2007-12-21

イマージュの断片的メモ1

Jean-Paul SartreのL'IMAGINAIRE『想像力の問題-想像力の現象学的心理学-』に関する私的メモ1

 写真は前列がサルトル、カミュ、レリス。ジャック・ラカン、セシル・エリュアール、ピカソ、ボーヴォワール、他。



 前置き参照文(●印)として以下を最初に記しておいた。今後書き足される場合もあり得ると思うのだが・・・。とにかく前が見えないので試行錯誤をしていくと云うことについては理解していただきたい。そして残念ながら所詮興味の引かれることにしか自分の意志は向かわないということも最初にお断りしておきます。

●Jean-Paul Sartre1905→1980パリに生まれる。サルトルは現象学の志向性概念を脱自・無化の視点から解釈しながら、「無神論的実存主義者」として出発した。そして、フッサール、ハイデッガー、ヘーゲルの思想の影響下で対自と即自の相克を主題とする独自の現象学的存在論『存在と無』を公刊、・・・。
-【鷲田清一】-
●想像力は、一般に、「対象が現前していなくてもそれを直観的に表象しうる能力」と定義される。つまりそれは、感覚的に与えられていない事象(現に存在しないもの)を想い浮かべる能力を意味している。想像力はしたがって、伝統的に、一方では、実存している現実世界に対比される虚構の空想世界を定立していく創造的=制作的能力(「あたかも・・・・・・のように」という意識)として、他方では、(それはいつも現前から離脱していくのであるから)認識における誤謬の原因として、論じられることが多かった。これに対して現代の想像力論に特徴的なのは、想像的なものが、現実的なものに対置されるという仕方ではなく、むしろ、現実的なものの構成そのものを、さらには世界の出現そのものを媒介するものとして、主題化されるようになったということである。それはまず、世界の現れを〈解釈〉のプロセスとして捉える広い意味での現象学的=解釈学的な発想の中に見出される。対象は、あるいはその全体としての世界は、一般に、そのつど感覚的に現前している以上のものとして現れるのであり、その限りで対象的世界の存立は、そのつど現前を越えでて、それを何かとして捉えなおす想像的な意識の運動によって媒介されていると考えられる。・・・。
-【鷲田清一】-
●ジャン・ポール・サルトルには《想像力》の問題を扱った二冊の哲学的著書がある。《L'imagination》『想像力』及び《L'imaginaire》『想像上のもの』(すなわち本書であり、意訳して『想像力の問題』とした)がそれで前者は1936年、後者は1940年に出版されている。・・・。
-昭和29年12月7日ガリマール版翻訳者【平井啓之】-

 個人的なことに過ぎないが、『想像力の問題』という書物は様々な誘惑が潜んでいて興味深い1冊である。前置きはこのくらいにしてmemoを進めてみようと思う。

■イマージュの志向的構造

この著作は意識の《非現実化》する偉大な機能、すなわち《想像力》とそのノエマ的な相関者である想像界のことを記述するのを目的としている。
-第一部 確実な事象(からの序文)-

 ここでサルトルは意識の一部にあるというところの想像力がつき動かす想像界、つまりイマージュの意識、知覚的意識について論が進むことを宣言している。また「ノエマ」の概念については谷 徹が『表現と直接経験』において以下のように書いている。

ノエマは、現象学的還元をほぼ確立して以後のフッサールの主著である『イデーンⅠ』の中心概念の一つである。諸現出と一体的に捉えられたかぎりでの現出者のことである。
-表現と直接経験-谷 徹

 これについては別記において取り扱う必要があるかと思うのだが、基本的な概念として当時既にあるものとみなしてメモを進める。ちと、強引かも知れぬがいたらぬ点は追々追加していくしかないと思う。

