2007-12-22

イマージュの断片的メモ2

Jean-Paul SartreのL'IMAGINAIRE『想像力の問題-想像力の現象学的心理学-』に関する私的メモ2
 ここに至る前に、このメモで飛び越えてしまったところへサルトルの論究をバックさせる必要性がある。という理由で、かってにさせて貰う。メモとしては、以下に取りあげる内容の先には進んでいるのだが「ここははずせない」という事を思っているので、あえていったん戻ることにした。お粗末な私の思考レベルで申し訳ないが所詮は行ったり来たりするものだと思う。ついでといったらなんだが、いささか長い引用でなおかつ難解な部分があるかも知れないことを断っておく。サルトルは一つの方法として、わかりやすい正六面体を取りあげている。意識の志向する対象物としての正六面体。
※写真はアンリ・ベルクソン
 
■準観察quasi-observationの現象

 知覚のなかでは私は対象物を観察する。観察するというのは、その対象物が如何に全的に私の知覚の中に入ってくるとしても、同時にある一つの面以上は決して私にはあたえられないという意味である。正六面体の例がよく知られている。その六つの面を把握しない限りそれが正六面体であることを私は知り得ない。ところで厳密にいえば同時に三つの面を見ることは出来ても、決してそれ以上を見ることは出来ない。それで私はそれを逐次に把握せねばならない。その上、たとえばABC三面の把握からBCD三面の把握に移るとき、私が位置を変えている間にA面が消え失せるのではないかという可能性は常に残る。それで正六面体の実在とは常に概念をとどめることになろう。同時に、私が正六面体の三つの面を同時に見ている時も、この三つの面は決して正方形として示されることはない点に注意しなければならない。それらの線は伸び、角は鈍角になり、それでわたしは私の知覚に映じたものをもととしてそれらの正方形としての性質を再構成せねばならぬのだ。全て以上のことは百たびも語られた。知覚の特性とは、その中では対象物が側面の連続、射影の連続としてしか決して表れることがない点にある。正六面体はまさしく私の眼前にあり、私はそれにふれ、それを見ることが出来る。しかし私はそれをある一つの仕方でもってみるほかはなく、そしてその仕方そのものが無数の観点を同時に求め且つ疎外している。それで対象物は学習apprendreされる必要があり、すなわちその対象物について能うる限り数多くの観点をとってみる必要がある。対象物自体とはこれらすべての現れの総合である。それ故対象物の知覚とは無限の面をそなえた現象である。このことが私たちにとって意味するところは何であろうか。それは対象物を廻ってつぶさに検討すること、ベルグソンのいったように、《砂糖が溶ける》のをまつこと、の必要性を意味する。これに反して、私が正六面体を具体的概念にもとづいて思念(パンセ)する時、私は同時にその六つの側面と八つの角を憶い浮かべる。また私はその角が直角であり、側面が正方形であることも憶い浮かべる。わたしは私の抱く観念の中心にいて、観念を残る隈なく一挙に把握する。このことはもとより、私の観念が無限の進歩を通じて完成されることを必要としないといわんとするのではない。ただ、私は意識のただ一度の作用のうちに具体的な諸本質を思い浮かべることが出来、従って外見を補修したり、学習に年期を入れたりする必要はないのである。思念と知覚の間にある最も明白な差異とは恐らくこのようなものである。この故にこそ私たちは思念を知覚することも知覚を思念することも決して出来はしない。それは根本的に二つの現象に関わる問題だ。すなわち一方は、一挙にその対象物の中心に身を置く、己自身の意識的な識知であり、他方は、おもむろに学習に年期を入れる、無数の外見の総合的統一である。
 註 このような概念の存在は屡々否定された。しかしながら知覚とイマージュとは、イマージュなく言葉なき具体的識知の存在を前提としている。
 ところでイマージュについては何というべきであろうか。それは学習であろうか。それとも識知であろうか。まず、イマージュは知覚に《与する》ように見える点に注意しよう。イマージュにあっても知覚にあっても対象物は横顔、射影、つまりドイツ人が《Abschattungen》(射影)という都合のよい言葉で示すところのものを通じてあたえられる。

