2007-05-06

光芒-3-「ゴータマ・シッダールタ」

ウパニシャッド哲学

 アーリア人(Aryan)の支配が安定し花開くヴェーダ文化のなかでバラモン経典の深化はさらに究極へ向かうことになる。『ウパニシャッド哲学』である。辻直四郎の「ウパニシャッドの語義」によればウパニシャッド(upa-ni-sad)とはサンスクリット語で「近くに坐す」ということであり師弟間が対坐をし問答の形式をとり奥秘の哲理を伝授したとある。
ウパニシャッド哲学
 バラモン神学における祭式万能主義にあきたらないで、宇宙の根源と人間の本体となるものを考えてこれを梵と名づけ、ここに梵我一如を唱導するウパニシャッド哲学が成立した。これは今から約2500年以前のことであるが、おそらく世界における最初の深奥な哲学的思惟の産物で、しかもすでに死物と化した古代思想ではなく、近代的ヨーロッパ、とくにドイツの哲学に大きな影響を及ぼして現今に生きていることは注目に値する。
 【ウパニシャッド哲学】-「アジア史概説」-宮崎市定

 哲学としてのウパニシャッドの熟成時代は紀元前700年から500年頃と見られその後仏教の誕生を迎える。時代的にはウパニシャッド哲学の後期と仏教の興隆と重なる時代があることは別に驚きではないといえる。またこのことはウパニシャッド哲学の原理に対する一つの答として現れた『釈迦』の教えに根元的に深く関わることでもある。
 ウパニシャッドを一言で言えば宮崎市定の言葉を待つまでもなく『梵我一如』という言葉で表すことであろうと言える。では梵我一如とは何なのだろうか。いうまでもなくウパニシャッドとは哲学であると共に宗教でもあるということを踏まえなくてはいけないだろう。ウパニシャッドの教えの究極の目的は「解脱」にあるからだ。
〔宇宙の〕因たる梵とは何ぞや。そも何処より生じ、我らは何によりて生存するや。また何処に依止するや。何ものに支配せられて我らは苦楽の裡に〔各自の〕状態に赴くや。梵を知る者よ
  -ウパニシャッドの主題より(辻直四郎)-

 梵(大宇宙)、つまりブラフマンと名称し、我(小宇宙)、つまりアートマンと名称する。余談ではあるが語源的にはアーリア種であるドイツ語Atem(息、呼吸の意)と同義である。まずはブラフマン(中性語)がこの宇宙の万有を創り上げ、または宇宙(自我が認識する世界)である世界そのものであるという原理である。そしてアートマンとは身体を指す個体的な自我であり、ブラフマンをも包括する世界であるという原理であり、古代ヴェーダ頃からその追及が行われた。しかし『梵我一如』と示す通り究極的にはその一体化を帰する一元論に他ならない。ウパニシャッドの世界が生み出したいわばこの帰一思想、自我の中にこそ世界があるという概念はある意味では世界で初めて自我(意識)の存在を体系的に論じたものでもあるとも言えるだろう。また、道徳的な意味でも、善悪の業に従って再び生をこの世に受けるといういわゆる『輪廻説』を唱え後世のインド宗教に多大な影響を与えた。

都市国家から領土的大国家へ

 ガンジス大河流域の大平野には仏陀出世の頃、数個の強国があり、大河の中流以上を占めるコーサラ国と、中流以下を領するマガタ国とが覇を争っていた。初期の仏教保護にもっとも力を尽くしたのはマガタ国で、その王ビンビサラは新宗教の擁護者となり、仏教はその首都王舎城を中心としてガンジス河流域一帯に宣布された。その子アジャータシャトルは父を幽閉し、餓死させて位についた暴君といわれたが、コーサラ王と戦い、一度は勝ったが、つぎの戦いに敗れて捕虜となり、許されてコーサラ王女を娶って帰国し、ガンジス河の南岸にパータリプトラ城を築いて都とし、やがてコーサラ国も威圧して、ガンジス平野全体に覇を唱えた。この王は後に自己の罪過を悔い、厚く仏教に帰依するようになったというが、王はたんに仏教のみならず、ジャイナ教をも保護したようである。