■イマージュは一つの意識である

 私が椅子を知覚するとき、その椅子が私の知覚のうちにあるといえば馬鹿げていよう。私たちが採用した用語に従っていえば、私の知覚とは或る一つの意識であり、椅子とはこの意識の対象物である。今、私は目を閉じ、私がたった今知覚したばかりの椅子のイマージュを心の中に産み出す。その椅子はイマージュとして与えられた今も、それ迄よりも余計に意識のうちへ入り込むことは出来ぬであろう。椅子のイマージュは椅子ではないし、椅子ではあり得ない。実は、私が座っているこの藁椅子を私が知覚するにせよ想像するにせよ、それは常に意識の外にとどまっている。この二つの場合ともに、椅子は、そこ、空間のうち、この部屋の中に、机に面して、存在している。ところで、-とりわけそのことは、反省が私たちに教えることなのだが-私がこの椅子を知覚するにせよ想像するにせよ私の知覚の対象物と私のイマージュの対象物とは同じもの、すなわち、私がそれに腰をかけているこの椅子なのだ。ただ、意識はこの同じ椅子と二つの異なった仕方で関係するのである。二つの場合ともに意識は、椅子を具象的な個性と身体性をそなえた姿で思念する。ただ、知覚する場合には、椅子は意識によって《出逢われる》のに、想像する場合には、そのようなことはない。しかし、いずれにしても椅子は意識のうちにはない。イマージュとしてすら意識のうちにはないのだ。それは、突然意識のうちに貫入して、実在する椅子とは《本質外》の関係しかもたぬような、椅子の幻影の問題ではない。意識のある一つの型、すなわち実在する椅子と直接に関係をもつ総合的心的組織の問題であり、その心的組織の本質とは、まさに、甲なり乙なりの仕方で実在する椅子と関係をもつ点に存する。
 イマージュとはただしくは一体何ものであろうか。あきらかにそれは椅子ではない。一般に、イマージュの対象物はそれ自身のイマージュではない。それなら、イマ-ジュとは全体的な総合的組織、すなわち、意識である、というべきであろうか。しかし、その意識とは現存的且つ具体的なユヌ・ナチュールであり、それは、即自的、対自的に存在し、つねに媒介者なしに反省に身を委ね得るものなのだ。それで、イマージュという言葉は意識の対象物への関係のみを示すものであり、別の言い方でいえば、対象物が意識にあらわれるその仕方であり、あるいはまた、もしおのぞみなら、意識の対象物を自らあたえられるその仕方である。といってもよいであろう。実の所、心的イマージュという表現は混乱を招き易い。むしろ、《イマージュ-としての-ピエールの意識》とか《ピエール(についいて)の想像的意識》とかいった方がよいであろう。《イマージュ》なる言葉はそれ自身役立つ領域が広いので、私たちはそれを全然棄てて了うわけには行かない。しかし、一切のあいまいを避けるために、私たちはここで、イマージュとは関係に他ならぬことを想起しよう。私がピエールについてもつ想像的意識とはピエールのイマージュの意識ではない。ピエールは直接に到達せられるのであり、私の注意力はイマージュの上でなしに対象物の上に向けられる。

 大変長い引用になって申し訳ないのだが、出発点なので仕方がない。ここでイマージュ=像であり、ユヌ・ナチュール=一実体をさしています。独特の翻訳文なので難解さがつきまとうと思われるかも知れないが、意外と平易に理解すればよいのではないかと思う。意識の中の意識の存在の想定をここでしていると思えばよいだろう。ここで重要な言葉としては「想像的意識」という概念であろうと思われる。想像的意識-(視覚反映時における意識のもう一つの意識)については埴谷雄高の「意識」における眼球実験を捉えた小説も参考になるであろう。埴谷雄高については私の拙い過去記事「想像力の涯にみるもの」が参考になればさいわいである。とは言うものの読み進めば読み進むほど難解であることには違いがありません。ここでは取り上げることがないようにしますがいずれにしてもサルトルは『想像力の問題』を書き終え1942年『存在と無』を発表するわけですのでこの著作そのものが重要なモチーフになっているはずです。つまるところはハイデッガーのいうところの「世界内存在」(In-der- Welt-sein)と云う人間存在の規定に触れていくことにもなります。仏語でサルトルは世界内存在を〈etre dans le monde〉という表現で書いています。人間存在の基礎構造のありようがこの『想像力の問題』の行き着く先のはずであろうと思われるからです。
※写真はマルティン・ハイデッガー

