2007-05-07

光芒-4-「シャカとは一体誰なのかⅠ」

 ボガスチョイの楔形文字の発見

 ここで少し古代アーリア人の社会について触れてみたいと思う。ただしインド古代史が歴史として体系的にまだ編纂されていないという前提はある。またそういう状況もブッダに対しての様々な憶測を生む事のひとつである事も考えられる。またリグ・ヴェーダ時代も含めて古代のアーリア人の習俗について語る事はブッダが取り巻かれていた社会を語る事にもなり、それは美化され伝承されているゴータマ=シッタルーダがどのような社会状況の下で生まれ、育ったのかを推測するのには重要だとも言えるだろう。
 古代カッパドキアで有名なトルコの一村落「ボガスチョイ*註1」で1906年から1922年にかけてヒッタイト王国の首都ハットゥサの発掘に当たっていたアッシリア学者ヴィンクラーとドイツ学術調査隊を率いていた考古学者プフシタインが古代ヒッタイト王国の公文書*註2を発見した。
 とりわけ、それらの文献のひとつにみえる、数詞と馬の調教に関する名詞が、サンスクリット語(古代インドの古典語)の単語にたいへん近いこと、またそれらの文献のひとつ、前一四世紀のなかごろにヒッタイト王とミタンニ王のあいだで結ばれた条約文のなかに、この同盟の守護神としてあげられた神々の名がインド最古の記録にある神名に一致することがわかり、学会におおきな衝動を与えた。それは前一七世紀ごろ北インドに侵入したインド・アーリア人のそれ以前の動きを知るうえに有力な手がかりをあたえるものだからである。
 ヒッタイト、ミタンニ*註3間の条約文にみえる守護神の名称のミトラ、ウルワナ、インダル、ナシャティアは『リグ・ヴェーダ』の讃歌中のミトラ、ヴァルナ、インドラ、ナーサトヤにそれぞれあたることは疑問の余地がない。

-古代インド 佐藤圭四郎 世界の歴史6-

 私は先程習俗と簡単に言ってしまったが何千年も経るうちにあるものは原形を留めることも無く、あるものは土着と混じり合い変容していくことは想像に難くない。逆に外部からの侵略によってその習俗自体が滅亡に近い仕打ちを受ける場合もあるだろう。現に我々日本人の習俗を考えると何処までが古来から伝えられたものであり、どれが外国から来ているものなのかは歴史書に頼るか遺跡の発掘によって客観的に分析したものに拠ってしかないだろう。それでも日本の場合の文字の使用は紀元後である。紀元前である民族や習俗を推察するにはその文化が相当習熟していて文字を持っていることが一番の早道である。だがしかしこの手がかりとなる先住民族が築き創り上げた「インダス文字」は未解読であることは先に述べた通りである。またこの文字は滅ぼされた側の文字でもある。
 インド最古の言語であるヴェーダ語とイラン最古の言語アヴェスタ語との間には単語や慣用句のみならず韻にいたるまで似た部分があり構文や語彙も共有する部分があると分かっている。つまり言い方を変えれば彼らはその昔共通の祖先を持っていたことになる。こうしたものを称してアーリア人とするなら彼らが元々区分け無く共同生活を営んでいたことになる。インド・イラン語族の居住していた地域はバルト・スラブ語族、フィン・ウグリア語族との言語や語彙の韻の近さによって南ロシアにいたのではないかといわれている。そしてある日それぞれの理由によって民族大移動を行ったものといえる。そしてそれぞれが行き着いたところでもって言語の変化が起きてきたと思えばいいだろう。即ちこれらのことは言語のみならず習俗をも含めて伝播していったと考えることに否定的見解を持つことは出来ないと思える。であればアーリア人として固有なものを完全に風化させず残していたものも多くあるに違いないと思われる。
 それでは氏族制を色濃く残していたインド・アーリア人の共同体を覗いてみよう。
*註1:首都アンカラの東約145キロ
*註2:ボガスチョイの碑文:約1万枚に及ぶ粘土板に楔形文字で書き表されていた。
*註3:ミタンニ人:アーリア人が分岐する前のまだ未分化な原初アーリア人紀元前一四世紀には既に小アジアにいて、東方への移動に入る態勢があった。

 アーリア人の生活様式と習俗

 民族の興亡と言う言葉の響きは如何なるものを想像させるであろうか。13世紀初頭に大公国ロシア平原に忽然と現れたチンギス・ハンの孫バトゥが率いる圧倒的な騎馬民族の軍勢を思い浮かべるであろうか。道々ロシア人の死体の山を築きながら1240年にはキエフをも占領し、一挙にポーランドまで攻め入ったモンゴル軍の様な姿なのだろうか。確かに異民族の侵入とは従来の土地に先住していた民族との戦いを表す。では古代インドではどうなのであろうか。
 確かなことは、半遊牧民としてもっぱら比較的小さな集団を互いに構成し、まだ中央集権的政治体制を知らず、その上、しばしば内部の不和に苦しんでいたアーリア人が、少数者の集団で、この広大な地域を奧へ奧へと踏み行ったことである。そこには前人未踏の原生林が生い茂り、数多くの新奇な、しかも一部は甚だ危険極まりない動物や、言語・体躯・容貌・文化・生活方法を異にする人々、人間に似た動物、人間に似ない人々が棲生していた。海との接触、つまり”異国”の高い文明との直接交流はなかった(間接的な交渉の形跡はある)彼らは絶えず個と集団の保護に留意するよう強いられ、そのため、抗争・純血保持・非アーリア人との同化、身の回りのものを手当たり次第武器として他-人間、動物を問わず-と戦うなど、社会的・精神的に様々な問題を抱えながらも、次第に広がり、小開拓地、原野の只中に保塁を構築して定住した。肥沃な土壌、豊かな植物の生育が、避け難い窮乏への不安を比較的軽くした。この点、ギリシア人との事情は甚だ異なっていた。

-インド思想史 第1章ヴェーダ J・ゴンダ(鎧 淳訳)-

 ここでJ・ゴンダ*註1は同じアーリア人としてのギリシア人とを比較している。不毛で海に囲まれた環境、それ故、海をも挟んだ古代文明の島々に住む異民族との交流の末発展し続けたギリシア人との違いである。そしてまたこれは後世に於いてのモンゴル軍ではないことが分かるであろう。しかし、これはあくまで未分化状態であったアーリア人の紀元前千数百年前の姿であることを断っていかなければならない。
アーリア人の侵入
 パンジャーブに移住したアーリア人は、のちの時代に同じ経路を経てインドに侵入してきた異民族の多くが、初めから征服の意図をもった武装集団として、比較的短期間に集中的に移動したのとは異なっている。家族、家畜をともなった部族全体が、ちょうど大波がゆるく打ち寄せるように、かなり長期間に何回かにわたって移動したものである。
-古代インド 佐藤圭四郎 世界の歴史6-

