2008-08-20

批評の本質

 保坂和志と高橋源一郎そして笙野頼子氏等に端を発した『小説は小説家にしかわからない』事件って『事件』なのかどうかは別としてなんか色々とネットをヲチしてたんだが私から見ると「論争」といえるものなのかどうか分からない。一種の文壇政治ゴシップみたいに思うのは不遜であるかも知れないが見え隠れする作家という矜持に違和感みたいなものを持ってしまった。いわゆる作家先生の鼻持ちならなさみたいなものに不快の念を禁じ得なかった、と云う風に言ってもいいだろう。しかし今となれば記憶の隅っこに移動してしまっていて当初感じた苛立ちは消えてしまっている。
しかし、最高の批評は作品からおもいがけないものをつくりだす創造作業だ。作品に価値を与えることができる。作品を鐘になぞらえてハイデガーがそういっている(とブランショがいっている)。批評はその鐘を打つ打ち方で、だれも聴いたことのない響きをつくりだせたとき、その批評は最高の批評なのだ、と。しかも、その批評のあと、その響きは、はじめから鐘が持っていたものだとされる。作品を輝かせると、そのときにはもう批評は消え去る。触媒に、「消える媒介者」にすぎないものとなる。その消滅こそが、批評のほこりなのだ、と。
 -「欲望なんてものはない」-坂のある非風景-

 批評が批評たりえるのはM氏がいうとおり作品の雰囲気を批評家たるものがどう伝えることが出来るのかでしかない。そしてその点で批評も文学という範疇に棲息出来うるものだと思っている。そして批判も批評のひとつでもあることは自明である。また世に棲む作家と呼ばれる人たちと批評家と呼ばれる人たちのせめぎ合いも有りとしなければならないだろう。読者というものが存在する限り「批評」と呼ばれるものも存在するのだ。レヴィナスは読み手となっている人たちを「受容者」と呼んでいて『現実とその影-Emmanuel Lévinas1948年』のなかで批評の本質を以下のように述べている。
マラルメを解釈することは、マラルメを裏切ることではなかろうか。マラルメを忠実に解釈することは、マラルメを抹殺することではなかろうか。マラルメが曖昧に語ったことを明晰に語ること、それは、マラルメの曖昧な語りの無効性を明かすことではなかろうか。
文学の営みとは区別された機能としての批評、専門的で職業的な批評は、新聞や雑誌の文芸欄や書物として登場するのだが、そうした批評がうさんくさいもの、存在理由なきものと映るということも、もちろんありうるだろう。
けれども、批評の源泉は聴衆や観衆や読者の精神のうちにある。こうした受容者たちの振る舞いそのものとしての批評が存在するのだ。美的喜びに溺れることで満足することなく、受容者は、語らなくてはならないという抗しがたい欲求を感じる。
芸術家が作品について当の作品以外のことを語るのを拒む場合にも、受容者の側には語るべきことがあるということ、-黙って観照することはできないということ-、それが批評家の存在理由である。
批評家をこう定義することが出来る。批評家とは、すべてが語られてしまったときにも依然として語るべき何かを有している人間であり、作品について作品以外のことを語りうる人間である、と。
-【芸術と批評-p303】(『現実とその影-Emmanuel Lévinas1948年』合田正人 訳)-

 そして断固それは芸術家が蝿を払うようにしてもそれとして存在する。
このエントリィは「愚民の唄」2007-12-23に書かれたものを転載した。

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Emmanuel L´evinas 合田 正人

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2008-08-19

Epistrohy

 唐突だが私はEric Dolphy(エリック・ドルフィ)のEpistrohyが好きだ。そして私はEric DolphyのIron Manが好きだ。それもほとんどミーハー的にまで、だ。前者のサックスの咆吼、後者のBobby Hutcherson:vibesとの絡まり方はまるで狂気の万華鏡の世界を展開する。涯的宇宙空間での時間性への鬩ぎ合いとでも言えばいいのだろうか。対峙する意識としての外化不能までに空間性を消滅させ時間的に意識を浸食し始める。そう、まさに暴力的である。私はそこではひたすら自分の意識の消滅を祈り、物理的時空を超越しようとする。想像的意識はひたすら下降ホールを底へ、底へと落下していくのだ。そして辿り着くのは根源的な意識としての存在だけの世界である。あてどもなく彷徨う時間軸の先にある存在、だ。魂への揺さぶりとはそういうものなのである。
When you hear music, after it's over, it's gone in the air
You can never captune it again