以下の※は訳注(平井啓之)より

※「砂糖が溶けるのをまつ云々・・・・・。」ベルグソンが『創造的進化』その他で用いている比喩。同書10頁には、「私が一杯の砂糖水を欲しいとき、私は砂糖が水に溶ける間、空しく手を束ねて待っていなければならない。するとこの待たれている間の時間は、私の持続の一部と符合し、しかもそれは思いのままに長くしたり約めたり出来ないものである。それは体験的なものとなり、絶対的な性質のものとなる・・・・・・』という意味の言葉があるが、サルトルはここでは、単に、知覚の世界における事物と意識の関係の表面的な比喩として使っているもののようである。
※Abschanttunagen 射影  フッサールの用語。知覚、或いはこれに類する意識においてそこに意識されたものが現出する仕方。例えば一つの事物の知覚は知覚されている事物を決して一挙に意識することが出来ない。必ず知覚される《側》をもつ。このあらわな側は一つの超越的な意味対象物に統一されると共に、無限な、しかし特定の連続をなすことを特質とする。この際かかる一面的現出そのことは体験である。一度体験となったものは最早それ自らは射影することはない。これに反して、切り取られるように意識に映ずるそのもの自体は体験の実的要素ではなく、それに超越的なものであると考えられる。

 サルトルはここで知覚の世界で捉える正六面体への意識内に於いての像の結び方の限界性を述べている。であれば対象物をその全体的なイマージュとして捉えることは経験や学習によるものなのかということになるのだが、勿論これも否定されるのである。

■《溢れ出る》という在り方
『このことから《事物》の世界には何か溢れ出るものが存在することになる。』

・・・・・イマージュにあっては識知は直接的である。私たちは今や、イマージュとは、より適確にいえば、表象的ともいうべき諸要素に、ある具体的でイマージュ化されていない識知を結びつける総合的作用であることを知る。イマージュとは学習されるものではない。それは学習される諸対象物と同様に精確に組織される。しかし実は、イマージュはその出現の当初からそのあるがままの全貌をあらわすのだ。


一つの対象物はある一定の個性なしに存在しうるものではないといわれることの真の意味はこれである。それは、《限りなく多くの他の事物と、限りなく多くの決定的関係を保つことなしに》(存在しえない)という意味だと解さるべきである。


一言にしていえば、知覚の対象物はたえず意識から溢れ出るものであるのに、イマージュの対象物はそれについて人が抱く意識以上のものであることは決してない。それはその意識によって限定されている。既に知られていないようなものは何一つ学習され得ない。

 さて、スキップさせた部分についてはこのあたりまでとしよう。では知覚と区別されたものとは何かへ進もう。

■自発性
『イマージュとはエタ(状態)、すなわち確固として不透明な意識の残滓、ではなく、一つの意識であることがまずわかる』
 さて、サルトルは、いよいよこの章の結論的な部分に向かっていく。イマージュとして捉える身体的な関係、というか、イマージュという対象を捉える意識の表象は静的な時間で捕らわれているのではない。時間の不連続性の中で意識の表象として”単純”に外化されているのでもない。従来のいわゆる”意識の一部”から能動的、自発性をもって発せられているものであれば、それはすなわち何ものなのか、そしてまた、どこから来るのか、と。

イマージュはそれ自体が独自sui generisの意識であり如何なる仕方に於いてもそれより広い意識の一部をなすことは出来ない。思念以外にも、徴験や感情や感覚やを、内蔵していると思われる意識のうちにイマージュがあるのではない。

