2012-08-27

仏文訳者祖川孝の冒険

 アルチュール ランボォ(Jean Nicolas Arthur Rimbaud)については随分惹かれるものがあり、年甲斐もなく且つ恥ずかしながらも今までいくつかの短い拙文(※参照3)を書いてきた。また、ランボォに関しての彼の手紙文の仏語版についてはネット上見ることも可能で得意な方はその「Lettres et Documents」を参照にされるのも良いかと思います。またランボォの手紙についてはこれとは別にアデンからアフリカへ渡ったりした前後のランボォを描くすぐれた著作を鈴村和成氏が「ランボー、砂漠を行く―アフリカ書簡の謎」としてあることも断っておきたい。
 さて詩業とは別にランボォその人についても若くして劇的な生涯を終えていることは今更ここで語ることでもないように思える。またその生涯についても語り尽くされていると云ってもいいだろう。しかしながら堅苦しさを除いたところで興味を持つときもある。
 ランボォの「手紙」についての様々な研究者的論究についてはいつも興味の尽きないものがある。そうではあるのだけど、「面白さ」がおまけとして付いていることはそんなに無いはずである。角川文庫クラシックスとして昭和二十六年版を複刻させた「ランボォの手紙」において、その訳業を果たした祖川孝氏の波瀾万丈的放浪を垣間見せる「あとがき的」面白さはある意味では格別のものである。お堅いばかりが能ではないのである。と私は思っている。
「ランボォの手紙」あとがきより-1
 この邦訳にとりかかった当時、わたしは事業の失敗やら女のことで、いっそ死んでしまいたいほどのつらい思いをさせられていた最中だったが、この「ランボォの手紙」一冊をかかえて、四国を振り出しに旅にのぼった。そして初めて腰を落ちつけたところは群馬県の友人の宅の土蔵の中であった。冬の土蔵は冷たかった。冷え込みからか、一週間足らずで猛烈な下痢をした。わたしは窖から這い出して東京に舞い戻った。それから知り合いのものの家に旅の身を寄せたが、そこもひどく逼迫していたのでそうそうにきりあげた。わたしの訳業は然し、名古屋、京都、大阪、四国、九州と流々転々の生活のうちに続けられた。その当時のせっぱつまって、死を希うほどの苦しい思いは、現在、明日の命も判らぬ病の躯でありながらも、今こうして生きているという時の推移と事実によって遠く過去の中に過ぎ去ったが、その時のわたしを救ってくれたものは、矢張りこの「ランボォ」であった。
  事業の失敗と、当然ながらの女のことも、ついでの話として出てきて興味が持たれるところである。逃亡先の土蔵での生活も意外だが、気の毒だなぁ、と思うしかない。下痢の中でもランボォの訳業への情熱は失わないでいるところが笑えないところでもある。そして更にあとがきは続く。
「ランボォの手紙」あとがきより-2
旅の空はたいていわたしひとりであったが、時々、女もいた。中には声をあげてわたしの原稿を読み、原文との対照を手伝ってくれた女もあり、また北九州、朝倉街道の甘木駅の旅館のお文さんという女中に、涙ながらに邪恋の悩を切々と話して聞かされ、しんみりなったこともあった。今となっては、あれもこれも、思い出深いものがある。  なお、この訳業に就いては、いつもかわらぬ宮崎嶺雄氏の適確な教示と、同氏御夫妻のななみなみならぬ尽力とにより、刊行の運びに至ったことを末筆ながら明記し、感謝の微意を表したいと思う。
昭和二十六年八月    祖川 孝
このようにして訳者の偉業は達成された。立派としか言いようがないだろう。だが、周りには女だけは居たようである。
※参照1:祖川孝氏のその他の訳業については昭和15年リルケRainer Maria Rilke「ロダンへの手紙」ほかシャルル・ボードレールCharles Pierre Baudelaireの「母への手紙」昭和13年、アルフォンス・ドーデーAlphonse Daudet『アルプスのタルタラン』 Tartarin sur les Alpes 昭和30年等、ぐらいしか判らなかった。氏の個人史についてはわたしの力不足のため目下のところ不明です。
※参照2:宮崎嶺雄1908-1980)東京生れ。東京帝大心理学科中退。岸田国士に師事、バルザック、サンド、メリメ、カミュ等、多くの仏文学を翻訳紹介。1941年、フランス文学賞受賞。戦後創元社編集長を務めた。-新潮社の著者プロフィールに依る。
※参照3:南無の納戸はこちらから「翻訳詩とはなにか」



2009-10-04

マージナル・ソルジャーを超えてゆくもの-2


芸術のもっとも基礎的な手法は、対象たる事物をそのイメージに代えることである。イメージであって、概念では決してない。
   -エマニュエル・レヴィナス1948年)-

 さて論を小説『セックスなんてくそくらえ』に再び戻すこととしよう。当該小説はネット上に於いてもまたそれ以外の理由に於いても現在未公開である。故にその概要を以下に簡単に述べて於くことにする。