 『リグ・ヴェーダ』に拠れば古代アーリア人には死者の霊魂を崇拝するという原始宗教の源基があったことが知られている。ここで言う死者とは自分の祖先達のことである。J・ゴンダの「インド思想史」には原初のアーリア人の考え方が綿密な論証と共に論じられている。では『リグ・ヴェーダ』からはどのように我々はアーリア人の姿が見えてくるのだろうか。祖先の霊魂を神として崇拝すると言うことは「家族神」を各家族が持つということに他ならない。これは別の意味で言えば違った家族では「神」が変わると言うことを示唆することになる。Aという家族にとっての「神」はBという家族にとっての「神」とはイコールにはならないと言うことになる。ただただ各々の神が居るわけである。先祖の霊が今生きている家族を加護しその祈願のために供物を捧げる。これは宗教としての原始の姿である。祖先を祭るという死者の崇拝は当然その血統の近親者のみの集まりである。供養の儀式も他家の者は参加できず、従ってその神は一家の成員の供物しか受け取ることをしない。つまり家族神である以上子孫の礼拝しか認めない神であったのである。そしてまた、祭儀が外部の者に見られると穢されたという認識もあった。つまりそれぞれが独自の祭事を行いその家に伝承された祈祷や呪文と讃歌を持っていて家長が神官として存在していたのである。古代アーリア人にとって竈の神(アヴェスタ)は同時に氏神(ペナテス)となり守護神(ラアレス)であり祖先の超人的な霊魂である。竈を象徴するゆえ祭壇には火が絶やされることはなくその一族の家長が取り仕切った。
 ではアーリア人の言うところの家長とはどちらであるのだろうか。アーリア人は父系制社会を営んでいたのである。先住民族であるドラヴィダ人が対称的な母系制社会であったといわれる事を考えれば興味深いところではある。リグ・ヴェーダ時代のアーリア人社会はこのような祭儀を頂点とした家父長制家族であり一夫一婦制を中心にした基盤を持っていた。つまり祭儀も神官である父から息子へ伝えられ竈を維持し祖先神に礼拝する権利も授けたのである。このことによってアーリア人の様々な習俗を窺うことが出来る。女子は子供を授かる役目にしか過ぎず娘が夫を選ぶ場合は家長である父がその権利を持ち、父が死んでいる場合は自分の男系兄弟の長子が権利を継承していった。このように女子は男子と違い祭儀についての処遇も違い、家族神とは父方のみを指し母方の祖先には供物も捧げられなかった。つまり女子が嫁ぐと言うことは自分の血族集団と別れると言うことを指し示していた。
血族集団
 リグ・ヴェーダ時代のアーリア人社会は、自分たちはもともと同じ祖先をもつ血縁団体であるという意識によって結合した集団を単位としていた。こうした集団のうち、最大の規模を持ったものが部族、つまりジャナであり、それはいくつかの氏族、ヴィシュに分かれ、、氏族はさらに多くの支族(結合家族、サブハー)に分かれている。そしてそれらの支族を構成する最小の単位が家族グリハである。
 このころの家族は現在のような単婚家族ではなくて、古代ローマの家族に見られるような、かなり大きな家族集団をなしていた。それは家長とその妻である主婦(グリハパトニ)、家長の未婚の兄弟姉妹、息子夫婦と孫、未婚の子女、さらに家族員に準ずる扱いを受けた奴隷で構成されていた。
(中略)
 このような三世代にわたる血族員を含む複合家族では、その家長が死ぬと、家族は分解し、世代を経るごとに、いくつかのの支族に分かれていくが、これらの新しい家族は互いに扶助しあえるように近くに住んだ。これらの親族集団である支族(サブハー)が定住した地縁的集団が、グラマー(村)である。そしてこのような村の住民たちの相互の連帯意識は、やはり共同の祖先にたいする祭儀によって、緊密に維持された。

-古代インド 佐藤圭四郎 世界の歴史6-

 しかし血族集団はこのようにしていずれは分化していく。つまりこれではまことに都合が悪いのである。「家族神」は家族神でしかなくそれを祭るのは家長(アーリア人の場合は父性である)であると言うことは分かるが、いわばアーリア人全体としての共有する観念がないということにもなる。ではその共有する観念とはなになのであろうか。祖先神を供養する時にそれらを統一した神の存在を我々は『リグ・ヴェーダ』に拠ってみることが出来る。竈の火を守り祖先神を敬う原始宗教がアーリア人の共同社会が広がりを見せる中で現れてくるのである。天界に逝った祖先の霊魂を支配している神の存在を見ることが出来るということである。アーリア人の世界を見守る超越者とは一体何なのであろうか。

*註1:J・ゴンダ(Jan Gonda)。1905年生まれ。1991年没。オランダ・ゴウダ市に生まれる。ウトレヒト大学に学び1929年『インド・ゲルマン語の語根の語義研究』で学位を受ける。1933年から1975年の45年間ウトレヒト大学の正教授。受け持った講座は言語学、印欧語比較文法、サンスクリット語、アヴェスタ語、インドネシア語の五講座である。第二次大戦後の『国際インド学会』において最高峰として指導的な役割を果たした。

 天空の神々

 アーリア人が緩やかに時としては激しく戦闘を繰り返しながらインド亜大陸に侵入した後のことは意外とよく知られていることではあるがアーリア人のインドへの民族大移動前に成り立っていたはずの広汎な意味での共同体精神、つまりシャカがアーリア文化の中で受け継いできている宗教観や習俗についてさらに論を押し進めてみよう。
 J・ゴンダがいみじくも言ったように侵入前のアーリア人は中央集権的な政治体制を持たなかった。佐藤圭四郎もそのあたりのことを『血族集団』を単位とした緩やかな共同体としてのアーリア人の様子を書いている。民族的に同種でありながら彼らは「国家」としての意識を持たなかったといえば一番わかりやすいと言える。彼らが同種である認識は宗教という共同性でもって他民族と識別されたということになる。遊牧民であるがゆえに国家としての共同幻想*註1に到る前の状態であったと言いかえてもよい。
  自然崇拝の遊牧民-第二章 アーリア人の侵入-

 ともかく、原始アーリア人(=原始インド-ヨーロッパ人)が牛・馬・犬など家畜の群れをひきつれて、一つの草原から他の草原へと移動して、遊牧の生活を送っていたことは確かである。なぜそのように断定できるかというと、インド-ヨーロッパ諸民族を通じて家畜の名は類似したものが多いが、農産物の名は各民族によって異なっているからである。

(中略)

 インド-ヨーロッパ諸民族にとって、「神」とは輝くものという意味であった(deva,daeva,theos,deus,tivar,diewas,dla)。そうして天を最高の神と見なしていた。インドにおける天の神ディヤウス(Dyaus)はギリシアのゼウスに相当する。天そのものに「われわれの父なる神よ」と呼びかけていた。(Dyaus pitah=Zeu pater=Juppiter)。ゼウス神もジュピテル神も、ともに天空を支配する神である。「天なる父」という信仰はこの時代に由来する。

       -「古代インド」中村 元-

 ここでいう「この時代」とは紀元前2000年前後だと思われるが、後の時代に生まれた我々としては色々と示唆に富む事柄が多い。特にゼウスの語源の中にdeva=デーバが在ることは後世の仏典等を考えると意味深とさえ映ってくる。ここで言えることは神々の存在がこの頃既にあって、当初の神々は自然神の中から生まれ出で「天空」に在った、と言うことになろうかと思う。インドに侵入したインド・アーリア人が以前イラン・アーリア人と区別することなく同種として共同体的生活をしていた時期頃が「この時代」を指すのかというと、たぶん、もっと古い時期ではないかと思われる。
 インド=イラン・アーリア人が祖先神を敬い、その宗教的儀式が当初「竈」という火を介して行われることを以前書いたかと思うが家庭内で行う祖先崇拝の儀礼はとりもなおさず供物を通しての天界の神々への崇拝に通じた儀式であった。そしてその儀式が共有された観念としての宗教的儀式でもあった。そして今も行われているヴェーダの祭儀は火を前にして行われている。日本人が身近なものとして捉えることになると密教の『護摩祈祷』とほぼ同じに映るに違いないと思う。
 ではアーリア人のいう「天界の神々」の空間と時間的な位置関係はどういう位置なのかということについて更に考えてみよう。中村 元はその神々の在る位相について『天則』という概念を示している。
インド-ヨーロッパ語系民族初の哲学的観念
 この聖火を崇拝する儀礼が、やがてヴェーダの宗教を通して発展し、ヒンドゥ教を通じて、真言密教にとり入れられ、日本に伝わる。すなわち、日本の真言密教の寺院で護摩を焚くのはこの聖火礼拝の儀礼を受けているのである。護摩は、サンスクリットのhomaの音写であって、神聖な火に供物を投ずる献供をいう。ただ、仏教にはいると、動物を犠牲に供することは廃止され、酒も用いられなくなった。それだけのちがいである。
 また、インド-イラン人のあいだでは、すでに宇宙全体に関する原始的な哲学的自覚が成立していたらしい。宇宙は神々とは独立に、それ自身で存在し、神々はその宇宙に内在する。宇宙は一定の秩序、すなわち天則によって維持されていると考えた。この天則の観念は、インド-ヨーロッパ民族が形成した最初の哲学的観念であろう。