以下の引用は長いが重要なところだ。

この想像的意識は、それが知覚の領域に己れの対象物を求め、その対象物を構成する感覚的な諸要素を思念する(狙う)という意味に於いて表象的と呼び得る。同時に、それはまた、知覚的意識が知覚された対象物に対してすると同じに己れの対象物に対して自らの方向を定める。一方それは自発性をもち創造性を備えている。それは己れの対象物の感覚的資質を一連の創造作用によって支え保つ。知覚にあっては、まさしく表象的な要素は意識の受動性に呼応するものである。しかしイマージュに於いては、この要素は、その第一のそして言葉に伝え難い資質によって、意識的能動性の産物であり、想像的意志の流れによって全体に亘って貫かれている。この点から必然的に、イマージュとしての対象物は人間がそれに関してもつ意識をいささかもはみ出るものではない、ということになる。以上の事実こそ私たちが準観察の現象と呼んだところのものである。或るイマージュについて漠然とした意識をもつことは、漠然としたイマージュについての意識をもつことだ。それ故今や私たちは一般的なイマージュ、不確定なイマージュはあり得ない、と宣言したバークレィやヒュームからは遙かに遠ざかった。そして私たちはワットやメッセルの実験における被験者たちと全く一致する。被験者の甲は云った。「私たちは何か翼に似たものを見た。」と。被験者の乙は男とも女とも見当のつかぬ顔を見る。被験者の甲は実は「人間の顔に近似したイマージュ、典型的で、個性的ではないイマージュ」をもったのである。

以下※は訳注(平井啓之)より

※ヒューム(Hume,David)(1711-1776)イギリスの代表的哲学者。印象と狭義の観念とを区別し、観念を印象の再認とみた。ヒュームによれば凡ては印象として知覚にあたえられる。この点で彼は存在とは被知覚なりとしたバークレィに似ているが、知覚と想像との区別をその強度と生気の差にあるとした。我々の認識するものは印象として個々の性質と観念の聯合関係であり、実体、因果性などの観念はいずれも心理的聯想による主観的なものである。特に観念聯合については、類似、接近、因果関係の三方則を認めて、聯想心理学の先駆者の一人となった。
※バークレィ(Brkeley,George)(1685-1753)イギリスの哲学者。ロック哲学における物的実体の形而上学的存在を感覚論的に否定して、物はただ知覚表象として、即ち観念として存するのみであるとして、《存在とは被知覚なり》とする主観的観念論をを打ち立てた。
※ワット(Watt,H.J.)メッセル(Messer,A.)共にヴュルツブルグ学派に属するドイツの心理学者。ヴュルツブルグ学派とは、20世紀のはじめにキュルペの指導のもとにドイツのヴュルツブルグ大学を中心として、思考、判断、意志、等の高等な精神過程についてはじめて実験的研究を行った一派をいう。前出のビューレル、フラッハ、の他、マルベ、オルト、アッハ、コフカ、ゼルツ、等がこれに属する。ワットは連想反応実験を行い、メッセルはビューレルと共に質問法によって思考過程に存する特殊な非直観的内容の存在を指摘した。


 『その対象物の血肉がイマージュの場合と知覚の場合とでは同じでないということだ。』と云うサルトルの言葉がこの章の結論みたいなものである。そして静的力学からさらなる疑問へと旅立つのだ。つまり、ピエールを例にとるならば次のサルトルの言葉は示唆的である。『すなわち、何故に、また如何にして心象的意識conscience imageeは昨年パリに暮らしていたピエールを通してベルリンのピエールを思念する(狙う)のであるか。』と。
 さて、論の設定の入り口に立った訳なのだが、一度簡単に振り返るとしよう。『想像力の問題』においてサルトルはそのテーマの論究にあたって意識領域の中に一つの奥まった”意識”を仮定した。そしてその論拠を過去の”遺産”を批判的に論究したうえ『想像的意識』なるものの存在を我々に知らしめた。知覚作用のように見えながら、知覚とは全く区別されたあるものの存在がイマージュを創造すると言ったのである。つまり従来の古典的哲学者や科学者たちと異質な全く違う意識の存在を彼は言いはなったのである。そしてこれは彼の論の始まりであり、始まるが故に途中途中の論が彼自身の模索する姿と重なっていくのである。私は『想像力の問題』が様々な魅力に取り囲まれていると最初に言ったかと思うが、魅力や誘いがあると言うことはそれがそれ自身を止揚することとは別に、異なった時間と空間に”在る”私の視点と差異は出てくるはずである。またそうであるべきなのだ。つまりデカルト的に云うならば私とサルトルという”対比”は私はサルトルではない、従ってサルトルは私ではないという自明の認識があることは云うまでもないことである。この識別は重要である。私の反省的意識はサルトルを捉えサルトルを識知する事になっていくからだ。つまりわたしは私であるという認知の上で私は進むことになるからである。そもそも『想像力の問題』に惹かれるのは私自身が「表現」という問題を根底に抱えているからなのである。なにゆえこのような表現がなされるのかと言うことから始まる。つまり、なにゆえこのような映像表現がなされるのか、なにゆえこのような音楽表現がなされるのか、等々である。私にとっては表現の問題としての『想像力の問題』でしかないからである。そのためには医学でも現象学でも物理学でも構わないのである。前置きはこの辺にして前に進んでみよう。
※写真はサルトル