小説の構成的な流れ:
 妻のマリコに「クレジットカードの支払いもできない金銭感覚のない男」と見限られ、実家に帰られてしまったマサオ(28歳)は、妻に生活費も送らずにその金で女を買いあさるようになる。都内のテレクラ、ピンサロ、ヘルス、ソープで金を使い果たしたマサオは、某掲示板の出会い系板で出会って何度かセックスをした女トモコと一緒に、セックスを商売にして何か始められないかと考える。ついにマサオはアダルトサイトのホームページを自宅のPCサーバーで立ち上げる。題名は「トモコの激ナマ・セックス日記」。トモコは小さいころ受けた性的虐待の影響か、露出狂の気があり、マサオはトモコを説き伏せて顔を隠した写真をホームページにアップロードすることにする。仕事は毎日6時に帰宅するようにして、セックス日記サイトの運営に専念する。マサオはトモコとセックスしながら、その様子を撮影して「トモコの激ナマ・セックス日記」に動画とともに掲載する。トモコの文章はすべてマサオが考えて書いたものだが、意外な人気を獲得し、固定ファンがたくさん来るようになる。やがてマサオのサイトを有料化し、有料会員限定でトモコのオナニーショーを生放送する計画を立てると、トモコのファンが数多く登録し、マサオはこれで相当稼げるとほくそえむが・・・。(以下略)
  -添附ドキュメントを参照し抜粋-

 これから書くことについては未公開小説について書くことになるので、私以外のものがこのエントリを読むことについてなんら想定出来るイメージというものが持てない事を承知している。しかし根底的な領域に於いては「叙情文芸-夏季・秋季号」に掲載された『重力の街』や『太平洋イルカクルーズ』と通底していることも確かである。そういった意味でも一度は通過すべきと思っているので以下簡略に述べていこう。
 六ヶ月前から妻と別居している主人公であるマサオはどこにでもいる一介の派遣社員のひとりとして描かれている。この場合のどこにでも居るという言い様には生活過程における躓きや生への困難性に遭遇するかも知れないという意味も含めて私は言っている。当然ながら小説的な物語をとりあえず仮構するにあたり主人公のバックグラウンドというものも重要な要素のひとつである。それは世界の中にいる主人公をも規定し拘束しうるということにもなり小説の持つ技法手順のひとつでもあるからである。そういう意味では実験的手法を使おうと意識したものはなくオーソドックスな手法を踏まえて物語は展開されてゆく。
 妻と別居したあとマサオが初めて女を買う場面は充分に現代風俗の断片風景を見せていて、これから起こりうるだろうトモコとの出会いの伏線となっている。ここに於いての風俗に群がる男達や女達の風景は寒々としていて主人公マサオの孤独さをよりよく際だたせているといえるだろう。つまり周りの無人格とも言える人々を描くことによって真の生というものに亀裂が入った世界に置かれたマサオの存在を表象している。また中盤に描かれてくるネットワークを介して存在する無名の人々の存在もマサオの置かれている空虚な世界を顕すにあたり必要欠くべからざる存在達である。顔を持たない謂わば舞台空間におけるオブジェの役目を十分果たしているとも云える。また、ただ世界にあるというだけのマサオの魂を描くためにはこの顔の無い存在が必要であったとも言える。
『セックスなんてくそくらえ』は以下のような滑り出しで始まっている。

 静かにうなりを上げるパソコンの画面に開かれたピンク色のホームページに、顔を隠した女の全裸写真が写っている。足を大きく開いた女の股間部分は巧妙に隠され、両手を伸ばして誰かを誘っている様子だ。その肌は上気しており、写真には男を受け入れたあとの気怠さがある。