  【マガタ王国の制覇】「アジア史概説」宮崎市定

 ガンジス平野に於いて乱立していたアーリア人の都市国家群も相次ぐ戦乱の中に於いて覇権国家が誕生していったということであり仏典において登場している「マガタ国」や「コーサラ国」もその一つの強国であったということである。

 上の地図を見れば仏陀の生誕地といわれているルンビニは今のネパール領にあることが分かる。
 仏陀が生きていた時代はアーリア人の文化の成熟期でありガンジス川の中流域の商・工業の発展と共にそれぞれの都市国家の発展は王が支配する国へと変化を遂げつつあったと言うことになるかと思う。そして各王国はそれぞれの経済的発展に伴ってカーストでいえば一般庶民(商・工業経営者)が力をつけてきた時期にも入ろうとしていた。貨幣経済の発展は富裕層を生み出し、物質的な豊かさは享楽の傾向を強めていったと想像するにかたくないと思われる。つまり「ヴェーダ」や「ウパニシャッド」で深化されていった文化の退廃を招いてゆくことにもなり、バラモン思想を批判的に見直そうという新たな思想の出現を見ることになるのは歴史の必然ともいうべき時代でもあった。まさに仏陀の教えはその時代の渦中に広がっていったのである。平たくいえば前衛的であり先鋭的であったのだといえる。

ゴータマ・シッダールタ(Gotama Siddhattha)

 お釈迦様と通称呼称されているブッダのことを広く指しているのは大概の者は知っている。そして本名はゴータマ=シッダールタとある。そして聖者であり、覚者であり、生身の人間であることも知っている。またその生誕にまつわる話も出家も、苦行も、悟りも、涅槃も様々な媒体によって知らされている。我々が知りうることは経典や説話を通して、ほぼ逸話的なものに認知をしているだけである。つまりゴータマ=シッダールタという人物についての全てを知っているわけではないと言うことにもなるかと思う。たとえば一般的なことでいえば下記のようなものであるに過ぎない。
 釈迦牟尼(シャカ族の聖者)を略してシャカとよび,ブッダ(さとりをひらいた人)ともいう。ヒマラヤのふもとのシャカ族の国,カピラ国の王子として生まれた。不自由のない生活を送っていたが,人々の苦しんで生きる姿を見て悩み,29歳のとき宮殿を出て修行の道に入った。35歳のとき,ブッダガヤの菩提樹の下でさとりをえた。かれは,自分の欲望を捨て人の幸せのためを考えてこそ,この世の苦しみからのがれられる,と教えた。シャカの説く教えを仏教という。サルナートではじめて説法をしてから,次第に弟子もふえ,国王や大商人のなかにも信者ができ,コーサラ国には祇園精舎(ぎおんしょうじゃ)とよぶ僧院もできた。80歳で,クシナガラ郊外の沙羅双樹の木の下で生涯を終えた。
◇シャカの死後,弟子たちの記憶をもとに,かれの教えをまとめて多くの経典がつくられた。

-学研学習事典データーベース-

 勿論これに付随した様々な装飾をちりばめた伝承をあちこちで見ることも読むことも出来る。大概はこれ以上でもこれ以下でもない。考えようではブッダが出現しなければ釈迦族なんて部族名も歴史に残らなかったはずである。それと共にインドという地域もその他の古代文明の地域と大差ない認識で我々は捉えるからである。ではあらためてその仏典等ではではどのようにシャカを捉えているのだろうか。重複するようだがあらためて仏陀(もしくはブッタ)について書いておこう。
 ヒマラヤ山麓にある現在でいえばネパール領ルンミンディーにある小国シャーキャ(Sakya)族の都カピラ城で王子シッダールタSiddharthaとして生まれた。正確な生年はいまだよく分かっていない。そういうこともあってここで変ではあるが入滅時のことから書いておきたい。
 仏陀(もしくはブッタ)は45年間の乞食(こつじき)伝道の後クシナーラ(カシア)において80年の命を閉じた。亡骸はマルラ族の手によって火葬にされ、遺骨は八カ所に建てられたストゥーパ(塔)に分骨された。このゴータマ・ブッタ(仏陀)の没年についてはカシミールの「説一切有部」を根拠とする紀元前383年説、「セイロン上座部」をもとにした紀元前478年説などが有名であるがその他の諸説と共に学問的な結論は出ていない。分骨された八カ所は以下の通りである。