●「ノエマ的」
ノエマとはもとギリシャ語のNoema。現象学において特殊な意味をもつ。即ち意識は作用の側面(ノエシス)と共に対象の側面をもつが、フッサールはこれはノエマ的内実(Noematischer Gehalt)またはノエマと呼ぶ。ノエマは具体的経験の中にあって核としての意味及び核の周囲に種々なる性格の層をもつ。ノエマは意識に内在的な要素であるが、実的ではなくてイデェール(ideel)である。ノエマはそれ自身の中に意味を蔵することによってそれ自身対象的である。ノエマは志向せられる超越体であり、ノエシス、又は意味賦与意識によって「先験的に構成せられたもの」である。意識の作用はこの志向される超越体であるノエマと、志向するノエシスの具体的な相関関係のうちに行われる。
-訳 註(平井啓之)-
●まず、マッハに戻ろう。マッハはマッハ的光景をパースペクテイヴ(遠近法)的に描き出した。遠近法においては、たとえば机は「平行四辺形」や「台形」に描かれる。しかし、私たちは、机を平行四辺形や台形だと見ているわけではなく、「長方形」だとみている。これをフッサールは以下のように論じる。私たちは、平行四辺形を「感覚」しているが、それを突破して、長方形を「知覚」している。あるいは、平行四辺形を「体験」しているが、それを突破して、その向こうに長方形を知覚・経験している。あるいはこう言ってもよいだろう。私たちは、「現出」の感覚・体験を突破して、その向こうに「現出者」を知覚・経験しているのである。
-谷 徹(現出者の知覚・経験と、現出の感覚・体験)-
●サルトルによれば、それは、かれ自身もこちらを見返して、この私を対象化しうる他の対自、他の意識主観たるところにあるのである。そこで、サルトルは他人を〈まなざし〉regardと定義する。たとえば、われわれは、自分が他人に見られている。まなざされていると気づいたとき、〈はずかしさ〉を感ずるが、このはずかしさの意識こそ他人の存在の明証なのであり、同時に自分が他人の意識の対象になっていることの意識、〈対他存在〉としての私の意識なのである。
-言語と社会(木田 元)-

※前提のための前提メモ
『意識はこの同じ椅子と二つの異なった仕方で関係するのである。』-イマージュは一つの意識である(既出)-
 メモ1において取り上げている意識の型の現象学的構造は『存在と無』にいたると対自としての自己意識であり即自としては自分以外の何ものかネアンとしての対象をかたちづくる”意識”として捉えられている。また、『世界内存在』をetre au mondeと呼びサルトルとは少し違った時点で捉えていたメルロ=ポンテイは物の感覚を知覚の次元つまり身体の運動によって開示されうるとし、身体を知覚能力の定位する場と設定し知覚能力と身体の間に取り交わされる関係の反省的意識に考察の目を向けた。1945年に発表した『知覚の現象学』においての身体から現出する形態化作用としての〈幻影肢〉の論究は興味深い物がある。またマッハ(Ernst Mach)が1886年に発表した『感覚の分析のために』をフッサールは根元的着想として止揚し乗り越えた。現象学を現象学たり得る学問に飛躍的に進めたことは知られている。マッハがいうところの「図」(自分の左目を通して見えた眼による世界イマージ)は全くの主観的イメージであるからから客観性がない、というところから、つまり「主観的」であるというイメージであるが故に見えていない世界イメージに変換されうるという「客観性」をもつ前提イマージと捉えれるということを示唆している。なかなか前に進むことが出来ないばかりか進んでは一歩後退気味な様な気がするのであるが、しぶとく潰していく作業に入るしかありません。少しはなにかがおぼろげになってきた様な気がする。ま、いくところまでいこうと思う。
※写真はエルンスト・マッハ

■想像的意識はその対象物をネアンとして措定する。

一切の意識は何ものかの意識である。非反省的意識は意識にとって異質の対象物を思念する(狙う)。たとえば、一本の樹木の想像的意識は、樹木、すなわち本来意識の外部にある一物体を思念する。意識は己れ自身をでて、己れを超越する。