 ここに描かれているマサオは妻との離婚理由について実感が伴わないまま別居生活になっていると言うことになっているが、これは明らかに生活過程における敗残者としての設定であり、つまり誰でもがそう見るように大衆的な正義というものに敗れ去った男の一人でもあるということを指している。こういう場合いかなる瑕疵もすべてはマサオにあるのであり、味方など誰一人いないと言うことでもある。もはやマサオは社会という掟の中で生きることを許されない男であり、その時点からは人々と異なる風景を見ていかなければならなくなる。そしてこのことはこれっぽちも自分の居場所など無いと言う意識の奥底の襞に潜んでいる深い存在の喪失感をも顕している。認めがたい現実が現実になり何を喪失したかも理解できない男がそこにいるのである。妻から離婚届を入っている手紙を開封しても添えられている妻の手紙を全く読もうとしない仕草にそれは顕れている。たとえ妻の手紙を読むとしてもマサオにとってはその現実というものが逆にリアリティの伴わないものでしかなかったのである。従ってそれは嘗て在ったであろう家庭そのもの自体がやがて無かったかのようにもなってゆく。人間はある日突然見慣れた広がっている風景が自分のものでないとしたら恐ろしいことだといえる。生きているわけでもなく、死んでいるわけでもなく、そのまま異郷に連れられてゆく男がそこに描かれているのだ。買春に群がる男女さえも彼にとって異郷なる風景でしか無く、しかも風景を選ぶ道さえも残されていないと言うことにもなるのだ。
 ここに於いて今後も推敲されうるかも知れない原稿を批判するのは申し訳ないのだが、本人のためにも今の内に言っておかなければならないことがいくつかあるので、まずそれから書き留めておきたい。上記引用部分は段落1の始まりの部分であり、技法的にでもここでこそ一挙に読み手を引き込まなければならないところであるがこの文節表現のところで私はいくつかの意識の裂断に見舞われることになった。それは読み手の像領域が思うように喩として結びつかなかったと言い直してもよい。あくまで個人的な見解でしかないが『静かにうなりを上げる』という書き方で「低い」ならともかく「静か」と「うなり」が直接的にもイメージとして噛み合わないと言うこともあるし『その肌は上気しており』という表現にもはたしてモニター上の女の写真画像に妥当であるかが引っかかってしまったのである。マサオが直接前にしてみる生身の女との違いはあるはずであり本来であれば他の直接的視覚場面で使われる表現方法でないかと思えたからだ。この引用部だけでも細かく見れば粗がありイントロであることを考慮してもう少し丁寧さが必要でありさらに推敲される余地が十分にあるのでははないかと思った。またこの段落1は全体の構成からしても技法的にももう少し長くして段落2、3、4(5?)に繋げたいような気もした。志向性の持続力が中断されない限りもっと濃密に描くことも出来たのではないかと思った。特に持ち込み原稿と考えているならば、こういっては悪いが、一種の手抜きは編集者に一番刎ねられそうな気もしたからである。

  -マージナル・ソルジャーを超えてゆくもの-3に続く-


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2009-10-03

マージナル・ソルジャーを超えてゆくもの-1


作品はありきたりな知覚を延長し、かつ乗り超える。ありきたりな知覚が卑俗化したものや逸してしまったもの、その還元不能な本質を、作品は形而上学的直観と一致しつつ把握する。通常の言語が匙を投げたところで、詩や絵画は話す。このように作品は、現実よりも現実的なものとして、絶対的なものに関する知識を自認する芸術的想像力の威信を証示している。
 -現実とその影-(エマニュエル・レヴィナス:1948年)註1

 根本正午氏を最初に知ったのは2007年初頭頃ではなかったかと思っている。無論会ったこともなく、あくまでインターネット上彼を知ったと言うことにしか過ぎなかった。当時の彼はその頃その持ちうる個性でもってブログ界の一角で確実な読者層を得、またその中にも一部熱狂的な支持者も居たように見受けられた。だが、それは所詮インターネットという広大な海の中の片隅の現象でしかなく「文学以前」と呼ばれるものがあるとしたならば、ある意味ではその多くが彼が対峙していると思い込んでいる世界の位相の軋みの一部を顕したものに過ぎなかった。そして彼のブログを斜めから見ていた私はある日彼が伊豆の修善寺に行った時の心象を描いた『八十八の石碑』というエントリに目がいった。ここで私はようやく琴線上で彼と初めて出会ったのである。彼は修善寺の山中にある弘法大師像の石碑に刻まれた梵字と歌を見るために地図片手に山中を革靴のまま歩くのである。いささか長いがその一部を抜粋してみよう。

  (前略)
僕は山道で見かけた一つの石碑からその存在を知り、すべては無理だが近場だけでも歩いてみようと地図を片手に回ってみていたのだった。
前日に降った雨で落ちた枯葉が土くれの上に貼りつき、足場は湿っていて危険だ。僕は大量のジョロウグモが作った巣をよけながら道を登っていく。
  (略)
足元に注意しながら緩い坂道を登っていくと、林の中に隠れるようにして、二つ目の石碑が見つかった。表面に指を走らせると、文字は岩に描かれているのではなく刻み込まれているのがわかるが、酸性雨だろうか、なんらかの化学変化により表面の色が変わっていて非常に読みにくい。近くに建っていた看板により内容がようやくわかる。
僕は手を合わせるべきなのかどうかわからず、傘を片手に持ったまま考える。高校生のころ、近所に住んでいたモスリムのマレー人が、いつかメッカを巡礼したい、と言っていたことを思い出す。メッカを巡礼した証しである白い帽子をかぶることが彼の夢だったのだった。註2
   (略)
ほとんど消えかけた文字が刻み込まれたこの石くれを拝むために、毎年訪れるという数千人の日本人たちのことを考える。「家内安全、無病息災を祈るのです」と、看板が巡礼者たちのことを説明している。僕には家族などいない、と思い、何に対して手を合わせるべきか逡巡する。ブログを読みブログを書く愚かな自分のためだろうか?
   (略)
答えを出せないままふと脇を見ると、ジョロウグモの巣に、虫がひっかかって死んでいた。僕はそのジョロウグモと、食われるために命を落とした虫のために、手を合わせることにした。いつかこの八十八の石碑すべてをまわってみたい、そう思った。
    -「八十八の石碑」-