■類同代理物(アナロゴン)analogon

私は友人のピエールの顔を思い浮かべたいと望む。私はある努力をしてピエールの像的(イマージュ)意識を生ぜしめる。その時対象物はきわめて不完全にしか到達されていない。いくつかの細部は欠けているし、他の幾つかは疑わしいし、全体が暈かされている。或る共感的で快適な感情があって、それを私は彼の面影を前にしてよみがえらせたく思ったのだが、それは立返ってこなかったのだ。それでも私は自分の企てに諦めはつけず、立上がって抽出しから写真を取出す。それはピエールの見事な肖像写真であり、私はそこにピエールの顔のあらゆる細部を隈なく見出すし、その中には、それまで私が気がつかなかったようなものさえ幾つかある。しかしながら写真には生命が欠けている。それは完璧に、ピエールの顔の外部的特徴をあたえてはいる。だがその表情をつたえてはいない。たまたま私はある腕のいい画家がピエールを描いた戯画をもっている。今度は顔の各部部分の相互間の割合がことさら歪められており、鼻はあまりに長くなり、咽喉仏はあまりにも飛び出し過ぎている、etcといった工合だ。それにも拘わらず、写真には欠けていた何ものか、つまり生命、或いは表情、がこのデッサンの上には明らかにあらわれており、私はピエールを《発見》する。・・・・・。私はピエールの顔を知覚の領域に出現せしめたいと望むのであり、つまりそれを《現前せしめ》たいと望むのである。それに、私はその知覚を直接に出現せしめることは出来ないので、私は類同代理物analogonとして、知覚の等価物として働く何らかの素材を利用するのだ。

 『想像力の問題』の二での入り口のさわりの部分である。いよいよ。イマージュのイマージュたる部分にわけ入ることになる。

■類同的代理者representant analogique

私たちは、対象物はその場になく、その不在性を措定するのだと仮定した。しかしまたその非在性inexistenceを措定することも出来る。物的代理者たる、デュラーの版画の背後にあって、騎士と死神とは私にとって立派な対象物である。しかしこの場合には、私はそれらの対象物の不在性ではなく、非在性を措定する。このようなあたらしい対象物の部類に、私たちは虚構物の名を冠するのであるが、それは私たちがたった今考求したばかりの部類、版画や戯画、心的イマージュ、等の部類と並行して存在する部類のものを含んでいる。
結局イマージュとは、対象物の《類同的代理者》representant analogiqueとしての資格であらわれて、そのもの自体としてはあらわれない物的、或いは、心的な内容を通して、不在、或いは、非在の対象物を思念する《狙う》作用である、といい得るであろう。・・・・。
心的イマージュだけを切離して研究することは出来ないだろう。イマージュの世界と対象物の世界が別々に存在するわけではない。すべてての対象物は、外的知覚を通じてあらわれようと、内的感覚にあらわれようと、選ばれた照合の中心が奈辺にあるかにしたがって、現存的実在物として、或るいはイマージュとして、機能を果たし得る。二つの世界、想像界と現実界とは、同じ対象物で構成されている。ただこれらの対象物の類別と解釈とが変化するのだ。想像の世界をも現実の世界をも定義づけるものは、共に意識の態度である。