1. クシナーラーのマルラ族
2. マガダ国のアジャタシャトゥル王
3. ベーシャーリーのリッチャビ族
4. カビラヴァストフのシャーキャ族
5. アッラカッパのプリ族
6. ラーマガーマのコーリャ族
7. ヴェータデーバのバラモン
8. バーヴァーのマルラ族

 また、その時の様子については原始仏典である「大パリニッバーナ経」に詳しく書かれている。
仏陀の最後の言葉
 そこで尊師は修行僧たちに告げた。
「さあ、修行僧たちよ。お前たちに告げよう、『もろもろの事象は過ぎ去るものである。怠ることなく修行を完成しなさい』と。
 これが修行をつづけて来た者の最後の言葉であった。

大パリニッバーナ経(中村 元訳)【第六章 臨終のことば】

 入滅時においての様子は別の機会に書くとしてこの偉大な人の実在について書きとめておきたい。仏陀の歴史的な存在については学問的には19世紀頃まで「伝説」の人でしかなく、実在しなかったと思われていた。これには色々な理由がある。ある意味では「大乗仏典」の成立年代が紀元後であるにかかわらず「仏説」とか「如是我聞」とかの書き出しで始まる経典の存在がその「聖なる人」の実在を疑問視させたこともあった。死して何百年も経った後、あたかもブッタが「こう言われた・・・云々」という大乗仏典の始まりの語句に疑いを持ったのである。それについても別の機会に書くつもりであるが、ここでいささか長い引用になるが、中村元氏の訳になる「大パリニッバーナ経」の註釈について以下に記しておきたい。
 1898年にカピラ城(カピラヴァストゥ)から約13キロ隔たったピプラーワーで、イギリス人の地主ペッペ(ウィリアム・ペッペ)が自分の所有地の中で一つの古墳を発掘したところ、その中から遺骨を納めた壷が発見された。それには世紀前数世紀の文字で「釈尊の遺骨」である旨が銘刻されているから、これは歴史的人物としてのゴータマ・ブッダの真実の遺骨である、と断定してよいであろう。その刻文は「これはシャカ族のブッダ・世尊の遺骨の龕であって、名誉ある兄弟並びに姉妹・妻子たちの(奉祀せるもの)である」となっている。(ただしこの銘文の解読については異説もある。)

 右(上)の遺骨は仏教徒であるタイ国の王室に譲りわたされたが、その一部が日本の仏教徒に分与され、現在では、名古屋の覚王山日泰寺に納められ、諸宗交替で輪番する制度になっている。

 -中村 元氏の訳になる「大パリニッバーナ経」の註釈より-
参照サイト:「仏舎利奉迎と覚王山日泰寺」
参照サイト:「日泰寺仏舎利奉安塔」

 さて、さらにブッダについて進めてみよう。突然、釈迦が歴史に姿を現したのかというと、そうではないことは私が迂回するような始まり方で書き進めていることでも明らかである。
 考えても見よ、小さいとはいえ国王の息子であり何不自由なく育っていたのに、ある日突然、都合のいいことに、苦しむ人々を見、世の苦しみに目覚めるものなのか、と。私であれば美しいと言われている妻や至れり尽くせりの宮殿生活で旨いものを喰い、舞姫を侍らせ昼から酒を飲み、ぬくぬくとして生活をしているはずだからである。いやいや、それは凡夫の下卑た考えだと言われればそれまでではあるが凡夫故に見えるものもあると思う。何かこれはおかしいのではないか、と思うのが当たり前であると言える。それでも私の疑問が偏屈だというならば近くにいる僧侶などに聞いてみ給え、そんなに幸せで恵まれているのにどうして出家せざるを得なくなったのですか?と。幸せってどういうものなのですか?と。ついでにお釈迦様ってインド人なんですか?と、出自を聞くことも忘れないようにしなければならない。その結果、聞けば聞く程納得が出来なくなり、疑問が湧き出てくるはずだからである。
 それではこう言いかえてもいい。アーリア種の一氏族にしか過ぎない族長シュッドーダナ(浄飯 (じょうぼん) 王)の長子と生まれたブッダがその伝統、習俗の中でアーリア人としての世界認識の中、意識変革に遭遇していったと言えば謎の糸口がほどけてくるのではないか、と。つまりブッダは人(ひと)である。だがその人となりを想像するには余りにも史実としての記録がないのも事実である。増谷文雄はその辺のところについてその著書『仏陀-その生涯と思想-』において以下のように書いている。
これまでの仏伝
 では、わたしどもは、いかにしてこの人に対面し、この人を見ることができるであろうか。そのことは、残念ながら、けっして容易なことではないのである。なんとなれば、この人にいたる道は、はなはだしく歪められ、この人の真の姿は、いちじるしくわたしどもから遠ざけられているからである。アドルフ・フォン・ハルナックは、その著名なる講演『キリスト教の本質』において、イエスについておなじ嘆きを述べ、「残念なことには、現代の公教育はわれわれには、イエス・キリストの姿を印象深く、かつ自己固有の所有としてとどめるのに適しているとは言えない」と言っているが、わたしどもの釈尊に対する状態は、明らかに、彼らのイエスに対する状態よりも、はるかに、より悪しき状態におかれているのである。