 失礼な言いようにもなるがそんなに巧い文であるとは言えない。だが、しかし今考えると判るのだがこのエントリ自体が彼の迷いを振り切ろうとしている象徴であるとも思えた。彼はこの時まだブロガーであったのである。そして敢えて言えば匿名というウェブ界に於ける正体不明のブロガーでしかなかった。この場合の匿名という意味はプロの物書きであるのかどうかが不明であるという意味でしかない。現にブログ界では別名を使用したプロのライターの存在もあるし、その人達のコラムや雑文めいたものを読むことも可能である。また作家と呼ばれる人たちの相当数の方がブログを書いていることは周知の通りである。また作家であるからウエブログのエントリが優れているという保証があるわけでもない。それは単なる個人的な日記録であったり新刊の宣伝の役割を果たすべく広告塔であったりして必ずしも創造的なものであるというわけでもない。それらは原稿料を伴わない世界でもあり、当然といえば当然のことでもあるだろう。
 だから、その時のわたしの根本正午に対する予備知識はブロガーであることだけであった。また今、更にいうならば今回のエントリを書くきっかけと経緯に至ったネット上のメールのやりとりに依って結果的に築くことが出来た相互的な信頼関係だけであった。言うまでもないことであるが一般的にブログに書かれるエントリは読者であるネット・ウオッチャーというものを想定して書かれている。つまり相互的意志の交通手段としての言語が最優先されるということであり、言葉から文体までが書き手自身にもなんら拘束力を持ち得ない世界であることも示している。つまり社会的慣習のもっとも保守的に機能する言語によって書かれているものが大概のブログ文であるとみていいだろう。だがこれには当然大きな問題が残されることになる。つまり書き手の欲望が自らの想像力と抵触し始めるとどういうことが起こりうるのかという事を考えてみればいいと思う。そこには極めて本質的な自己存在の確証への欲求ともいうべき問題に行き着いてゆくはずである。まさしく根本正午はブロガーとしてだけではなく表現者の道を歩み始めたいという欲望に突き動かされてゆくことになる。世界にあるおのれの不可視の存在を視るということは想像力がもたらす世界の構築によってこそ切り開かれる。このことは通常のブログ文ではボーダーを超えることができないと言うことも指している。つまり境界者であるマージナル・ソルジャーから創造者根本正午へ架橋してゆくものはやはり想像的言語でしかなかったのである。
 2007年8月根本氏から彼が初めて書いた小説『セックスなんてくそくらえ』の初稿が郵送されてきた。これが私が読んだ初めての彼の生原稿とも呼べるものでもあった。当小説は25段落に分かれていて400字詰め原稿用紙にして凡そ80数枚によって成り立っていた。いうならば短編領域をわずかに超え中編と呼ばれるものとの中間に位置するもので量としていえば筆力がよく見て取れる分量であるといえるだろう。そしてこの小説はある文学賞に初挑戦した応募原稿だったので公表されていない。詩人井上瑞貴氏が根本氏の第2作目『重力の街』(叙情文芸2009夏)を読み、次の第3作目である『太平洋イルカクルーズ』(叙情文芸2009秋)を読んだ後どこかで呟いた「連作もの」の始まりはこの『セックスなんてくそくらえ』から始まったとも言えるのである。

2に続く

註1:「現実とその影」はレヴィナスが二次大戦後「捕虜収容所」で生き残った後に発表されたものである。ユダヤ人であった彼の親族や近しい者達も含めて多くはすでにかの「絶滅収容所」においてこの世にはいなかった。彼は収容所の中においてモーリス・ブランショから差し入れられた文学書を読み漁っていたが外部の「絶滅収容所」の中で行われていたユダヤ人に対する大量虐殺を信じがたい思いでいた。フッサールとハイデガーという巨大な思想家から多大な影響を受けるも収容所体験をしてハイデガー哲学の批判的立場を持つに至る。人間の持ちうる存在論的テーマを彼独自の「他者論」という展開で現代哲学におよぼした影響は大きい。主著としては『フッサール現象学の直観理論』、『全体性と無限-外部性についての試論』等がある。
註2:言い忘れたが根本正午氏は帰国子女である。