- Erick Dolphy (Last Date)-

alt saxプレイヤーとしてのエリック・ドルフィの最後の言葉であることはジャズ・フアンの間ではよく知られている。音の作り上げた空間を良く言い表していると共にこれほど想像力の世界を言い当ている言葉は無い。

※このエントリィは「2004-02-27」にはてなダイアリに書かれたものが転載されたものである。
Last DateLast Date
Eric Dolphy

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2008-08-18

metaphysical ”Nardis”part three

 トランペット吹きがピアノ・トリオにピッタリの曲を創るって事は別に不思議ではない。人々の思いこみという観念の位相は時としては腹もふくれない「知識」というヤツに幻想を抱くものなのである。そしてそれは決して普遍性を有する「智慧」には到達しない。Bill Evansに関しての伝説や憶測はごまんとある。もっともそれに負けないくらいMiles伝説にも「嘘」があっていい。だから私はしたり顔で言う、彼が、Bill Evansがユダヤ人であった場合はどう論ずるのだ?と。この「ノート」も例外ではない。逸話は「逸話」として置いておけば良い。己の観念に取り込まれるのも愚者の常なのだから。そしてなんと言っても私は愚者である。
 さて魂を揺り動かされるという事は一体どういう事を指すのか。フレーズが紡ぎ出すえもいえない空間とは何なのだろうか。それは日頃は感ずる事もなかった「曲(絵画でも良い)」に急に感動を覚えたり涙したりする事は誰もが体験する事である。いわゆる”そこ”が泣き所といわれる所以である。しかし、そのことが本当に魂を揺さぶっているのだろうか。その波長で「気分が高揚したんだ」と。しかしながら私は言う「だからなんだ」と。高揚しない場合もあるのだ。鬱病患者を擬態化させようと目論むα波の音のことを言うのであれば心療内科の医者に任せておけばよいのだ。そしてそのような事を論ずる批評家然とした輩は放置、である。
 再びRichie Beirachへと戻ろう。私はpart oneにおいてBill Evans(P)とScott Lafaro(B)の関係を述べたかと思うが、では、Richie Beirach(P)、Frank Tusa(B)、Jeff Williams(Ds) のトリオはどう見えてくるのかを考察したいと思う。BeirachはおそらくこのNardisに向かう前にソロで数え切れないぐらいの試行をしたはずである。時間軸への挑戦である。当然の事である。おのれのNardisとEvansのNardisは時代性の位相差があるからである。今、目の前にある Evansトリオの音楽空間をBeirachはどのように止揚しようとしたのか。いかにもあっけない答えかも知れないがBeirachもEvansのようにしたのである。ご存じのようにEvansのNardisは1Takeだけではない事はよく知られている事実である。かれにとっては何度も何度も極めようとした特別のテーマだったのである。(何故特別なのかという事については後日述べようと思っている。)Beirachはソロで試行したであろう時におのれの時間軸を徹底的に駈け抜けたはずである。そしてその極みにあるおのれを見た幻覚にとらわれそうになったはずでもある。しかし見る事は出来なかったのである。そしてEONでの NardisのTakeに取り組んだのだ。そして後日何度もNardisに取り込まれる事になったのは周知の通りである。果てのない囚われの幻視に向かって・・・。