       -「古代インド」中村 元-

 自律した宇宙に神々が内在しているということになる。

*1註:吉本隆明『共同幻想論』等を参照。
-この稿続く-
光芒-序-「意識の欠片」から読む-

2007-05-06

光芒-3-「ゴータマ・シッダールタ」

ウパニシャッド哲学

 アーリア人(Aryan)の支配が安定し花開くヴェーダ文化のなかでバラモン経典の深化はさらに究極へ向かうことになる。『ウパニシャッド哲学』である。辻直四郎の「ウパニシャッドの語義」によればウパニシャッド(upa-ni-sad)とはサンスクリット語で「近くに坐す」ということであり師弟間が対坐をし問答の形式をとり奥秘の哲理を伝授したとある。
ウパニシャッド哲学
 バラモン神学における祭式万能主義にあきたらないで、宇宙の根源と人間の本体となるものを考えてこれを梵と名づけ、ここに梵我一如を唱導するウパニシャッド哲学が成立した。これは今から約2500年以前のことであるが、おそらく世界における最初の深奥な哲学的思惟の産物で、しかもすでに死物と化した古代思想ではなく、近代的ヨーロッパ、とくにドイツの哲学に大きな影響を及ぼして現今に生きていることは注目に値する。
 【ウパニシャッド哲学】-「アジア史概説」-宮崎市定

 哲学としてのウパニシャッドの熟成時代は紀元前700年から500年頃と見られその後仏教の誕生を迎える。時代的にはウパニシャッド哲学の後期と仏教の興隆と重なる時代があることは別に驚きではないといえる。またこのことはウパニシャッド哲学の原理に対する一つの答として現れた『釈迦』の教えに根元的に深く関わることでもある。
 ウパニシャッドを一言で言えば宮崎市定の言葉を待つまでもなく『梵我一如』という言葉で表すことであろうと言える。では梵我一如とは何なのだろうか。いうまでもなくウパニシャッドとは哲学であると共に宗教でもあるということを踏まえなくてはいけないだろう。ウパニシャッドの教えの究極の目的は「解脱」にあるからだ。
〔宇宙の〕因たる梵とは何ぞや。そも何処より生じ、我らは何によりて生存するや。また何処に依止するや。何ものに支配せられて我らは苦楽の裡に〔各自の〕状態に赴くや。梵を知る者よ
  -ウパニシャッドの主題より(辻直四郎)-

 梵(大宇宙)、つまりブラフマンと名称し、我(小宇宙)、つまりアートマンと名称する。余談ではあるが語源的にはアーリア種であるドイツ語Atem(息、呼吸の意)と同義である。まずはブラフマン(中性語)がこの宇宙の万有を創り上げ、または宇宙(自我が認識する世界)である世界そのものであるという原理である。そしてアートマンとは身体を指す個体的な自我であり、ブラフマンをも包括する世界であるという原理であり、古代ヴェーダ頃からその追及が行われた。しかし『梵我一如』と示す通り究極的にはその一体化を帰する一元論に他ならない。ウパニシャッドの世界が生み出したいわばこの帰一思想、自我の中にこそ世界があるという概念はある意味では世界で初めて自我(意識)の存在を体系的に論じたものでもあるとも言えるだろう。また、道徳的な意味でも、善悪の業に従って再び生をこの世に受けるといういわゆる『輪廻説』を唱え後世のインド宗教に多大な影響を与えた。

都市国家から領土的大国家へ

 ガンジス大河流域の大平野には仏陀出世の頃、数個の強国があり、大河の中流以上を占めるコーサラ国と、中流以下を領するマガタ国とが覇を争っていた。初期の仏教保護にもっとも力を尽くしたのはマガタ国で、その王ビンビサラは新宗教の擁護者となり、仏教はその首都王舎城を中心としてガンジス河流域一帯に宣布された。その子アジャータシャトルは父を幽閉し、餓死させて位についた暴君といわれたが、コーサラ王と戦い、一度は勝ったが、つぎの戦いに敗れて捕虜となり、許されてコーサラ王女を娶って帰国し、ガンジス河の南岸にパータリプトラ城を築いて都とし、やがてコーサラ国も威圧して、ガンジス平野全体に覇を唱えた。この王は後に自己の罪過を悔い、厚く仏教に帰依するようになったというが、王はたんに仏教のみならず、ジャイナ教をも保護したようである。

  【マガタ王国の制覇】「アジア史概説」宮崎市定

 ガンジス平野に於いて乱立していたアーリア人の都市国家群も相次ぐ戦乱の中に於いて覇権国家が誕生していったということであり仏典において登場している「マガタ国」や「コーサラ国」もその一つの強国であったということである。

 上の地図を見れば仏陀の生誕地といわれているルンビニは今のネパール領にあることが分かる。
 仏陀が生きていた時代はアーリア人の文化の成熟期でありガンジス川の中流域の商・工業の発展と共にそれぞれの都市国家の発展は王が支配する国へと変化を遂げつつあったと言うことになるかと思う。そして各王国はそれぞれの経済的発展に伴ってカーストでいえば一般庶民(商・工業経営者)が力をつけてきた時期にも入ろうとしていた。貨幣経済の発展は富裕層を生み出し、物質的な豊かさは享楽の傾向を強めていったと想像するにかたくないと思われる。つまり「ヴェーダ」や「ウパニシャッド」で深化されていった文化の退廃を招いてゆくことにもなり、バラモン思想を批判的に見直そうという新たな思想の出現を見ることになるのは歴史の必然ともいうべき時代でもあった。まさに仏陀の教えはその時代の渦中に広がっていったのである。平たくいえば前衛的であり先鋭的であったのだといえる。

ゴータマ・シッダールタ(Gotama Siddhattha)

 お釈迦様と通称呼称されているブッダのことを広く指しているのは大概の者は知っている。そして本名はゴータマ=シッダールタとある。そして聖者であり、覚者であり、生身の人間であることも知っている。またその生誕にまつわる話も出家も、苦行も、悟りも、涅槃も様々な媒体によって知らされている。我々が知りうることは経典や説話を通して、ほぼ逸話的なものに認知をしているだけである。つまりゴータマ=シッダールタという人物についての全てを知っているわけではないと言うことにもなるかと思う。たとえば一般的なことでいえば下記のようなものであるに過ぎない。
 釈迦牟尼(シャカ族の聖者)を略してシャカとよび,ブッダ(さとりをひらいた人)ともいう。ヒマラヤのふもとのシャカ族の国,カピラ国の王子として生まれた。不自由のない生活を送っていたが,人々の苦しんで生きる姿を見て悩み,29歳のとき宮殿を出て修行の道に入った。35歳のとき,ブッダガヤの菩提樹の下でさとりをえた。かれは,自分の欲望を捨て人の幸せのためを考えてこそ,この世の苦しみからのがれられる,と教えた。シャカの説く教えを仏教という。サルナートではじめて説法をしてから,次第に弟子もふえ,国王や大商人のなかにも信者ができ,コーサラ国には祇園精舎(ぎおんしょうじゃ)とよぶ僧院もできた。80歳で,クシナガラ郊外の沙羅双樹の木の下で生涯を終えた。
◇シャカの死後,弟子たちの記憶をもとに,かれの教えをまとめて多くの経典がつくられた。

-学研学習事典データーベース-

 勿論これに付随した様々な装飾をちりばめた伝承をあちこちで見ることも読むことも出来る。大概はこれ以上でもこれ以下でもない。考えようではブッダが出現しなければ釈迦族なんて部族名も歴史に残らなかったはずである。それと共にインドという地域もその他の古代文明の地域と大差ない認識で我々は捉えるからである。ではあらためてその仏典等ではではどのようにシャカを捉えているのだろうか。重複するようだがあらためて仏陀(もしくはブッタ)について書いておこう。
 ヒマラヤ山麓にある現在でいえばネパール領ルンミンディーにある小国シャーキャ(Sakya)族の都カピラ城で王子シッダールタSiddharthaとして生まれた。正確な生年はいまだよく分かっていない。そういうこともあってここで変ではあるが入滅時のことから書いておきたい。
 仏陀(もしくはブッタ)は45年間の乞食(こつじき)伝道の後クシナーラ(カシア)において80年の命を閉じた。亡骸はマルラ族の手によって火葬にされ、遺骨は八カ所に建てられたストゥーパ(塔)に分骨された。このゴータマ・ブッタ(仏陀)の没年についてはカシミールの「説一切有部」を根拠とする紀元前383年説、「セイロン上座部」をもとにした紀元前478年説などが有名であるがその他の諸説と共に学問的な結論は出ていない。分骨された八カ所は以下の通りである。