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2009-01-27

吉本隆明の「中学生のための社会科」

 昨年11月の「南無の日記」でもとりあげた吉本隆明の『中学生のための社会科』について再度言い足らなかったところを若干付け足して述べてみたい。もともとはミヤタさんのブログ「老いについてもう一度」-miya blog(要介護4の妻との介護&どたばた生活)2008年10月09日 -を読んで興味を持ち始めたのが動機である。この本に対する吉本の思いは巻頭に記されている。吉本隆明のおもいのすべを伝えるために引用文としていささか長いかも知れないが本書の位置づけを著者自身が述べているので巻頭文の「全文」を下記に転載した。
 はじめに
 この本の表題として『中学生のための社会科』というのがふさわしいと考えた。ここで「中学生」というのは実際の中学生であっても、わたしの想像上の中学生であってもいい。生涯のうちでいちばん多感で、好奇心に富み、出会う出来事には敏感に反応する軟らかな精神をもち、そのうえ誰にもわずらわされずによく考え、理解し、そして永く忘れることのない頭脳をもっている時期の比喩だと受け取ってもらってもいい。またそういう時期を自分でもっていながらそれに気づかず、相当な年齢になってから「しまった!」と後悔したり、反省したりしたわたし自身の願望が集約された時期のことを「中学生」と呼んでいるとおもってもらってもいいとおもう。
 ただ老齢の現在までにさまざまな先達、知人、生活、書物などから学んだり刺激を受けたりしたこと、体験の実感から得たものがたくさん含まれているが、すべてわたし自身が考えて得たものばかりで、模倣は一つも含まれていないつもりだ。これがせめて幻想を含めた「中学生」にたいする贈物だとおもっている。
 さあ、このくらいにしてあとは読者の理解や誤解の「自由さ」にまかせよう。
  2004年12月 吉本隆明記
 -はじめに「中学生のための社会科」より-

 この巻頭文を読んだ時に本年1月4日教育テレビで放映されたETV特集『吉本隆明が語るー沈黙から芸術まで』で見せた彼の妄念みたいなものを了解し、老いてはいるが思考ということに関しての極を我々に見せつけたのだと思った。この本についても簡易に書かれてるゆえの重たさみたいなものを感ぜずには居られなかった。
 大まかに言えば三つに分けられた章になっていてそれぞれを独立したものとして読むことも可能である。「第1章-言葉と情念-」となっていて詩作や詩表現から始まり古典に拠る日本語としての言語論も含めて我々にとって馴染みのある『言語にとって美とはなにか』で述べられてきたことの真髄が簡潔に述べられている。「第2章-老齢とは何か-」においては身体と意識の乖離からくる老いの認識についての識知とされているものへの批判的止揚として自らの身体とそれに伴う意識の現象において私達にとって非常に興味のある分析を行っている。特に72歳だったか、ちょっと失念しているが吉本自身が静岡の海岸で溺れた時の事後記録【溺体体験以後の後遺現象】については譫妄体験を語っていて、私が正月早々体験した前妻の低温療法手術後の譫妄現象と重なり個人的にも非常に惹かれるものがあった。また「第3章-国家と社会の寓話-」に於いては国家、民族、社会という共同体のはざまで生きるにあたり、共同性と個人という生き方にまで言及している。またこれらの章は吉本隆明を少しでも読んだ者にとっては既に聞き慣れた内容も含まれている。或る意味では吉本隆明の大著である『言語にとって美とはなにか』であり、『共同幻想論』であり、『心的現象論-序説-』で述べられてきたものと重なり合うと見る向きもあるかも知れないが一つの情況論として捉えるなら、より現在的であり優れた著作として読むことが出来るだろう。いうならば決して大著ではないが一種の飲み物としてたとえるなら濃縮ジュースみたいなものであり、初心者にとって難解な言葉を選ばず核なる部分を出来るだけ平易さを意識されて書き下ろされているのではないかと思う。だからといって取り上げられている項目内容の質については決して普通で言うような平易なレベルでもないところがミソではある。
このエントリィははてなダイアリ「愚民の唄」2009-01-23に書かれたものを加筆、編集し転載しました。
中学生のための社会科中学生のための社会科
吉本 隆明