※このエントリィは「2004-02-26」にはてなダイアリに書かれたものが転載されたものである。
ナーディスナーディス
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2008-08-17

metaphysical ”Nardis”part two

 ピアニストBill EvansにとってのベーシストScott Lafaroの存在はお互いが「高まり」を共有出来る無比の存在であった事は先程述べているところであるが、彼とのsessionはScottのあっけない交通事故死によって終わっている。時空間の恋人同士であった片方の「死」はある意味では無惨ではあるがエバンスにとっては彼との空間を止揚するmotifにもなったはずである。己を先行するベーシストを失ったEvansの取るべき道はたゆまぬ時間化度への進撃である。後日のピアノ・トリオとしてのピアニストであるBill Evansは孤高である。
 このNardisであるがRichie Beirach(Richard Beirach)が様々な位相で取り組んでいる。リッチィ・バイラークは1947年NYのブルックリンで生まれている。私とほぼ同年である。名前から推察すると北方ヨーロッパ系移民の血を引いているようにも思える。彼のBill Evansへのこだわりは彼のアルバム(discography)からも窺い知ることが出来る。ECMレーベルから発売されたリッチィの初リーダーアルバムEON(1974年11月NY)のなかでNardisはとりあげられている。楽器編成はRichie Beirach(P)Frank Tusa(B), Jeff Williams(Ds)のピアノ・トリオである。このトリオで翌年もう一枚(Methuselah)つくられている。が、目指しているところからするとEONのほうがより「内省的」であり3枚目となるSunday SongにおけるTusa(B)とデュオに至る方が自然のように思える。EONのNardisは意欲的であり挑戦的である。当然の事ながらコードやフレーズから感じられるものは眩いばかりの Nardisへの「愛」でありBill Evansへの切ない想いの咆吼のようだ。何度も何度も虚空に向かう「フレーズ:仮講線」はTusaのベースによって高められていく。それでも”失墜”していく様はおどろおどろしいまでのピアノ独特の空間を形創る。Evansが試みたように”憑依”され何かを超えようとするかのように、だ。そしてBeirachは美学的に云うならばNardisというabstract artを造形したのだ。

※このエントリィは2004-02-24に「はてなダイアリ」に書かれたものが転載されたものである。
ポートレイト・イン・ジャズポートレイト・イン・ジャズ
ビル・エヴァンス スコット・ラファロ ポール・モチアン

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2008-08-16

metaphysical ”Nardis”part one

「ナーディス:NARDIS」は1958年MilesがCannonball AdderleyにRIVERSIDEへ移籍した初レコーディング・アルバムのお祝いに書いた曲である。長年マイルスに同伴していた彼の労苦のお返しに書いたと云われる。と、されている。オリジナルにはTAKE4・5とある。当時マイルスのバンドでピアノを弾いていたBill Evansやポン中のPhilly Joe Jonesが参加している。しかし、世間的にはどうやらBill EvansのNardisの方が知られている。プロデューサーでありミュージシャンであるBen Sidranの”逸話”が真実に近いとするならば帝王Millesのパクリであろうと推察される。笑えるではないか。シドレンを逆から読めばいいのだ・・・。つまりBill Evansの作曲と見るのが自然なのである。
 さてそのB・EvansのナーディスであるがきわめてどのTAKEも思索的である。彼のレパートリーの中でもこの曲だけは時間が経過していくほど形而上学的でもある。JAZZ的にどのTAKEが良いのかという問題ではない。sidemenや環境にもよるからだ。確実に時間性を獲得していく空間として云うのだ。ある意味ではこの曲は示唆的でもあるかも知れない。自己表現としての時間化度の深化を彼がこの曲で試していると言う事にもなるのだ。彼は1980年に亡くなっていて私はその2年前の冬に金沢のコンサートで会っている。楽屋でのきわめて短い時間でしかなかったが我々の質問に根気強く静かに応える彼の姿が印象的であった。ついでに云うならば握手した手が私の倍以上もあった事を覚えている。最初の一音に彼の時間化度が推察され、サイドの音はその後から来る。美しい!だが、これは違う!と云うのが正直な気持ちでもあった。おそらくメロディラインにまで昇華してくるScott Lafaroと自分の意識の中で較べていたのかもしれない。時空の中の「ケルン」であったScott Lafaroこそは彼を時間の極みにまで到達させたのではないだろうか。

※このエントリィは「2004-02-23」にはてなダイアリに書かれたものが転載されたものである。
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