1. クシナーラーのマルラ族
2. マガダ国のアジャタシャトゥル王
3. ベーシャーリーのリッチャビ族
4. カビラヴァストフのシャーキャ族
5. アッラカッパのプリ族
6. ラーマガーマのコーリャ族
7. ヴェータデーバのバラモン
8. バーヴァーのマルラ族

 また、その時の様子については原始仏典である「大パリニッバーナ経」に詳しく書かれている。
仏陀の最後の言葉
 そこで尊師は修行僧たちに告げた。
「さあ、修行僧たちよ。お前たちに告げよう、『もろもろの事象は過ぎ去るものである。怠ることなく修行を完成しなさい』と。
 これが修行をつづけて来た者の最後の言葉であった。

大パリニッバーナ経(中村 元訳)【第六章 臨終のことば】

 入滅時においての様子は別の機会に書くとしてこの偉大な人の実在について書きとめておきたい。仏陀の歴史的な存在については学問的には19世紀頃まで「伝説」の人でしかなく、実在しなかったと思われていた。これには色々な理由がある。ある意味では「大乗仏典」の成立年代が紀元後であるにかかわらず「仏説」とか「如是我聞」とかの書き出しで始まる経典の存在がその「聖なる人」の実在を疑問視させたこともあった。死して何百年も経った後、あたかもブッタが「こう言われた・・・云々」という大乗仏典の始まりの語句に疑いを持ったのである。それについても別の機会に書くつもりであるが、ここでいささか長い引用になるが、中村元氏の訳になる「大パリニッバーナ経」の註釈について以下に記しておきたい。
 1898年にカピラ城(カピラヴァストゥ)から約13キロ隔たったピプラーワーで、イギリス人の地主ペッペ(ウィリアム・ペッペ)が自分の所有地の中で一つの古墳を発掘したところ、その中から遺骨を納めた壷が発見された。それには世紀前数世紀の文字で「釈尊の遺骨」である旨が銘刻されているから、これは歴史的人物としてのゴータマ・ブッダの真実の遺骨である、と断定してよいであろう。その刻文は「これはシャカ族のブッダ・世尊の遺骨の龕であって、名誉ある兄弟並びに姉妹・妻子たちの(奉祀せるもの)である」となっている。(ただしこの銘文の解読については異説もある。)

 右(上)の遺骨は仏教徒であるタイ国の王室に譲りわたされたが、その一部が日本の仏教徒に分与され、現在では、名古屋の覚王山日泰寺に納められ、諸宗交替で輪番する制度になっている。

 -中村 元氏の訳になる「大パリニッバーナ経」の註釈より-
参照サイト:「仏舎利奉迎と覚王山日泰寺」
参照サイト:「日泰寺仏舎利奉安塔」

 さて、さらにブッダについて進めてみよう。突然、釈迦が歴史に姿を現したのかというと、そうではないことは私が迂回するような始まり方で書き進めていることでも明らかである。
 考えても見よ、小さいとはいえ国王の息子であり何不自由なく育っていたのに、ある日突然、都合のいいことに、苦しむ人々を見、世の苦しみに目覚めるものなのか、と。私であれば美しいと言われている妻や至れり尽くせりの宮殿生活で旨いものを喰い、舞姫を侍らせ昼から酒を飲み、ぬくぬくとして生活をしているはずだからである。いやいや、それは凡夫の下卑た考えだと言われればそれまでではあるが凡夫故に見えるものもあると思う。何かこれはおかしいのではないか、と思うのが当たり前であると言える。それでも私の疑問が偏屈だというならば近くにいる僧侶などに聞いてみ給え、そんなに幸せで恵まれているのにどうして出家せざるを得なくなったのですか?と。幸せってどういうものなのですか?と。ついでにお釈迦様ってインド人なんですか?と、出自を聞くことも忘れないようにしなければならない。その結果、聞けば聞く程納得が出来なくなり、疑問が湧き出てくるはずだからである。
 それではこう言いかえてもいい。アーリア種の一氏族にしか過ぎない族長シュッドーダナ(浄飯 (じょうぼん) 王)の長子と生まれたブッダがその伝統、習俗の中でアーリア人としての世界認識の中、意識変革に遭遇していったと言えば謎の糸口がほどけてくるのではないか、と。つまりブッダは人(ひと)である。だがその人となりを想像するには余りにも史実としての記録がないのも事実である。増谷文雄はその辺のところについてその著書『仏陀-その生涯と思想-』において以下のように書いている。
これまでの仏伝
 では、わたしどもは、いかにしてこの人に対面し、この人を見ることができるであろうか。そのことは、残念ながら、けっして容易なことではないのである。なんとなれば、この人にいたる道は、はなはだしく歪められ、この人の真の姿は、いちじるしくわたしどもから遠ざけられているからである。アドルフ・フォン・ハルナックは、その著名なる講演『キリスト教の本質』において、イエスについておなじ嘆きを述べ、「残念なことには、現代の公教育はわれわれには、イエス・キリストの姿を印象深く、かつ自己固有の所有としてとどめるのに適しているとは言えない」と言っているが、わたしどもの釈尊に対する状態は、明らかに、彼らのイエスに対する状態よりも、はるかに、より悪しき状態におかれているのである。

-仏陀 第1章「この人を見よ」 増谷文雄-

 たとえ「大蔵経」の隅々を調べてみたとしても私人としての仏陀の姿を見ることは叶わないのである。元はといえば後世に信のよりどころとして編纂されたものなのだからであり、神話的手法をとらざるを得ない時代背景もあったからである。神秘化され美化された仏陀の姿だけは私達はその後の仏典から読み取ることは出来ても生活者であった仏陀の姿を見ることは出来ないということにもなる。人であるが故に生活の痕跡があり生きた証があるのであり、たぐいまれな人であった故に今日の人々の中に残っていったのであるが、いわばそれは二律背反している事を示しているに過ぎない。われわれに残された「痕跡」はインド古代文字が刻まれていた舎利瓶の発見で知るのみであることに変わりがないのである。
 さて私人としての釈迦の不透明性について更に述べていかなければならない。その伝えることの神秘性に眩惑されることなく書くにも乏しい知識ではおぼつかないとも言える。だが少なくとも仏教というカテゴリから一端離れてみればインド古代史についてはそれなりの資料も提供されていることも事実である。そもそも増谷文雄も言うように『何がこの人をしてかく考えしめたのであろうか』という問題が大きな意味をもってくることは言うまでもないことである。簡単に言えばゴータマ=シッダルターが恵まれていた王子の様な身分というならば、なぜ出家せざるを得なかったのかと言うことに戻ると思う。言ってみれば、せざるを得なかった、何かがあったのである。
 増谷文雄が端的に当時の釈迦族の置かれていた歴史的背景を以下のように書いている。
サキャ族について
 サキャ(釈迦)族の政治的存在は、当時のインドにおいては、まことに微々たるものであった。仏教の文献においても、当時のインドの政治的状勢に言及して、いわゆる「十六大国」を語っているが、その「十六大国」のうちには、むろんサキャ族はふくまれていない。
・・・(中略)・・・
 その政治的独立もけっして完全なものではなくして、釈尊出家の前後には西隣の強国コーサラ(拘薩羅)の保護のもとに置かれた。そして、釈尊の在世中、かのコーサラ国王パセーナディ(波斯匿)の子ウィドゥーダバ(鼻溜荼迦葉)のために悲惨な滅亡を喫したことは、仏典の中にも明らかに記されている。

-仏陀 第3章「大いなる放棄」 増谷文雄-

 つまり、ゴータマの置かれていた状況は平和でもなく常に存亡の淵に立たされていた部族の一員であったと言っても言い過ぎではないだろう。十六大国でなくその保護領もしくは属領であったと見なせば当時の世界であれば首のひとつやふたつは簡単に飛ばせたはずである。王権が完全な形で成立している十六大国でない弱小集団においては当時サンガと呼ばれた一種の共和制を以て一族の政治や儀式を行っていたと見られる。つまりゴータマの父は王と呼べるものではなく敢えて言えば祭儀も司る釈迦族の長老であったと見るべきであろう。
  -光芒-4-「シャカとは一体誰なのかⅠ」に続く-
  -光芒-序-「意識の欠片」