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2008-10-09

アデンからハラルへ-「ランボー、砂漠を行く(アフリカ書簡の謎)」-


 アルチュール・ランボー(Jean Nicolas Arthur Rimbaud)が若くして、いわば詩作を放棄して、アラビアのアデンへ旅立ち貿易商社に従事し、その後アフリカのアビシニア(エチオピア)に渡ったことは広く知られている。そしてそれは一種のランボーの謎となって、さまざまな論究が為されていることも承知している。しかし、やはりこれは謎なのであり、凡人の想像力をくすぐる文学上のミステリィとも言えるだろう。
 さて、この書はまさしくランボーがアデンとハラル間を行き来し、最後の地として故国マルセイユの地で妹イザベルに看取られながら37歳で亡くなるまでの書簡を文学的想像力によって出来るだけ時空間を拡張せしめた労作であるといえる。また、ランボーの「詩」と「書簡」との間にある、つまり、詩作をやめた21歳からアデンに始まりマルセイユで終わる個人史的時間の前後差をその関係の絶対性とも言うべき中からランボーの繰り広げた詩的言語空間に逆照射させてみせたものでもあるといえよう。著者鈴木和成氏がいみじくもランボーに取り憑かれるように惹かれ取り組んできた中で思念に残るものをその本書の「追い書き Voici la date mystérieuse」の初頭で『私はランボーをいつでも終わりから読んできたような気がする。』と書き記している。まず謎を解く「アフリカ書簡」がはじめにあり「地獄の季節」、「イリュミナシオン」があったという鈴木氏の気持ちがそのまま「ランボー、砂漠を行く」に結実化したものと思われる。また、彼の師である井上究一郎教授()との研究室でのやり取りも一種の禅問答のようで興味深く、研究者としての井上究一郎の凄さを窺わせる。
 「ここに神秘な日付が来る Voici la date mystérieuse」とマラルメは言う。ランボーにおいて詩が終わり、沈黙が始まる時期のことを言っているのである。詩が沈黙と触れ合い、共鳴し、沈黙へと身を譲り渡す時期、私にはランボーの問題はそこにしか見つけられなかった。修士論文の指導教官だった-今は亡き-井上究一郎教授の研究室で、そんなランボー論を書きたいというと、教授は「ランボー論を書こうなんて思ってはいけない。ランボー研究だよ。」と釘を刺された。私は百冊以上の研究論文を読み通し、ランボーの詩が沈黙と触れ合う「神秘なdate」について諸家が述べるところを探索し、カードに採り、それらの資料を元に「『イリュミナシオン』の成立と詩人の死」と題する論文を提出した(これは『ランボー叙説-「イリュミナシオン」考』として1970年に一書となった。)
 その後も、ランボーにおける「神秘なdate」は私に憑いてまわることを止めなかった。
(後略)
  -追い書き Voici la date mystérieuse「ランボー、砂漠を行く」鈴村和成著より-
 後日それは研究室に閉じこもる「研究者」井上究一郎教授から鈴村氏に至る中で確かに鈴村和成氏の「ランボー論」の中核を占めるようになっていったのである。「文学者」鈴木和成の誕生とも言うべきものなのだろう。それは後に続く言葉にいみじくも表れている。
 言うならばランボーはアフリカ書簡の一通毎に詩の放棄を行っているのだった。そこに詩があるとするなら、砂漠に風が描き出す風紋に似たものだっただろう。そこでは生成と風解が同時に進行しているだろう。ランボーの詩はそのように詩の放棄と背中合わせになっていた。
 ランボーが詩を棄てた”時”というものは、もしそのような時があるとするならば、それは砂漠の砂のようにどこまでもちりちりに手のうちからこぼれ落ちてゆくものであるに違いなかった。ランボーにとっての時とは、詩の放棄そのものではないかと思われた。

註:井上究一郎(いのうえきゅういちろう、1909年9月14日 - 1999年1月23日)は日本のフランス文学者、翻訳家、エッセイスト-ウィキペディア
※仏語の出来る方は右記サイトへ:「アルチュール・ランボー書簡集」(1870-1891)
※このエントリィは「愚民の唄」2008-08-13に書かれたものを転載した。
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2008-08-20

批評の本質

 保坂和志と高橋源一郎そして笙野頼子氏等に端を発した『小説は小説家にしかわからない』事件って『事件』なのかどうかは別としてなんか色々とネットをヲチしてたんだが私から見ると「論争」といえるものなのかどうか分からない。一種の文壇政治ゴシップみたいに思うのは不遜であるかも知れないが見え隠れする作家という矜持に違和感みたいなものを持ってしまった。いわゆる作家先生の鼻持ちならなさみたいなものに不快の念を禁じ得なかった、と云う風に言ってもいいだろう。しかし今となれば記憶の隅っこに移動してしまっていて当初感じた苛立ちは消えてしまっている。
しかし、最高の批評は作品からおもいがけないものをつくりだす創造作業だ。作品に価値を与えることができる。作品を鐘になぞらえてハイデガーがそういっている(とブランショがいっている)。批評はその鐘を打つ打ち方で、だれも聴いたことのない響きをつくりだせたとき、その批評は最高の批評なのだ、と。しかも、その批評のあと、その響きは、はじめから鐘が持っていたものだとされる。作品を輝かせると、そのときにはもう批評は消え去る。触媒に、「消える媒介者」にすぎないものとなる。その消滅こそが、批評のほこりなのだ、と。
 -「欲望なんてものはない」-坂のある非風景-