 サルトルはここで「心的イマージュ」という言葉を使い内的感覚を置き換えている。そして像(イマージュ)が《浮かぶ》とはそれぞれのケースの場合、どうであるのかに言及してゆく。肖像画、図式的絵図、舞台で唄う歌い手を眺める、炎の中の人間の顔を認める、眼球内光感にもとづいて構成される就寝時イマージュ、等々に論は進んでゆく。

■記号と肖像

1 記号の素材は意味される対象物に対して、全く何であろうとかまわない。《事務室》という文字、白い紙片の上の黒い線、と、単に物的であるのみならず、また社会的な意味をももつ複雑な対象物たる現実の《事務室》との間には如何なる関係もない。その因果関係の起こりは約束事である。ついでその関係は習慣によって強化される。文字が知覚されるや否や、意識のある一態度を動機づける習慣の力なくしては、《事務室》と云う言葉は決してその対象物を喚起するにはいたらぬことであろう。ところで物的心象とその対象物でとの間に存する関係は全く別だ。それらはお互いに似通っている。ところで似通っているとは一体どういうことであるのか。私たちがある肖像写真を眺める時、私たちのイマージュの素材とは、より単純な場合としてつい先刻私たちが話した、単なる線や色彩の錯綜ではない。それは、実は、準顔貌etc、をそなえた準人物、である。・・・。

 ここでの論究は私にとっては重要な触りになるかと思う。もとより論はこうでなくてはならないのではある。水も漏らさず進めるという事が必要なのである。しかし水は漏れていないものなのか?イマージュの構造にとっての「文字」は重要である。サルトルは「記号」として単純にこれから語っていくわけではない事は間違いないのであるが、文字イコール記号としての始まり方には若干抵抗を感じざるを得ない。論の設定からして仕方がないのかも知れないが、どうしても私は言語構造の認識にこだわりをもってしまう。今のところは巧く言えないのだが、『文字が知覚されるや否や、意識のある一態度を動機づける習慣の力なくしては、』という部分に於いての【習慣の力】という表現にも少し違和感がある。果たしてそれは【習慣の力】なのであろうか?と。また、『その因果関係の起こりは約束事である。』としているのだが、そうなのか?と。こんな事を言っているようでは先が思いやられるのだけども”蛇足”だな。さて、更に、さて、どうやらこのあたりがどうも自分を含めて怪しくなるが進めてみよう。
 サルトルはルーアンの美術館での巨大な絵画を例にとりながら人間に似せて作られた絵画を見ることの想像力の構造をピエールを使って以下のように言う。

絵画は対象物であることをやめて、イマージュの素材として機能を発揮する。ピエールを知覚しようとする願いは消え失せたわけではなく、それは像的総合の中に入ったのである。実をいえば、《類同代理物(アナロゴン)》としての機能を果たすものはこの願いであり、この願いを通して私の志向はピエールの上に向かう。私は心に独言をいう、-「成程、たしかに、ピエールはこんな風だ、彼はこの眉、この微笑をもっている。」かくて私が知覚する一切は、その場に居合わせない生きている存在、真物のピエール、を思念する(狙う)射影的な心的総合の中に入ってくる。

 ここまでは何ら違和感はないのだが、足踏みをさせる論究がこれから始まろうとする。

2 意味の世界では、文字は標桿に過ぎない。文字があらわれ、意味を眼醒めさせ、そしてこの意味はふたたび文字の上に立ちかえることはなく、意味は事物の上に赴き、文字を振り落としてしまう。これに反して、心的な基盤を有するイマージュの場合には、志向性は絶えずその肖像画的像の方へ立ちかえる。私たちはその肖像の前に身を置き、それを観察する。ピエールについての想像的意識は絶えずゆたかになる。新しい細部が絶えずその対象物に附加される。