2007-05-05

光芒-2-「アーリア人のインド支配」

カースト制度に於ける不可蝕賎民と輪廻 (Samsara)

 さて、インドへ侵入したアーリア人は先住のドラヴィダ人(Dravidian)や他の少数民族への支配と融合を目指したと思われる。世に流布されているアーリア人によってドラヴィダ人文化が滅ぼされたという書きようがあるが、それは間違いで、むしろインダス文明に基づく文化が時間をかけて変容したと考えるべきである。また逆に言えばドラヴィダ人がアーリア人によって長く支配される時代を迎えたのであると云えばよいだろう。そしてその民族支配の名残の大きなものは現在もある『カースト制度』だと思われる。またこの支配構造の中で「階級社会」も創り上げられていったのである。この「四種姓」の区別もアーリア人(Aryan)のバラモン文化の繁栄と共に定着していった。
 アーリア人のガンジス定着はおよそ今から三千年以前からはじまり、以後五百年ほどの間に一段落した。この時代は同時にバラモン文化の全盛時代であり、リグ・ヴェーダにつづくサマ・ヤジュル・アタルヴァ等のヴェーダ成立の時期である。かれらの都市国家は、社会上における階級制度の成立に役立ち、現在もなおインド社会の桎梏をなすカースト制度すなわち四種姓の区別も、この時代に決定的になったのである。四種姓とはすなわち宗教・学問を司るバラモン種を最上とし、クシャトリアの王侯武人の階級がこれにつぎ、その下にヴァイシャの庶民階級と最下等のスードラの奴隷層とがあった。この中、バラモンは最貴の位置を占め、その宗教祭儀を記したヴェーダは絶対に神聖視された。けだし、当時宗教ははすなわち科学であり文学であり、知識は宗教を離れて存在しなかった。したがって、これにたずさわるバラモン階級が社会の指導権を握り、かれらによって哲学・文学の上に特殊な発達をとげるようになったのである。

【ガンジス流域平野の都市国家】-「アジア史概説」-宮崎市定

 カースト制度の発生はいわば絶対的支配階級からの一種の選民思想であり、ヴェーダ伝承の裏付けを得て創り上げられアーリア人(Aryan)の国家形成に寄与していったと言うことになるかと思う。また経済的構造についても牧畜や農耕一辺倒から商工業の発生を迎えつつある時代に向かっていたとも言えるだろう。このような時代背景は一種のアーリア人 (Aryan)文化の成熟期に当たり、逆に言えば対外的な敵がまだ存在していなかったからこそ内なる国家に向かったのではないかと思われる。カースト制度についてさらに考察を進めていきたい。
 起元前13世紀頃に、アーリア人のインド支配に伴い、バラモン教の一部として作られた。基本的なカーストは4つにわけられているが、その中は更に細かく分類されている。
 カーストという単語はもとポルトガル語で血統を表す。そこからインドにおける種々の社会集団の構造を表す言葉になった。カーストの移動は認められておらず、また、カーストは親から子へと受け継がれる。結婚も同じカースト間で行われる。そのように古い起源を持つ制度であるが、現在も法的な制約はないものの、人種差別的にインド社会に深く根付いている。

(中略)
 カーストは基本的な分類が四つあるが、その中には非常に細かい定義があり非常に多くのカーストがある。カーストは身分や職業を規定する。カーストは親から受け継がれるだけで、生まれたあとにカーストを変えることはできない。だたし、現在の人生の結果によって次の生など未来の生で高いカーストに上がることができる。現在のカーストは過去の生の結果であるから、受け入れて人生のテーマを生きるべきだとされる。

(中略)
 カーストは親から受け継がれ、カーストを変えることが出来ない。カーストは職業や身分を定める。他の宗教から改宗した場合は最下位のカーストであるスードラに入ることしかできない。生まれ変わりがその基本的な考えとして強くあり、努力により次の生で上のカーストに生まれることを勧める。

【カースト(身分制度)】ウィキペディア(Wikipedia)-

 カーストは現世において決定されてしまったものであり特別の例外を除くと変えることのできない身分制度でもある。アチュート - (カースト以下)である「不可蝕賎民」の存在や彼らが従事している2000以上にわたる職業は親から子へ受け継がれるものとして決められている。現在インドの不可蝕賎民の占める人口は1億人を越えると推定されている。そしてまたヴェーダの選民思想はヒンズー教によって現在も受け継がれインドに於ける共同幻想(共有する観念)を体現化している。そしてまた、このカースト制度と輪廻思想とは決して不可分ではなく輪廻転生があってのカースト制度の容認に繋がっているのである。
 写真家としてインド亜大陸で活動の多い柴田徹之氏の『chaichai south asian image』の中の「インド旅の雑学ノート」には現代インドについて大変興味深い考察が載っているので引用したいと思う。
(前略)
 デリーをはじめとする大都市の片隅で何度も見かけた光景がある。完全に不可殖民と思われる人々が、裏通りのどん詰まりのような場所で、めいめいが缶など太鼓代わりになるものと棒とを持ち寄り、激しいリズムで打ちまくる。人々は髪の毛を振り乱しながら次第にトランスの世界へと身を投じていく。その先に現れるものが何かは分からない。それはときにシヴァ神であったり、あるいはその他の鬼神(シヴァは本来、鬼神であったとする説もある)であるのかもしれない。鬼神は、あるいは彼らの「守護霊」でもあり、いつも寄り添うように彼らを見守っているのかもしれない。おそらく、彼らがカーストを捨て去るとき、彼らの「守護霊」も彼らを見放すに違いない。カーストはその人の出自を意味するものだ。彼らの魂も「守護霊」も、彼らのカーストの中に宿っているものだ、ともいえるだろう。また現実問題として、カーストは社会保障の役割をも兼ねている。独立心の乏しい多くのインド人にとって、カーストによるつながりが社会生活を送る上で必要不可欠のアイテムになっていることも事実である。インド社会はカーストに依存し、そしてがんじがらめになっている。思うに、現在なおカーストが機能しているのは結局はインド人の強い支持のあらわれではないか。それを許容しているのは上位カーストの人々だけではない。もし、下位カーストの人々がそろって武力蜂起したら、カーストなんてすぐに崩壊するに違いない。でも実際にはそうはならなかったし、これからもないだろう。あとは時間がゆっくりと解消するのを待つほかないのかもしれない。
(後略)

【カーストの不思議】-柴田徹之-

※参照サイト:「 chaichai 旅写真ブログ」-柴田徹之-

 我々から見ると哀しい現実ではあるが、渦中のインド亜大陸に住まう人々にとっては未来の道しるべとして「輪廻」の中の一コマの人生でしかないのかも知れない。

現代インドの人種と言語について

 カースト制度について語る時に忘れてはならない事がある。それは人種の出自とも深く関わっている言語である。ここで現代インドの概略だけをなぞってみよう。
矛盾多きインド
 イギリス人リーズレーによる1901年の国勢調査の報告によると、インドの人種は、ドラヴィダ型、モンゴル型、インド・アーリア型、トルコ・イラン型、モンゴル・ドラヴィダ型、アーリア・ドラヴィダ型、スキタイ・ドラヴィダ型の七種に大別され、その各々は、さらに数十に細別されるという。
 このように人種構成が複雑であるということは、同時に、かれらが使用する言語が雑多であるということを意味した。現在インドで使用されている言語は、おもなものだけで七〇種とも九七種ともいわれているが、100万人以上によって使用されているものだけでも、二三種にのぼる。文化の基盤となる言語が、ひとつの国の中で、このように区々として統一がないということは、まことに驚くべきことといわなければならない。

-古代インド 佐藤圭四郎 世界の歴史6-

 また言語については大まかに言えばアーリア系言語*註1とドラヴィダ系言語*註2とに分かれる。そして人種と言語はさらに現代インドの宗教であるジャイナ教、拝火教、イスラム教そして多数を占めるヒンドゥ教の構成基盤に繋がるものとしてあり、特にヒンドゥ教にはその人種や言語によって様々に宗派が分かれている現状がある。