 批評が批評たりえるのはM氏がいうとおり作品の雰囲気を批評家たるものがどう伝えることが出来るのかでしかない。そしてその点で批評も文学という範疇に棲息出来うるものだと思っている。そして批判も批評のひとつでもあることは自明である。また世に棲む作家と呼ばれる人たちと批評家と呼ばれる人たちのせめぎ合いも有りとしなければならないだろう。読者というものが存在する限り「批評」と呼ばれるものも存在するのだ。レヴィナスは読み手となっている人たちを「受容者」と呼んでいて『現実とその影-Emmanuel Lévinas1948年』のなかで批評の本質を以下のように述べている。
マラルメを解釈することは、マラルメを裏切ることではなかろうか。マラルメを忠実に解釈することは、マラルメを抹殺することではなかろうか。マラルメが曖昧に語ったことを明晰に語ること、それは、マラルメの曖昧な語りの無効性を明かすことではなかろうか。
文学の営みとは区別された機能としての批評、専門的で職業的な批評は、新聞や雑誌の文芸欄や書物として登場するのだが、そうした批評がうさんくさいもの、存在理由なきものと映るということも、もちろんありうるだろう。
けれども、批評の源泉は聴衆や観衆や読者の精神のうちにある。こうした受容者たちの振る舞いそのものとしての批評が存在するのだ。美的喜びに溺れることで満足することなく、受容者は、語らなくてはならないという抗しがたい欲求を感じる。
芸術家が作品について当の作品以外のことを語るのを拒む場合にも、受容者の側には語るべきことがあるということ、-黙って観照することはできないということ-、それが批評家の存在理由である。
批評家をこう定義することが出来る。批評家とは、すべてが語られてしまったときにも依然として語るべき何かを有している人間であり、作品について作品以外のことを語りうる人間である、と。
-【芸術と批評-p303】(『現実とその影-Emmanuel Lévinas1948年』合田正人 訳)-

 そして断固それは芸術家が蝿を払うようにしてもそれとして存在する。
このエントリィは「愚民の唄」2007-12-23に書かれたものを転載した。

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2008-08-19

Epistrohy

 唐突だが私はEric Dolphy(エリック・ドルフィ)のEpistrohyが好きだ。そして私はEric DolphyのIron Manが好きだ。それもほとんどミーハー的にまで、だ。前者のサックスの咆吼、後者のBobby Hutcherson:vibesとの絡まり方はまるで狂気の万華鏡の世界を展開する。涯的宇宙空間での時間性への鬩ぎ合いとでも言えばいいのだろうか。対峙する意識としての外化不能までに空間性を消滅させ時間的に意識を浸食し始める。そう、まさに暴力的である。私はそこではひたすら自分の意識の消滅を祈り、物理的時空を超越しようとする。想像的意識はひたすら下降ホールを底へ、底へと落下していくのだ。そして辿り着くのは根源的な意識としての存在だけの世界である。あてどもなく彷徨う時間軸の先にある存在、だ。魂への揺さぶりとはそういうものなのである。
When you hear music, after it's over, it's gone in the air
You can never captune it again

- Erick Dolphy (Last Date)-

alt saxプレイヤーとしてのエリック・ドルフィの最後の言葉であることはジャズ・フアンの間ではよく知られている。音の作り上げた空間を良く言い表していると共にこれほど想像力の世界を言い当ている言葉は無い。

※このエントリィは「2004-02-27」にはてなダイアリに書かれたものが転載されたものである。
Last DateLast Date
Eric Dolphy

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2008-08-18

metaphysical ”Nardis”part three

 トランペット吹きがピアノ・トリオにピッタリの曲を創るって事は別に不思議ではない。人々の思いこみという観念の位相は時としては腹もふくれない「知識」というヤツに幻想を抱くものなのである。そしてそれは決して普遍性を有する「智慧」には到達しない。Bill Evansに関しての伝説や憶測はごまんとある。もっともそれに負けないくらいMiles伝説にも「嘘」があっていい。だから私はしたり顔で言う、彼が、Bill Evansがユダヤ人であった場合はどう論ずるのだ?と。この「ノート」も例外ではない。逸話は「逸話」として置いておけば良い。己の観念に取り込まれるのも愚者の常なのだから。そしてなんと言っても私は愚者である。
 さて魂を揺り動かされるという事は一体どういう事を指すのか。フレーズが紡ぎ出すえもいえない空間とは何なのだろうか。それは日頃は感ずる事もなかった「曲(絵画でも良い)」に急に感動を覚えたり涙したりする事は誰もが体験する事である。いわゆる”そこ”が泣き所といわれる所以である。しかし、そのことが本当に魂を揺さぶっているのだろうか。その波長で「気分が高揚したんだ」と。しかしながら私は言う「だからなんだ」と。高揚しない場合もあるのだ。鬱病患者を擬態化させようと目論むα波の音のことを言うのであれば心療内科の医者に任せておけばよいのだ。そしてそのような事を論ずる批評家然とした輩は放置、である。
 再びRichie Beirachへと戻ろう。私はpart oneにおいてBill Evans(P)とScott Lafaro(B)の関係を述べたかと思うが、では、Richie Beirach(P)、Frank Tusa(B)、Jeff Williams(Ds) のトリオはどう見えてくるのかを考察したいと思う。BeirachはおそらくこのNardisに向かう前にソロで数え切れないぐらいの試行をしたはずである。時間軸への挑戦である。当然の事である。おのれのNardisとEvansのNardisは時代性の位相差があるからである。今、目の前にある Evansトリオの音楽空間をBeirachはどのように止揚しようとしたのか。いかにもあっけない答えかも知れないがBeirachもEvansのようにしたのである。ご存じのようにEvansのNardisは1Takeだけではない事はよく知られている事実である。かれにとっては何度も何度も極めようとした特別のテーマだったのである。(何故特別なのかという事については後日述べようと思っている。)Beirachはソロで試行したであろう時におのれの時間軸を徹底的に駈け抜けたはずである。そしてその極みにあるおのれを見た幻覚にとらわれそうになったはずでもある。しかし見る事は出来なかったのである。そしてEONでの NardisのTakeに取り組んだのだ。そして後日何度もNardisに取り込まれる事になったのは周知の通りである。果てのない囚われの幻視に向かって・・・。