-仏陀 第1章「この人を見よ」 増谷文雄-

 たとえ「大蔵経」の隅々を調べてみたとしても私人としての仏陀の姿を見ることは叶わないのである。元はといえば後世に信のよりどころとして編纂されたものなのだからであり、神話的手法をとらざるを得ない時代背景もあったからである。神秘化され美化された仏陀の姿だけは私達はその後の仏典から読み取ることは出来ても生活者であった仏陀の姿を見ることは出来ないということにもなる。人であるが故に生活の痕跡があり生きた証があるのであり、たぐいまれな人であった故に今日の人々の中に残っていったのであるが、いわばそれは二律背反している事を示しているに過ぎない。われわれに残された「痕跡」はインド古代文字が刻まれていた舎利瓶の発見で知るのみであることに変わりがないのである。
 さて私人としての釈迦の不透明性について更に述べていかなければならない。その伝えることの神秘性に眩惑されることなく書くにも乏しい知識ではおぼつかないとも言える。だが少なくとも仏教というカテゴリから一端離れてみればインド古代史についてはそれなりの資料も提供されていることも事実である。そもそも増谷文雄も言うように『何がこの人をしてかく考えしめたのであろうか』という問題が大きな意味をもってくることは言うまでもないことである。簡単に言えばゴータマ=シッダルターが恵まれていた王子の様な身分というならば、なぜ出家せざるを得なかったのかと言うことに戻ると思う。言ってみれば、せざるを得なかった、何かがあったのである。
 増谷文雄が端的に当時の釈迦族の置かれていた歴史的背景を以下のように書いている。
サキャ族について
 サキャ(釈迦)族の政治的存在は、当時のインドにおいては、まことに微々たるものであった。仏教の文献においても、当時のインドの政治的状勢に言及して、いわゆる「十六大国」を語っているが、その「十六大国」のうちには、むろんサキャ族はふくまれていない。
・・・(中略)・・・
 その政治的独立もけっして完全なものではなくして、釈尊出家の前後には西隣の強国コーサラ(拘薩羅)の保護のもとに置かれた。そして、釈尊の在世中、かのコーサラ国王パセーナディ(波斯匿)の子ウィドゥーダバ(鼻溜荼迦葉)のために悲惨な滅亡を喫したことは、仏典の中にも明らかに記されている。

-仏陀 第3章「大いなる放棄」 増谷文雄-

 つまり、ゴータマの置かれていた状況は平和でもなく常に存亡の淵に立たされていた部族の一員であったと言っても言い過ぎではないだろう。十六大国でなくその保護領もしくは属領であったと見なせば当時の世界であれば首のひとつやふたつは簡単に飛ばせたはずである。王権が完全な形で成立している十六大国でない弱小集団においては当時サンガと呼ばれた一種の共和制を以て一族の政治や儀式を行っていたと見られる。つまりゴータマの父は王と呼べるものではなく敢えて言えば祭儀も司る釈迦族の長老であったと見るべきであろう。
  -光芒-4-「シャカとは一体誰なのかⅠ」に続く-
  -光芒-序-「意識の欠片」