*註1:アーリア系言語:カルカッタを含むベンガル州で使用しているベンガル語、西隣のビハールで使用しているビハール語、南部のオリッサ地方で使用しているウリャ語、インド北部で用いているパンジャブ語およびラージプターナ語、ボンベイを中心とした地域で用いているマラーダ語、その北で使われているクジャラート語などである。

*註2:ドラヴィダ語系言語:インド半島南部で主に使われている。その西部においてはカナラ語が、その半島西南部ではマラヤラム語、東海岸の中部地方でテルグ語、マドラス以南の地方ではタミル語が使用されている。
  -光芒-3-「ゴータマ・シッダールタ」 に続く-
  -光芒-序-「意識の欠片」
※このエントリははてなダイアリ(2005-11-06)から転載されました。

2007-05-04

光芒-1-「アーリア人の侵入」

インダス文明の発見

 インダス文明の痕跡は広範囲にわたっている。現に発掘された遺跡間の距離をとってもその範域が推測できるだろう。同一文化を持っていたハラッパー*註1とモヘンジョ・ダロとは約650キロ離れている。今ではそのほかに100以上の遺跡の存在が知られるようになり、その分布地域はインド西海岸沿いに南に広がり、東にタール砂漠を越えてガンジス川流域にまで及んでいるのではないかと言われている。1921年にインドの学者がハラッパーの遺跡を発見する。そのあと1922年にインド人考古学者*註2がモヘンジョ=ダロの遺跡を発見する。イギリス人の考古学者ジョン・マーシャル*註3は1925年からモヘンジョ=ダロ(「死者の丘」の意味)の大規模な発掘作業を開始した。これが通称言われるところのインダス文明の発見である。そして言いようが悪いが、そこからはインダス文明を築いた人間と破壊した人間がいたことが分かっている。そういう意味では特異な遺跡であると言わなければならない。モヘンジョ=ダロが何故に「死者の丘」という意を含めて名付けられたのかはその遺跡内にある屋内跡や街路跡におびただしい老若男女の遺骨が大量に散乱していた事から来ている。そしてそれぞれの遺骨には歴然とした武器による傷痕が刻まれていた。これは外敵による侵入があり大量虐殺があった事を物語っている。殺戮者はアーリア人であったのではないかといわれている。

大虐殺の痕跡といわれている写真(モヘンジョ=ダロ博物館)
*註1:ハラッパー遺跡:1921年パキスタン北東部,パンジャーブ地方サヒワルの西20kmのラヴィ川の左岸鉄道敷設工事の中で発見される。1922年インド考古局のサハニの最初の調査以来,ヴァッツによる大規模な発掘とイギリスのウィーラーの部分的確認調査が行われ城塞下には、西方のパルチスターン高原(イラン、パキスタンとの国境沿い、イラン高原の一部)の文化と関連をもつ先ハラッパー文化が確認されている。城塞は東西200m,南北400m。
*註2:インドの考古学者バネルジーが、パキスタンのシンド州ラールカーナのモヘン・ジョダロと呼ばれる荒れ果てた丘にある、二世紀頃に立てられたと思える仏塔(ストウーパ)を発掘していて象形文字の刻まれている印章を発見する
*註3:マーシャル・マッケー:インド考古学局長、発掘報告書「モヘンジョ・ダロとインダス文明」全三巻を発表し紀元前三千年を中心にし前後五百年にわたってインダス川流域に栄えていた事を実証した。

インダス文明 とアーリア人の侵入

 実はインダス文明(Indus Valley civilization)と呼ばれているものについてはまだよく分かっていない。またこの文明の中心者であるドラヴィダ人(Dravidian)は地中海周辺に起源を持ちメソポタミアのイラク高原から北部インドに紀元前3500年ほど前に移住して来ていることが判っている。文明としては紀元前2600年から紀元前1900年の間栄えたと言えるだろう。その文明の遺跡は現在以下に影を止めている。
ハラッパー、カーリバンガン(パンジャブ地方)
モヘンジョダロ(パキスタン南部、シンド地方)
ロータル、ドーラビーラ(北西インドのグジャラート)

 いずれも小さな都市国家ではなかったかと言われている。またこの文明は「文字」を持っていたことも最近判っている。象形文字であるインダス文字*註1は現在約400文字が発見されているが文字の解読は現在も進行形である。

写真はインダス文字

 都市部の周辺で農耕や牧畜を行っていた「青銅器文明」でもあった。また当時のメソポタミア文明との商交易を行っていたことも判っている。その中でも特筆すべきことも最近明らかになってきている。商業活動に使った銅製分銅や秤から分銅のセットを軽い方から重い方へ並べて順番に秤量してゆくと、「二進数」を使っていたのではないか推測する指摘もある。二進数は今ではコンピューターで用いられ、その二進数を彼らがその商業活動に用いていたのでは、とある。また祭祀については「火の祭祀」を、埋葬は地面に穴を掘って遺体を埋葬する土坑墓を用い遺体は、頭を「北」にして仰向けに身体を伸ばした、いわゆる仰臥伸展葬が主体であった。足を曲げた形で遺体が葬られているものもあるが、その場合も頭は「北」に置かれた。先住民族としての「ムンダ人(オーストロアジア系)」はドラビダ人とともにインダス文明の担い手ではなかったといわれている。またムンダ人の「起源神話」は卵生型神話である。
 その後アーリア人(Aryan)の侵入に伴いドラヴィダ人はインドを南下し以下の地方で部族形成を行っていった。インド西部のオリッサ、ベンガル、インド中部のマディヤ・プラテーシュ、インド南部のデカン高原などである。
 アーリア人(Aryan)*註2の発祥については色々な説があるが手がかりは彼らの使った言語から推察したものが今のところ一番有力ではないかと思う。『ウィキペディア(Wikipedia)』によれば「インド・ヨーロッパ語族」としての範疇の民族を「アーリア人」としている。属する言語として、サンスクリット語、ペルシア語、トカラ語、ギリシア語、ラテン語、英語、バルト語、ロシア語、アルメニア語、アルバニア語などが挙げられる。つまり、ヨーロッパ北大西洋沿岸から現在の中国「新疆ウイグル自治区」に該当する地域までの広範な版図が入っている。またトカラ語のように滅びていった言語も多数有るようである。歴史学的にはカスピ海、黒海沿岸からコーカサス地域に居た遊牧民族が北上しバルト海沿岸へ、また西方へはギリシャや今のトルコがある小アジアへ、そして南下は今のイラン(イランとはアーリア人の国という意)、インドへ到達したようである。つまりは、中央アジアからヨーロッパ全域にわたっている。
 アナトリア高原で建国したアーリア人はヒッタイト王国を築き先住民族から鉄の精製を得た。「旧約聖書」ではヘテ人と呼ばれメソポタミアの古バビロニア帝国を滅ぼし、ラムセス2世の率いる古代エジプトと戦いその軍を破りシリアまで版図とした。
 またギリシャまで至った部族は「ミュケナイ文書」を、イランへ侵入したアーリア人はゾロアスター教の最高教典「アヴェスター」を、インドへ到達したアーリア人は「ヴェーダ聖典」を残したのである。民族という概念については宮崎市定氏の引用がわかりやすいかと思える。
民族なるものはけっして先天的にあたえられたものではない。いいかえれば血統によって自然に定まってしまうものではなく、もっと大きな歴史的環境によって定められるものである。民族の決定には、もちろん血脈が重要な要素となるが、その他には政治あるいは文化、文化の中にもとくに言語・宗教・風習などが大きな発言権をもっている。純粋な民族とは、医学的に均質な骨格体質をもっていることよりも、むしろ思想信念において統一された歴史的民族を意味する方が多い。
  -【民族と歴史】「アジア史概説」宮崎市定より引用-