※このエントリィは「2004-02-26」にはてなダイアリに書かれたものが転載されたものである。
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リッチー・バイラーク フランク・トゥサ ジェフ・ウィリアムズ

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2008-08-17

metaphysical ”Nardis”part two

 ピアニストBill EvansにとってのベーシストScott Lafaroの存在はお互いが「高まり」を共有出来る無比の存在であった事は先程述べているところであるが、彼とのsessionはScottのあっけない交通事故死によって終わっている。時空間の恋人同士であった片方の「死」はある意味では無惨ではあるがエバンスにとっては彼との空間を止揚するmotifにもなったはずである。己を先行するベーシストを失ったEvansの取るべき道はたゆまぬ時間化度への進撃である。後日のピアノ・トリオとしてのピアニストであるBill Evansは孤高である。
 このNardisであるがRichie Beirach(Richard Beirach)が様々な位相で取り組んでいる。リッチィ・バイラークは1947年NYのブルックリンで生まれている。私とほぼ同年である。名前から推察すると北方ヨーロッパ系移民の血を引いているようにも思える。彼のBill Evansへのこだわりは彼のアルバム(discography)からも窺い知ることが出来る。ECMレーベルから発売されたリッチィの初リーダーアルバムEON(1974年11月NY)のなかでNardisはとりあげられている。楽器編成はRichie Beirach(P)Frank Tusa(B), Jeff Williams(Ds)のピアノ・トリオである。このトリオで翌年もう一枚(Methuselah)つくられている。が、目指しているところからするとEONのほうがより「内省的」であり3枚目となるSunday SongにおけるTusa(B)とデュオに至る方が自然のように思える。EONのNardisは意欲的であり挑戦的である。当然の事ながらコードやフレーズから感じられるものは眩いばかりの Nardisへの「愛」でありBill Evansへの切ない想いの咆吼のようだ。何度も何度も虚空に向かう「フレーズ:仮講線」はTusaのベースによって高められていく。それでも”失墜”していく様はおどろおどろしいまでのピアノ独特の空間を形創る。Evansが試みたように”憑依”され何かを超えようとするかのように、だ。そしてBeirachは美学的に云うならばNardisというabstract artを造形したのだ。

※このエントリィは2004-02-24に「はてなダイアリ」に書かれたものが転載されたものである。
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2008-08-16

metaphysical ”Nardis”part one

「ナーディス:NARDIS」は1958年MilesがCannonball AdderleyにRIVERSIDEへ移籍した初レコーディング・アルバムのお祝いに書いた曲である。長年マイルスに同伴していた彼の労苦のお返しに書いたと云われる。と、されている。オリジナルにはTAKE4・5とある。当時マイルスのバンドでピアノを弾いていたBill Evansやポン中のPhilly Joe Jonesが参加している。しかし、世間的にはどうやらBill EvansのNardisの方が知られている。プロデューサーでありミュージシャンであるBen Sidranの”逸話”が真実に近いとするならば帝王Millesのパクリであろうと推察される。笑えるではないか。シドレンを逆から読めばいいのだ・・・。つまりBill Evansの作曲と見るのが自然なのである。
 さてそのB・EvansのナーディスであるがきわめてどのTAKEも思索的である。彼のレパートリーの中でもこの曲だけは時間が経過していくほど形而上学的でもある。JAZZ的にどのTAKEが良いのかという問題ではない。sidemenや環境にもよるからだ。確実に時間性を獲得していく空間として云うのだ。ある意味ではこの曲は示唆的でもあるかも知れない。自己表現としての時間化度の深化を彼がこの曲で試していると言う事にもなるのだ。彼は1980年に亡くなっていて私はその2年前の冬に金沢のコンサートで会っている。楽屋でのきわめて短い時間でしかなかったが我々の質問に根気強く静かに応える彼の姿が印象的であった。ついでに云うならば握手した手が私の倍以上もあった事を覚えている。最初の一音に彼の時間化度が推察され、サイドの音はその後から来る。美しい!だが、これは違う!と云うのが正直な気持ちでもあった。おそらくメロディラインにまで昇華してくるScott Lafaroと自分の意識の中で較べていたのかもしれない。時空の中の「ケルン」であったScott Lafaroこそは彼を時間の極みにまで到達させたのではないだろうか。

※このエントリィは「2004-02-23」にはてなダイアリに書かれたものが転載されたものである。
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