かれている空虚な世界を顕すにあたり必要欠くべからざる存在達である。顔を持たない謂わば舞台空間におけるオブジェの役目を十分果たしているとも云える。また、ただ世界にあるというだけのマサオの魂を描くためにはこの顔の無い存在が必要であったとも言える。
『セックスなんてくそくらえ』は以下のような滑り出しで始まっている。

 静かにうなりを上げるパソコンの画面に開かれたピンク色のホームページに、顔を隠した女の全裸写真が写っている。足を大きく開いた女の股間部分は巧妙に隠され、両手を伸ばして誰かを誘っている様子だ。その肌は上気しており、写真には男を受け入れたあとの気怠さがある。

 ここに描かれているマサオは妻との離婚理由について実感が伴わないまま別居生活になっていると言うことになっているが、これは明らかに生活過程における敗残者としての設定であり、つまり誰でもがそう見るように大衆的な正義というものに敗れ去った男の一人でもあるということを指している。こういう場合いかなる瑕疵もすべてはマサオにあるのであり、味方など誰一人いないと言うことでもある。もはやマサオは社会という掟の中で生きることを許されない男であり、その時点からは人々と異なる風景を見ていかなければならなくなる。そしてこのことはこれっぽちも自分の居場所など無いと言う意識の奥底の襞に潜んでいる深い存在の喪失感をも顕している。認めがたい現実が現実になり何を喪失したかも理解できない男がそこにいるのである。妻から離婚届を入っている手紙を開封しても添えられている妻の手紙を全く読もうとしない仕草にそれは顕れている。たとえ妻の手紙を読むとしてもマサオにとってはその現実というものが逆にリアリティの伴わないものでしかなかったのである。従ってそれは嘗て在ったであろう家庭そのもの自体がやがて無かったかのようにもなってゆく。人間はある日突然見慣れた広がっている風景が自分のものでないとしたら恐ろしいことだといえる。生きているわけでもなく、死んでいるわけでもなく、そのまま異郷に連れられてゆく男がそこに描かれているのだ。買春に群がる男女さえも彼にとって異郷なる風景でしか無く、しかも風景を選ぶ道さえも残されていないと言うことにもなるのだ。
 ここに於いて今後も推敲されうるかも知れない原稿を批判するのは申し訳ないのだが、本人のためにも今の内に言っておかなければならないことがいくつかあるので、まずそれから書き留めておきたい。上記引用部分は段落1の始まりの部分であり、技法的にでもここでこそ一挙に読み手を引き込まなければならないところであるがこの文節表現のところで私はいくつかの意識の裂断に見舞われることになった。それは読み手の像領域が思うように喩として結びつかなかったと言い直してもよい。あくまで個人的な見解でしかないが『静かにうなりを上げる』という書き方で「低い」ならともかく「静か」と「うなり」が直接的にもイメージとして噛み合わないと言うこともあるし『その肌は上気しており』という表現にもはたしてモニター上の女の写真画像に妥当であるかが引っかかってしまったのである。マサオが直接前にしてみる生身の女との違いはあるはずであり本来であれば他の直接的視覚場面で使われる表現方法でないかと思えたからだ。この引用部だけでも細かく見れば粗がありイントロであることを考慮してもう少し丁寧さが必要でありさらに推敲される余地が十分にあるのでははないかと思った。またこの段落1は全体の構成からしても技法的にももう少し長くして段落2、3、4(5?)に繋げたいような気もした。志向性の持続力が中断されない限りもっと濃密に描くことも出来たのではないかと思った。特に持ち込み原稿と考えているならば、こういっては悪いが、一種の手抜きは編集者に一番刎ねられそうな気もしたからである。

  -マージナル・ソルジャーを超えてゆくもの-3に続く-


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2009-10-03

マージナル・ソルジャーを超えてゆくもの-1


作品はありきたりな知覚を延長し、かつ乗り超える。ありきたりな知覚が卑俗化したものや逸してしまったもの、その還元不能な本質を、作品は形而上学的直観と一致しつつ把握する。通常の言語が匙を投げたところで、詩や絵画は話す。このように作品は、現実よりも現実的なものとして、絶対的なものに関する知識を自認する芸術的想像力の威信を証示している。
 -現実とその影-(エマニュエル・レヴィナス:1948年)註1

 根本正午氏を最初に知ったのは2007年初頭頃ではなかったかと思っている。無論会ったこともなく、あくまでインターネット上彼を知ったと言うことにしか過ぎなかった。当時の彼はその頃その持ちうる個性でもってブログ界の一角で確実な読者層を得、またその中にも一部熱狂的な支持者も居たように見受けられた。だが、それは所詮インターネットという広大な海の中の片隅の現象でしかなく「文学以前」と呼ばれるものがあるとしたならば、ある意味ではその多くが彼が対峙していると思い込んでいる世界の位相の軋みの一部を顕したものに過ぎなかった。そして彼のブログを斜めから見ていた私はある日彼が伊豆の修善寺に行った時の心象を描いた『八十八の石碑』というエントリに目がいった。ここで私はようやく琴線上で彼と初めて出会ったのである。彼は修善寺の山中にある弘法大師像の石碑に刻まれた梵字と歌を見るために地図片手に山中を革靴のまま歩くのである。いささか長いがその一部を抜粋してみよう。