 絵画については確かにそうである。しかし文字は単なる記号なのではないからして「意味の世界」として捨象されうるものなのかどうかではある。文字を読むことによる想像力の喚起についてはまだここに一言も書いていないようである。これからくねくねとするようなので先にサルトルの論を進めよう。サルトルの先にある論考の前にどうしてもやはりここは押さえておく必要が感じられるのでここで少々バックするとにする。
 では再び『記号と肖像』における論について戻り続けることにしよう。「事務室」という文字について振り返ることになるが、いかにも物的には紙の上に存在するインクである。そしてそれを読み取るには習慣的な力が働くとサルトルはのべている。しかし読み手はインクであるという物を逆に捨象していわば意味的な了解をする。敢えて言わせて貰えれば意味的な物を超越したところに於いて空間的了解性として時間的に意識にむかうものがあるのではないかという疑問が残る。習慣の力とはとりもなおさず歴史の累積性を辿らずして行き着くことが出来ないはずである。つまりこのサルトルの捉え方にはここでもって唯物的としか云えないものを感ずるのだ。面倒ではあるが、おそらくはもう一つ迂回しなければサルトルの論は成り立ちえないようにも思えるのだ。なるほどルーアンの美術館での巨大な絵画はあらゆる想像力に訴えかけてくる。「表現された」絵画としてである。では事務室と書いてある文字はいわゆる想像的意識に反映する像領域が絵画とは全く違い記号として捉えられているのか、と。文字は文字であることによって表現された言語空間を獲得しているはずだからだ。言葉を変えてみようか。サルトルは云う「私がフロレンスの美術館で、シャルル八世の肖像を眺めるとする。」から始まるところの論理には『シャルル八世」という肖像画から、つまり像的、きわめて像的に一種の画から来るイマージュの構造に焦点を当てているが文字から喚起される内的意識の表象には触れていない。言葉を記号として捉え習慣の力によって意味に辿り着くサルトルの論にとっては表現された言語であるところの側面を捨象しているのだ。こう私が言うのも意識の空間性に於いて事務室は記号とかたずけれないようにシャルル八世も文字的空間性があるからに他ならない。そして肖像画という意識に働きかける像的了解性に到る時間性というべきものがあるはずなのだ。表現された言語から像領域に到達するにはもう一つの準備が必要であろうと思われるのである。どうも本当にまどろっこしくなってきたようではある。やはり先に進むしかないようだ。私の説明不足もあるかも知れないので、サルトルの言う「記号」について誤解の無いようにもう少し立ち入ってみよう。なるほどサルトルは確かに記号である文字の認識についての時間性の辿り方は精緻ではある。記号を認識する構造については一部を除けば確かにサルトルの言う通りである。しかし、決して落としているとは言わないが、想像的意識の存在という原点に立ち返ったときに「内的言語」の仕組みをサルトルは現在の所、以下のようにしか進めない。もっとも、今のところ、で、ある。先が楽しみではあるが。

しかしまた、ここに、同じ性質のものだと思われる現象がある。私は、停車場の入口の真上に釘づけにされた張札の上に記された黒い太い線に近づく。するとこの黒い線は突然それに個有の諸次元、色、場所、をもつことを止める。それは今や《次長室》という文字を構成している。私は張札の上にこれらの文字を読み、今や異議を申し立てるためにはこの中に入らねばならないことを知る。私はその文字を理解し、《判読した》ということになる。しかしこのようないい方は絶対的に精確ではない。これらの黒い線をもとにして私がそれらの文字を創り出したのだといった方がよいであろう。これらの線はもはや私には用はない。私はもはやそれらの線を知覚しはしない。事実は、それらの線を通じて、他の対象物を思念する(狙う)意識の或る一態度をとったのである。その対象物とは、すなわち、私が其所に用事をもつ事務室である。それは線のところにはないが、しかしその記銘のおかげで、私は対象物を逸することがない。私はその対象物を位置づけ、それに関する識知を得る。私の志向が向けられる素材は、この志向によって変形させられて、私の現在の態度の渾然たる一部をなすにいたる。それは私の作用の素材であり、すなわち記号である。記号の場合にもイマージュの場合と同様に、私たちは、ある対象物を思念する《狙う》志向と、その志向が変形させる素材と、その場にない思念された《狙われた》対象物、とをもつ。