私たちは想像的意識が己れ自身についての内在的で否定率的意識を有しているといいたい


イマージュとしての樹木の超越的意識は樹木を措定する。しかし、それは樹木をイマージュとして措定するのであり、つまり知覚的意識の仕方とは異なった仕方でそうするのである。


想像的意識の志向的対象物は、それが其の場に居合わさずそれで其の場にいないものとして措定されるか、或いはまたそれは存在せず従って非存在なものとして措定されるか、或いはまったく措定されないか、以上の何れかであるという特性を具えている。

 この辺のところはそんなに難解なことを述べているわけではないと思う。具体的な対象物のイマージュとしての捉え方の構造部分に言及しているのである。つまり、現出するイマージュはある種のネアンを内包しているということになる。意識が知覚の対象域を含めていながら純粋な意味での知覚作用と想像的意識と呼ぶものとの区別はされている。では『想像的意識はその対象物をネアンとして措定する』とは何か。この問題を更に進めてみよう。以下の引用によってもっとわかりやすくなってくると思う。

ピエールについての想像的意識を心の中に生じぜしめることは、過ぎ去った数々の瞬間を自らの裡に集める志向的総合をおこなうことであり、その志向的総合によって数多の出現を通じてのピエールの同一性が確かなものになり、或る一つの相の下に(横顔、四分の三身像、全身像、半裸像、・・・・・・etc)同一の対象物をもつことになる。この相は必ず直観的相である。現在の私の志向が思念する(狙う)ものは、身体性を備えたピエールであり、私がそれを眺め、聴き、触れ得る限りに於いて、見、聴き、且つ触れ得るあのピエールである。それは必然的に私の身体から或る距離をおいた身体であり、私に対して必然的に一つの位置を占めている身体である。ただ、問題は以下の点である。つまり、わたしは私が触れることも出来るあのピエール、そのピエールに、触れないことをも同時に措定している、ということだ。私の抱くピエールのイマージュとは、ピエールに触れずに、彼を見ないことの一つの在り方であり、彼のもつ、彼が斯く斯くの距りをおいて、斯く斯くの位置にいないための一つの仕方なのだ。

 どうやら核心に触れてきたように思う。イマージュが内包するネアンとは、すなわちサルトルが云うように「直感に不在のものとしてあたえられた、《不在的直感》的なのである」と云う言葉でいみじくも言及、付与されている。そしてこの論は更に想像的意識の非定立意識についての論究に入っていく。もうここまで来ればお分かりだと思うが、イマージュ(像)についての私たちの捉え方というものが単純に知覚作用、つまり身体的、肉体的感覚の行為に過ぎないのではなく、その向こうにあるものを対象とする”意識の作用”の存在が見えてきたと思う。この章に対する結論的な部分に最早触れ始めていることにもなる。しかしながらまだ入り口でしかないのは残念ではあるが先に進もう。まだまだここらあたりは難解な部分ではない、先には図、絵、色彩、記号、言語、演劇等々の空間の論理が待ち受けているはずだ。溜息をつくにはまだ早いのだ。

対象物についての想像的意識は、既に指摘したように、己れ自身についての非定立的意識を内包している。横截的transversaleとでもいい得るであろうこの意識は対象物をもっていない。それは何ものも措定せず、何ものについても教えることをせず、認識ではない。それは意識が己れ自身に向かって発した散漫な光であり、比喩を棄てていうなら、ここの意識につきものの名状し難い性質なのだ。知覚的意識は受身の形で現れる。これに反して、想像的意識は、想像的意識として、すなわちイマージュとしての対象物を生み出し且つ保っておく自発性として、己れ自身に対してあたえられる。それはいわば対象物が空無(ネアン)としてあたえられると云う事実の名状し難い別の面なのである。

 ここでサルトルは二度も「名状し難い」という言葉を使っている。比喩的な表現を使っていることから、つまりのところまだ、名状し難いからである。お楽しみはずっと後半になってでしか解き明かされることはないようだ。
続く
この稿は2004-08-06、2004-08-07、2004-08-09の三回にわたってはてなダイアリに於いて書かれたものを再編転載しました。

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