  (前略)
僕は山道で見かけた一つの石碑からその存在を知り、すべては無理だが近場だけでも歩いてみようと地図を片手に回ってみていたのだった。
前日に降った雨で落ちた枯葉が土くれの上に貼りつき、足場は湿っていて危険だ。僕は大量のジョロウグモが作った巣をよけながら道を登っていく。
  (略)
足元に注意しながら緩い坂道を登っていくと、林の中に隠れるようにして、二つ目の石碑が見つかった。表面に指を走らせると、文字は岩に描かれているのではなく刻み込まれているのがわかるが、酸性雨だろうか、なんらかの化学変化により表面の色が変わっていて非常に読みにくい。近くに建っていた看板により内容がようやくわかる。
僕は手を合わせるべきなのかどうかわからず、傘を片手に持ったまま考える。高校生のころ、近所に住んでいたモスリムのマレー人が、いつかメッカを巡礼したい、と言っていたことを思い出す。メッカを巡礼した証しである白い帽子をかぶることが彼の夢だったのだった。註2
   (略)
ほとんど消えかけた文字が刻み込まれたこの石くれを拝むために、毎年訪れるという数千人の日本人たちのことを考える。「家内安全、無病息災を祈るのです」と、看板が巡礼者たちのことを説明している。僕には家族などいない、と思い、何に対して手を合わせるべきか逡巡する。ブログを読みブログを書く愚かな自分のためだろうか?
   (略)
答えを出せないままふと脇を見ると、ジョロウグモの巣に、虫がひっかかって死んでいた。僕はそのジョロウグモと、食われるために命を落とした虫のために、手を合わせることにした。いつかこの八十八の石碑すべてをまわってみたい、そう思った。
    -「八十八の石碑」-

 失礼な言いようにもなるがそんなに巧い文であるとは言えない。だが、しかし今考えると判るのだがこのエントリ自体が彼の迷いを振り切ろうとしている象徴であるとも思えた。彼はこの時まだブロガーであったのである。そして敢えて言えば匿名というウェブ界に於ける正体不明のブロガーでしかなかった。この場合の匿名という意味はプロの物書きであるのかどうかが不明であるという意味でしかない。現にブログ界では別名を使用したプロのライターの存在もあるし、その人達のコラムや雑文めいたものを読むことも可能である。また作家と呼ばれる人たちの相当数の方がブログを書いていることは周知の通りである。また作家であるからウエブログのエントリが優れているという保証があるわけでもない。それは単なる個人的な日記録であったり新刊の宣伝の役割を果たすべく広告塔であったりして必ずしも創造的なものであるというわけでもない。それらは原稿料を伴わない世界でもあり、当然といえば当然のことでもあるだろう。
 だから、その時のわたしの根本正午に対する予備知識はブロガーであることだけであった。また今、更にいうならば今回のエントリを書くきっかけと経緯に至ったネット上のメールのやりとりに依って結果的に築くことが出来た相互的な信頼関係だけであった。言うまでもないことであるが一般的にブログに書かれるエントリは読者であるネット・ウオッチャーというものを想定して書かれている。つまり相互的意志の交通手段としての言語が最優先されるということであり、言葉から文体までが書き手自身にもなんら拘束力を持ち得ない世界であることも示している。つまり社会的慣習のもっとも保守的に機能する言語によって書かれているものが大概のブログ文であるとみていいだろう。だがこれには当然大きな問題が残されることになる。つまり書き手の欲望が自らの想像力と抵触し始めるとどういうことが起こりうるのかという事を考えてみればいいと思う。そこには極めて本質的な自己存在の確証への欲求ともいうべき問題に行き着いてゆくはずである。まさしく根本正午はブロガーとしてだけではなく表現者の道を歩み始めたいという欲望に突き動かされてゆくことになる。世界にあるおのれの不可視の存在を視るということは想像力がもたらす世界の構築によってこそ切り開かれる。このことは通常のブログ文ではボーダーを超えることができないと言うことも指している。つまり境界者であるマージナル・ソルジャーから創造者根本正午へ架橋してゆくものはやはり想像的言語でしかなかったのである。
 2007年8月根本氏から彼が初めて書いた小説『セックスなんてくそくらえ』の初稿が郵送されてきた。これが私が読んだ初めての彼の生原稿とも呼べるものでもあった。当小説は25段落に分かれていて400字詰め原稿用紙にして凡そ80数枚によって成り立っていた。いうならば短編領域をわずかに超え中編と呼ばれるものとの中間に位置するもので量としていえば筆力がよく見て取れる分量であるといえるだろう。そしてこの小説はある文学賞に初挑戦した応募原稿だったので公表されていない。詩人井上瑞貴氏が根本氏の第2作目『重力の街』(叙情文芸2009夏)を読み、次の第3作目である『太平洋イルカクルーズ』(叙情文芸2009秋)を読んだ後どこかで呟いた「連作もの」の始まりはこの『セックスなんてくそくらえ』から始まったとも言えるのである。

2に続く

註1:「現実とその影」はレヴィナスが二次大戦後「捕虜収容所」で生き残った後に発表されたものである。ユダヤ人であった彼の親族や近しい者達も含めて多くはすでにかの「絶滅収容所」においてこの世にはいなかった。彼は収容所の中においてモーリス・ブランショから差し入れられた文学書を読み漁っていたが外部の「絶滅収容所」の中で行われていたユダヤ人に対する大量虐殺を信じがたい思いでいた。フッサールとハイデガーという巨大な思想家から多大な影響を受けるも収容所体験をしてハイデガー哲学の批判的立場を持つに至る。人間の持ちうる存在論的テーマを彼独自の「他者論」という展開で現代哲学におよぼした影響は大きい。主著としては『フッサール現象学の直観理論』、『全体性と無限-外部性についての試論』等がある。
註2:言い忘れたが根本正午氏は帰国子女である。

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