※内的言語langage interieur 心理学の用語としては内語ともいう。実際の発声運動は伴わないが、心の中でとなえる言葉。黙読の際等に体験される。多くの人は思考するときに内語を伴うが、この時、咽喉に緊張を感ずるというものもある。言語表象ともいわれる。さらに『記号と肖像』の内的言語に触れていく部分に進めよう。

ところが肖像的イマージュの場合には、問題がはるかに複雑になる。一方に於いて、ピエールはその肖像から千里も離れたところにいることもあり得る(もしそれが歴史的人物の肖像である場合には、その本人はおそらく死んでしまっていることであろう)。そして私たちが思念する(狙う)のはまさしくこの《私たちから千里も離れた対象物》なのである。ところが、他方、一切の物的性質は、其所、私たちの眼前にある。対象物は不在と措定されるが、その印象は現在のものである。そこには非合理的で説明するのに困難な心的総合が見られる。

 想像力は非在性inexistenceを措定するという現象は言葉を変えて何度も現れてくる。そしてこの事は我々が日常生活に於いて無意識に受け入れている現象でもある。しかし私たちはこのようにサルトルの論を考えてみると意識の未知領域の仕組みまでは理解しているとは言い難い。私なりにヘーゲルの「現象学」の緻密さを想起させたりしながらも、ここでまさしくなにかが解き明かされてくるのだという期待感を持ち始めてしまうのだ。言うまでもなく思惟という概念を考える上での知覚の現象とはなにか、である。そしてサルトルは既知の如く無神論者である。さて更に「記号と肖像」に進んでみよう。

・・・私はそれがシャルル八世、すなわち死んだ人の肖像であることを知っている。その死んだ人の肖像であるということの意味が私の現在の全ての態度に影響する。・・・つまり、一方では、久しい以前に塵となってしまっている、現実にあった唇の方へ向かい、そのことのみによって意味をもつ。しかし、また一方、その唇は私の感受性に直接働きかける、なぜならそれは絵というものの実物と見まがうばかりであり、画面の彩色された斑点は、額のように、また唇のように、目に映ずるからである。最後にこの二つの機能は融け合って、私たちは像的状態をもつことになり、すなわち、死んだシャルル八世が、そこに、つまり私たちの前に現存することになる。そのとき私たちが見るのはシャルル八世であり、絵画ではないのであるが、しかも一方、私たちは彼を其所にいないものとして措定している。私たちはただ《イマージュとしての》シャルル八世に、絵画の《仲介を通して》達するのみである。このように、意識が、想像的態度の裡に、肖像と本人との間に措定する関係はまさしく魔術的なものであることが判るだろう。

 知覚を超越した想像的意識へ、非存在を確かに見るという現象をここでサルトルは言っているのである。そして更に非存在の「存在」の意識の捉え方に進んでいく。

シャルル八世は同時に彼岸、過去の裡、にも、またこの世にもいる。この世では、多くの決定因(立体感、動性、時には色彩、etc)を欠いた、テンポの鈍った生命の状態で、且つ相対的なものとして。また、彼岸に於いては、絶対的なものとして。私たちは、非反省的意識の裡では、一人の画家がこの肖像画を描いたのだ、etcといったことは考えない。イマージュとそのモデルの間に措定された第一の絆は流出の絆である。元の本人が存在論的優位性を担う。しかしそれは化身して、天降ってイマージュにやどる。これこそ、己の絵像を前にした原始人の態度やある種の魔法(針で突いての蝋人形、狩猟の獲物が多いようにと壁に描かれた傷ついた野牛の像、)を説明するものである。