*註1:インダス文字:この文字は、ほぼ同時代とされている前期エラム文字、初期シュメール文字、ミノア文字(ミュケナイ文字)、エジプト文字などと同じく象形文字である。インダス文字は象形であっても相当高度の標準化が行われて変化している為今も解読がされていない。文字は右から左に書かれているが、時には第二行目で左から右に進行している例もある。そのあたりがインダス文明の体系的な解明のネックとなっている。
*註2:インド文化の中心的役割を果たしているインド・アーリア人は古くは中央アジアに居住し牧畜を営んでいた民族のひとつであると考えられている。背が高く、色は白く、鼻は真っ直ぐに長く、容姿が整っていた。使われていた言語は現代ヨーロッパ諸民族の古語と同一系である。アーリアとは高貴なものと云う意味である。

 中央アジア平原にいたアーリア人(Aryan)の一団が北と南に分かれ移動を始めたことを先日述べたわけであるが、ここでは今から三千五百年前に最北インド(パンジャブ地方)に侵入を開始したアーリア人(Aryan)について述べていくことになるかと思う。
 アーリア人(Aryan)の民族移動と共に既文明であったインダス文明を築いていたドラヴィダ人(Dravidian)のあるものは戦いに敗れ隷属し、またあるものは圧迫によって移動を開始しほぼ全インドに散らばっていったことは容易に推測出来る。また少数であったムンダ人(オーストロアジア系)は中央山岳部(デカン高原)に追いやられていくことになった。パンジャブ地方を平定したアーリア人(Aryan)はさらに五百年をかけ東方に向かいガンジス川流域まで支配領域を押し広げる。そのような状況の中でアーリア人(Aryan)の文化(バラモン文化)が花開いていくのである。 アーリア人(Aryan)についての歴史の断片的な部分については彼らの聖典『リグ・ヴェーダ』によって知ることができる。またアーリア人(Aryan)の文化や祭祀についてはドラヴィダ人(Dravidian)の伝承しているものを含めても興味深い事柄が多い。
HYMN I. Agni.

1 I Laud Agni, the chosen Priest, God, minister of sacrifice,
The hotar, lavishest of wealth.
2 Worthy is Agni to be praised by living as by ancient seers.
He shall bring. hitherward the Gods.
3 Through Agni man obtaineth wealth, yea, plenty waxing day by day,
Most rich in heroes, glorious.
4 Agni, the perfect sacrifice which thou encompassest about
Verily goeth to the Gods.
5 May Agni, sapient-minded Priest, truthful, most gloriously great,
The God, come hither with the Gods.
6 Whatever blessing, Agni, thou wilt grant unto thy worshipper,
That, Angiras, is indeed thy truth.
7 To thee, dispeller of the night, O Agni, day by day with prayer
Bringing thee reverence, we come
8 Ruler of sacrifices, guard of Law eternal, radiant One,
Increasing in thine own abode.
9 Be to us easy of approach, even as a father to his son:
Agni, be with us for our weal.

-The Rig-Veda アグニ(火の神)-
(The Rig-Veda, Griffith, tr. (1896) This is a complete English translation of the Rig Veda by Griffith published in 1896)

 アーリア人(Aryan)の基本的な文化については我々には思い当たる節も多く、またドラヴィダ人(Dravidian)の埋葬習俗(死しての北枕等)もこの極東の国である日本の伝承的儀式に名残をみることが出来るようである。
 元来、アーリア人の宗教は自然現象の背後にひそむ威力を神格化して、これを賛美崇拝するところにあった。インドに入ったアーリア人はその地の大自然に接して刺激を受けると、さらに固有精神に対する信仰の度を高め、天地・火・水・風・太陽・雷電等を表徴した多数の神格を讃仰し、ソーマ草の液をしぼって神酒とし、供物を火中に投げて勝利と幸福を祈願するのを常とした。そして死後は天界に上がって諸神と歓楽を共にするのを理想とし、すぐれた韻律・修辞の技巧を使って讃歌を唱したのであった。

【リグ・ヴェーダ時代のアーリア人】-「アジア史概説」-宮崎市定より引用

 かれらは自然神と共にあり、御神酒があり、祈願には火を焚き、死すれば天界にいる諸神と楽しく過ごすことができたのである。この辺のところは『大乗仏典』を視野に入れると重要な概念ではないかと思える。また、ヴェーダについては下記の概要を参照して欲しい。

 ヴェーダとしては4種類ある。
1. リグ・ヴェーダ - ホートリ祭官に所属。神々の讃歌。
2. サーマ・ヴェーダ - ウドガートリ祭官に所属。
3. ヤジュル・ヴェーダ - アドヴァリウ祭官に所属。黒ヤジュル・ヴェーダ、白ヤジュル・ヴェーダの2種類がある。
4. アタルヴァ・ヴェーダ - ブラフマン祭官に所属。他の三つに比べて成立が新しい。後になってヴェーダとして加えられた。

 また、各ヴェーダは4つの部分から構成される。
1. 本集(サンヒター) - 中心的な部分で、マントラ(讃歌、歌詞、祭詞、呪詞)により構成される。
2. ブラーフマナ (祭儀書) 紀元前800年頃を中心に成立。散文形式で書かれている。祭式の手順や神学的意味を説明。
3. アーラニヤカ (森林書) 人里離れた森林で語られる秘技。祭式の説明と哲学的な説明。内容としてブラーフマナとウパニシャッドの中間的な位置。
4. ウパニシャッド (奥義書) (ヴェーダーンタとも呼ばれるが、これは「ヴェーダの最後」の意味) 哲学的な部分。インド哲学の源流でもある。紀元前500年頃を中心に成立。一つのヴェーダに複数のウパニシャッドが含まれ、それぞれに名前が付いている。他にヴェーダに含まれていないウパニシャッドも存在する。通常、ヴェーダと呼んだ場合、4つのヴェーダの内、特に本集(サンヒター)をさす場合が多い。古代のリシ(聖人)達によって神から受け取られたと言われ、シュルティ(天啓聖典)と呼ばる。ヴェーダは口伝でのみ伝承されて来た。文字が使用されるようになっても文字にすることを避けられ、師から弟子へと伝えられた。後になって文字に記されたが、実際には、文字に記されたのはごく一部とされる。ヴェーダにおけるサンスクリットは後の時代に書かれたものとは異なる点が多くあり、言語学的にも重要である。聖典には他にリシ達によって作られたスムリティ(古伝書)がありヴェーダとは区別される。スムリティには、マハーバーラタやラーマーヤナ、マヌ法典などがある。

-【ヴェーダ】ウィキペディア(Wikipedia)
※その他の参照サイト:HINDUWEBSITEの『リグ・ヴェーダ-The Rig-Veda(英訳)-』
※ヴェーダ(Veda)の意は元来「知識」という義である。とくに「宗教的知識」を意味する。

 リグ・ヴェーダ時代のアーリア人(Aryan)の軍隊は歩兵と戦車隊から成り立っていて、きわめて勇猛果敢であったとされている。また同族間においても戦争を行った形跡もあるが同族の自覚は極めて高かったと推測されている。『リグ・ヴェーダ』によれば先住原住民からの反撃を団結協力して排除し各地に砦のようなものをつくり戦った。
これらの先住民は色黒く鼻低く宗教を異にする醜族として描写され、あるいは悪魔として取り扱われている。その大部分は現今南インドに繁栄するドラヴィダ人と同系統に属するものと思われるが、さらに『リグ・ヴェーダ』の言語を考究すれば、そのほかにも現今中部インドに残存するムンダ人の祖先にあたるものなどが含まれていたのであろう。
【リグ・ヴェーダ時代のアーリア人】-「アジア史概説」-宮崎市定

 このようにしてアーリア人(Aryan)は先住民族を駆逐し、又は隷属し色々な都市国家を造りあげていき、また都市国家同士の闘争を経ながらガンジス川流域にまで覇権を構築していったのである。

