2008-03-06

詩的言語あるいはイマージュについてのメモ1

希望と同じだけの挫折を実現する錬金術師たち


 一つの対象や一つの方法についての詩的認識は、全文体を引き入れる、と言ったのはガストン・バシュラール(Gaston Bachelard)だったが、詩的言語の繰り出すイマージュの論拠を考える上で参考になるだろう。
 自己表現する意識にとって、第一の恩恵とはイマージュであり、このイマージュは、その表現自体においてその大きな価値を持っているものである。
 自己表現する意識!それ以外のものがあろうか?
 -La terre et les reveries du repos-Gaston Bachelard(「争う内密性」から

 そして詩人達はこのイマージュの中で弄ばれ、やがて一つの方向性を見出すが、その独自性ゆえ、またそれ故に単なる虜となってあたかも在るかのような言葉で以て言葉の罠に陥る。勿論バシュラールの言う通り、「希望と同じだけの挫折を実現する錬金術師」は想像力の行き着く所までその行動に従い、イマージュの対象の形成物を触ろうとする。この一種の受け入れがたく相反する極を詩の持つ根源性といえるだろう。また、もう少し言を一挙に滑らせると『言葉というものは本質的に実存の否定を含むものであり、この否定を通じて初めて言葉による創造は成り立つ』とモーリス・ブランショは言っている。また大岡信は『「現代詩」の成立-言語空間論-)』のなかで詩のイメージを以下のように述べている。
言葉はイメージをよび起こすことができるが、イメージが出現するということは、すでに対象物がそこにないということである。イメージは対象物の不在によって成り立つものである。・・・(中略)・・・それはすでに、肉眼に見え、肌で触知できる「現実の空間」ではなく、むしろその種の空間の不在によって成り立つ「虚の空間」である。
 「現代詩」の成立-言語空間論-大岡信

 別に意図的に引用したわけではないが極めて興味深い言葉である。時代性を考えると、あたかも現象学のごときである。そしてこの「虚の空間」が無限という観念にまで到る一切の可変的で伸縮自在の観念を包合する、と。つまり詩的言語の可変性を時間性の中で突き動く『言葉』として捉えている。
カーネーションが赤い、ということは、赤いカーネーションを指示するだけである。一つの豊かな言葉ならば、たった一言でそれを言うことが出来るだろう。赤いカーネーションを前にした場合には、だからその赤い香りの叫びを表現するためにむすびつけられたカーネーションという言葉と、赤いという言葉以上が必要であろう。誰がその花のなまなましさを語ることが出来るだろう。このような大胆な花を前にして、われわれの想像力のサディズムとマゾヒズムを誰が働かしうるだろうか?赤いカーネーションの匂い、視覚によってさえも無視することが出来ないそのカーネーションの匂い、ここにこそ直接的な反応性の匂いがある。言いかえるならば、、その匂いを言わずにおくか、さもなければ、それを愛するかが必要だと言うことである。

 ガストン・バシュラールはこのようにも言った。恣意性をあたかも装うように意識的にイマージュにすり寄れたとしてもイマージュの方に質的な生成力を持ちえない場合は赤い、という鮮烈さが伝わらないであることも事実なのである。さて最後にもういちどガストン・バシュラールがエドガー・アラン・ポーについてのべた言葉を以下に引用してみよう。
イマージュを、緊張した想像力の行為自体の中で経験しなければならない。作家によって与えられた知覚しうる証拠は、表現の方法の状態として、読者に対して全く根元的イマージュを伝える方法として判断しなければならない


※ガストン・バシュラールについてはGaston Bachelard

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