 どうやら絵画のもつイマージュの領域に入り込んできたようである。わくわくではないか。

私の現在の意識の中での絵の機能を発き出すものは反省的意識である。この反省的意識にとっては、ピエールと絵は二つのものに別れ、はっきり二つに分かれた対象物となる。しかし想像的意識態度にあっては、絵とは、ピエールが、私に対して不在のものとして現れるひとつの仕方に他ならない。このようにして絵は、ピエールその人はその場に存在しないとはいえ、やはりピエールその人をあたえる。

 つまり二つの差異の識別がおこなわれていることをいっている。

ところがこれに反して、記号はその対象物をあたえはしない。記号は空虚な志向によって記号として構成される。このことから、本来空虚なものである意味的意識が、その身を損なうことなく充足されることになる。私がピエールの姿を見ていて、そして誰かが「あれはピエールだよ」といったとする。すると私は、心的総合作用によってピエールという記号をピエールという知覚に結びつける。ところが像(イマージュ)の意識はそれなりに既に充足している。もしもピエールその人が姿を現せば、ピエールについてのイマージュの意識は失せる。

 ここは微妙な所になるかも知れない。ピエールという言葉の意味性に導かれて実物を見る(像として充足してしまっているという意か)という前提なのだが、平たく云えばイマージュの意識は実物を前にするとイマージュの意識が無くなるということである。では、絵や写真を除いた場合で、充足している像が無い段階で記号としてのピエールは空虚のままで意味するも像も描けないのかということにもなる。まだまだ先を読んでみないと不明ではあるがピエールという文字、すなわち記号は何を喚起するのか、要するにここパリにいて何故ベルリンにいるピエールを見ることが出来るのかというサルトルの言とまた繋がってくるのだと思う。少し先へ進んでみよう。

けれども、意識が写真の対象物をそのようなものとして措定するためには、それがただ存在するだけで充分なのだと考えてはならないだろう。対象物が存在するものとして措定されないような想像的意識の型や、また、対象物が非存在のものとして措定される別の型、があるということが判っている。このような異なった型の意識については、上に述べた記述をたいした変改も加えることなしにくりかえせば済むであろう。ただその場合意識の措定的性格が変わる。しかし措定の種々の型を区別するものは、志向の定立的性格であって、対象物の存在或いは非存在ではない、という事実は、強調されねばならない。たとえば、私はたしかにサントール(半獣人)を存在するものとして(但し不在のものとして)措定することは出来る。これに反して、新聞写真を眺める場合にも、その写真が《何一つ私に語りかけない》ことも当然あり得る。それはすなわち私がその写真を存在の措定を行うことなしに眺めている、ということである。その時私が見た写真の当人である人物達はたしかにその写真を通して到達せられたわけであるが、しかし存在としての措定を受けておらず、それは恰も、「騎士」と「死神」とデュラーの版画を通して到達されはするが、しかも私はそれを措定しない事情と同断である。

 こういった体験はよくあることである。何気なくテレビを見ている時もそうだといえる。或いは本を読んでいても引き込まれないような部分は読んでいるのではなく見ているだけ、という現象と同じだと思う。つまり印象にも残っていないということを指すのだと思われる。このことをサルトルは更に以下のように書いている。

・・・、何らの特有の志向性を享けていない。それらの人物たちは、知覚の岸辺、記号のそれ、更にイマージュのそれ、の間にただよっていて、その中の何れにも近寄ろうとはしない。

 そういうこと。そして「記号と肖像」は次の言葉で閉じられる。

これに反して、ある写真を前にして私たちが心に生じしめる、想像的意識はひとつの作用であり、この作用は己れ自身についての非定立的意識を自発性として包含している。その場合、いわば、私たちはその写真を活かしめて、それをイマージュたらしめるために生命を貸しあたえる意識をもつ。

 想像的意識は作用であり、思念であり志向性がないところに像は結ばれないということに他ならない。
続く
この稿は2004-08-11、2004-08-14、2004-08-19、2004-08-21、2004-08-30、2004-09-04、2004-09-05、2004-09-25、2004-11-16にはてなダイアリに於いて書かれたものを再編転載しました。

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