「ミュケナイ文書」とは何か

 ここで一端先程書いた「ミュケナイ文書」について簡単に述べておく。「ミュケナイ文書」についてのわかりやすい引用リンクが現在のところ少ないが以下の参照サイトはある。
ナルキッソス(NavrkissoV)「バルバロイ!」より-
 またこれと別に個人のサイトとしては今は消滅しているがキャッシュで追うことも可能である。非常に簡易且つ面白く書かれているので引用文として載せた。ただし個人の範疇で書かれたものとしての「前提」が必要かと思う。それを了解して引用を読んで頂ければよいかと思う。また今となれば引用元も辿ることが出来なくなっていることをお断りしておく。
12月28日 古代文字の解読その2 線文字B
 ヒエログリフほど話題に上ることはなくても、それ以上に困難な作業を克服したのが、線文字Bの解読である。その発見の舞台となったのは、ギリシアはクレタ島、迷宮神話で有名な島だ。1900年3月31日、イギリスの考古学者アーサー・エヴァンスは、この地で一枚の粘土板を発見した。さらに粘土板の詰まった木箱や貯蔵庫までも見つかった。このとき見つかった粘土板は、三つのグループに分けられる。第一のグループは紀元前2000年から1600年ころのもので、表意文字らしき絵のようなものが記されていた。第二のグループは紀元前1750年ころから1450年ころのもので、簡単な線文字が刻まれていた。これを線文字Aと言う。線文字Aはいまだに解読されていない。第三のグループが1450年から1375年までのもので、これが線文字Bと呼ばれる文字である。粘土板の多くはこの線文字Bで記されていた。はじめ、線文字Bについてわかったことはごくわずかだった。余白が右側にあることから左から右へ進む文字であること。文字の種類が九十種類あり、音節文字であることが推測できること。(表音文字の場合文字の種類は20~40で収まり、表意文字の場合は文字の種類はいくらでも増える。音節文字はその中間で50~100種類になる。音節文字である日本語もこの中に収まっている)。
 エヴァンスの考えでは、この文字は非ギリシア語を記した文字であり、かつてクレタ島で使われていた言語(ミノア語)であった。そして研究チームから線文字Bをギリシア語を表記したものであると主張するものを追い出していった。しかし実際問題としては、線文字Bに関しては何もわかっていなかった。そしてエヴァンスは1941年にこの世を去る。
 エヴァンスの残した課題に取り組み、目覚ましい結果を挙げたのは、古典学者アリス・コーバーである。彼女は線文字Bが語幹と語尾から成り立っていることに気づいた。線文字Bで記されていた言葉は屈折語であることが彼女によって判明した。しかしそれですべてが解決したわけではなく、謎の三番目の記号が浮かび上がってくる。単語を構成する記号の集まりの中で三つ目に位置する記号(つまり単語の三文字目)が語尾とも語幹ともつかない振る舞いをしていたのである。これをコーバーは「つなぎ音節」であろうと推測する。つなぎ音節とは母音が語尾の一部になり子音は語幹の一部になるような音節のことである。線文字Bの他、アッカド語などにつなぎ音節があることが知られている。さらに彼女はつなぎ音節からヒントを得て、同じ語幹に連なるつなぎ音節記号は子音を共有すること、また同じ語尾を持つ単語同士に用いられたつなぎ音節は同じ母音を持つことを導き出した。そしてそれらをリスト化していった途中の1950年、肺ガンで他界した。
 線文字B解読への次なる挑戦者は建築家、マイケル・ヴェントリスだ。7歳でヒエログリフに関する本を読み、14歳でエヴァンズの講義を聴講していた彼は十八歳の時、線文字Bに関する論文を「アメリカン・ジャーナル・オブ・アーケオロジー」に掲載されている。ヴェントリスはコーバーの研究結果をふまえ、語幹とつなぎ音節を共有する単語を探し、母音だけの音を表す記号(日本語ならあいうえお)を見つけ出す。二年を費やした後、ついにヴェントリスはいくつかの記号の音価を特定することに成功した。ヒントになったのは母音から始まる街の名前、アムニソスだった。その読み方を他の単語に代入し、推測を繰り返していくことで、彼は音価を特定できる文字を増やしていった。これはさらに、コーバーのつなぎ音節の研究から、同じ母音、子音を持つとされる記号の音価も推測できるようになったことを示している。その結果、大変なことが判明したのである。それはエヴァンズの作り出した通説に反して、書かれているのがギリシア語であるということだった。エヴァンズの講演を聴いて以来、通説を信じていたヴェントリスにとってこの衝撃はいかばかりだっただろう。しかし調べれば調べるほど、線文字Bがギリシア語を記している証拠ばかりが募っていく。こうした主張をヴェントリスはBBCラジオで述べる機会があった。そのリスナーの一人に大戦中暗号解読者として働き、戦後はギリシア語の講師をしていたジョン・チャドウィックがいた。彼はヴェントリスの論を批判するため、ヴェントリスの著作を読んでみた。そしてヴェントリスの協力者になった。
 チャドウィックは、ヴェントリスに足りないものを持っていた。古代ギリシア語の知識である。チャドウィックは言語の発展に見られる三つの形(発音の変化、文法の変化、語彙の変化)を考慮しつつ3500年前のギリシア語へとさかのぼった。1953年、ふたりは線文字Bに対する研究を「ミュケナイ文書のギリシア語方言説を支持する証拠」という論文にまとめ、「ジャーナル・オブ・ヘレニック・スタディーズ」に発表する。この論文は世界に衝撃を与えた。この年行われたヴェントリスの線文字Bに対する公開講演を「ギリシア考古学のエベレスト」と言われたほどだ。ヴェントリスはその後、チャドウィックと共同で「ミュケナイのギリシア語による文書」という本の出版を計画する。しかし本が印刷される数週間前の1956年9月6日、車の衝突事故によって他界した。
 ヴェントリスのパートナー、チャドウィックはその後、線文字Bの解読を著した。
以上引用

  -光芒-2-「アーリア人のインド支配」に続く-
  -光芒-序-「意識の欠片」
※このエントリははてなダイアリ(2005-11-05)から転載されました。

2007-05-03

光芒-序-「意識の欠片」

 私にとって宗門は生まれ落ちてからそこに「あった」ということに過ぎなかった。子供の時代から青年期となるまで、それは生活過程の中の「儀式」の一面を見せるものであり、それ以上でもそれ以下でもなかった。また多くの人々にとってそれは当たり前のことでもあると思う。身近な者が死ぬと一族がその家に集まり僧中心とした葬儀が執り行われ、そして火葬され、やがて納骨される。それは宗教と言うより生活に根ざした儀式的なものであり信仰というものから少し離れた位置にあるように感じていた。しかしそれは累々と今も重ねられているものでもあった。今この齢になって初めて自分の意識の隅に取り残されていたこれらの欠片を少しづつ集めて、やがて「その時」を迎えるであろう自分を見つめることも良しと思うに到った。どのようなところへ辿り着くのかは私自身もよく分からないのだが、きっと概念的なものや観念的なもので解き明かされるものではないことだけは確かである。また市井の人間にしか過ぎない私がこれから進めようとしていることは無謀にも思えるのだが凡夫は凡夫としての書きようもあるということではないかと思っている。
 元々は私の別ブログで、あるところにおいて断片的にまとまりもなく書いていたものを再度「はてな」に移行しようと試みたものであることを断っておきたい。もっとも大幅な改編が必要と思い、それならば今後はそのまま「はてな」で書き進めた方が本来の目的にかなうのではないかと思った次第である。もっとも何処が到着点となるのかは全く分からない。だからこそ書くのである。
御影堂
写真は御影堂(京都、東本願寺):世界最大の木造建築物。4度の火災に遭いながらも1880年(明治13年)起工、1895年(明治28年)完成。親鸞聖人の遺骨と御影像を六角の小堂に納め、「廟堂」「御影堂」とよんだ。

 私の死屍を、良い場所に持っていきたい。
 一人の修行僧がバラナシの河の淵で息を引きとりつつあるのを一日中見つづけながら、私はそのように思ったことがある。河の見える聖地の赤土の上で、天空を見つめ一人印を結びながら静かに死んでいったあの男は、何てダンディな奴だ!俺はお前の最後のダンディぶりを写真に二枚残してやった。

     -印度放浪 藤原新也-

 藤原新也の『印度放浪』は今となれば古典的名作であるというべきか。ガンジス川の河原で人間の足を銜えている犬の姿が衝撃的であった。屍を貪るように喰らう野犬たち。ということで仏教の誕生と当時のインドの歴史的背景について話を進めていくことになる。では遥か古代インドへの旅から始めようようではないか。
  -光芒-1-「アーリア人の侵入」に続く- 
※このエントリははてなダイアリ(2005-11-04)から転載されました。